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 初恋 <1>  教育実習生:佐多香織

「T大教育学部から教育実習に来ました佐多香織と申します。高校2年の春に親の転
勤で転校してしまいましたが、私もこの学校に中学から通っていました。今回5年ぶり
に母校に帰ってこられてとても嬉しいです。どうぞ二週間よろしくお願いいたします」

懐かしい斗南中学、そして斗南高校・・・私はこの学校にどうしても帰ってきたかった。
5年ぶりの母校は、まるでそこだけ時間が止まっていたかのように、あの頃と何も変わ
りなくそこにあった。
今日から二週間、私は教育実習生としてこの学校に通う・・・形はどうであれ、やっと帰
ってこられたという思いに、胸が熱くなる。

私は、昔の恩師たちが見守る中、職員室での挨拶を済ませそっと窓の外へ視線を投げた。
校舎間にかかる橋が見える。

―あの先に、大学がある・・・

私が、どうしてもこの学校に帰ってきたかった本当の理由がそこにある。

―入江直樹・・・彼にもう一度会いたい。

この学校を離れてからも、ずっと私の心を占めていた人・・・あの切ない初恋に決着を
つけるために私はここに帰ってきた。


「入江琴子です。どうぞよろしくお願いします」
自己紹介の緊張がほぐれて、ふと昔に思いを馳せていた私の耳にふいに飛び込んで
きた声・・・

―入江?・・・

職員室の端に、横一列に並んで先生方に向かって挨拶をする10人程の実習生の中に
彼女はいた。
長くて真っ直ぐな髪、同い年とは思えない子供っぽい顔立ち、なぜか先生方の苦笑をか
いながら照れたように頭を下げていた。
その時の私は、彼女がただ”入江”という名前だったから顔を向けただけで、それ以上の
感情はなにも抱かなかった。

そう・・・挨拶が終わり、列が崩れた時にほんのひとこと隣に立っていた元A組の同級生に
声をかけるまでは・・・

「最後に挨拶した人、なんだか実習生って感じじゃなくてまだ高校生みたいよね・・・」
私は、その元同級生にそっと耳打ちするように言った。

「ああ彼女?・・・元F組なのに、先生になろうなんてね〜でも、あの旦那さまがついてれば
元F組でも教師になれるかもしれないけど!」
元同級生は、ちょっと皮肉をこめたような言い方で言うと、私にウィンクして見せた。

―えっ?・・・

その瞬間、私の頭をある予感と共に閃光が駆け抜けた。
自分の席に戻ろうとするその元同級生の腕をつかんで振り向かせると、私はその予感が
もたらす言葉を口にした。
「あの子の旦那って、もしかして・・・」
ためらいがちに言葉を濁したのは、相手がイエスと答えるのが恐かったから・・・

でも、元同級生は私の言葉を受けるように、皮肉な笑顔を崩さずに言った。
「そう。香織だってよく知ってるでしょ?あの天才入江直樹よ・・・今はこの大学の医学部に
いるわ。あのクールな天才がどうして、元F組の相原琴子と結婚したのかっていうのは、こ
の学校始まって以来の大きな謎よ・・・」
元同級生は、お手上げというように両手をあげて肩をすくめると、あらためて自分の席へ
戻っていった。
私はなんとか平静を装って自分の席に戻ると、実習期間の担任を任されたクラスの名簿
を目で追いながら必死で考えていた。

―あの入江直樹が結婚?

この5年の月日が、いったい何を入江直樹にもたらしたのか・・・
それは、5年前までの入江直樹しか知らない私にしてみれば、月が太陽に変わってしまっ
たようにさえ思える出来事だった。

「おい、相原!お前が実習に来るって聞いて、俺は耳を疑ったぞ・・・本当だったんだな。
旦那に助けてもらったか?」

「先生!私、もう相原じゃなくて入江ですよ!間違えないでください。今回のことは自分で
決めたことなんですから、入江君の力は借りないでがんばるんです。」

入江琴子と、元恩師らしい教師との会話が聞こえてくる。
自分の旦那を”入江君”と呼ぶことに半ばあきれながら、あらためて彼女が入江直樹の妻
なのだと思い知らされた。

私は、その日一日の実習を難なくこなしながら、ずっと入江琴子を観察していた。
初日からA組の授業を任された彼女は、職員室に戻ってくるなり机に突っ伏してかなり落
ち込んでいるようだった。

どこをとっても平凡・・・正直に言えば決して頭もそれほどいいようには見えない。
それなのに、どうして彼女が入江直樹の妻なのか・・・彼に愛されているのか・・・
どうしても納得行かない気持ちが、次第に入江琴子への興味を深めていった。

私は入江琴子に声をかけるチャンスを狙っていたが、私が帰り支度を終えても、机に向か
っている彼女をみて、その日はあきらめて帰ることにした。
それから数日の間は、さすがの私も余裕のない日々を過ごし、入江琴子とも挨拶を交わす
程度で特別な会話をすることもなかった。

そして、実習が始まって最初の週末が訪れ明日はお休みという気楽さから、私は元同級生
たちと、高校の校舎を訪れ、懐かしい教室を見て回った。
中学の校舎とさして変わりもないのに、不思議とあの頃の自分が蘇る・・・
必死に勉強しながらも、切ない恋に身を焦がしていたあの頃の私・・・
もちろん、入江直樹が私の気持ちを知っているはずなどない・・・彼のそばにいたければ、
恋の話など決して口にできるものではなかったから・・・
だから私は必死で勉強した。
絶対にA組に居続けるためには、それ以外方法などなかった。
そして、いつか大人になった時にも、彼のそばにいられることを密かに期待しながら・・・

彼は、さして勉強をしている風でもないのに、中学の時から、テストはいつも満点のトップ。
スポーツ万能でありながら、物静かな佇まい。
教室の窓際の一番後ろの席がいつも彼の指定席で、そこは私にとっていつも神聖な空間
だった。
一人でいることを好んでいるようだったけど、クラスの行事などではいつもみんなを引っ張
っていた。
誰かとふざけたり、じゃれあったりする姿は見たことがなかった。
寂しいことだけど、私の記憶の中に入江直樹の笑顔はない。
彼の周りにはいつも不思議な空気が流れていて、誰も寄せ付けない強い意志のようなもの
を感じていた。
それでも、それが何よりも私の心を掴んで放さなかった彼の魅力に思えた。
だから勉強のこと以外に興味のなさそうな彼に近づくには、せめて彼のレベルについていけ
るだけの学力が必要だった。

少なくとも、その頃の私はそう思っていた。

「ねえ香織!・・・ほら、前を歩いているの入江君じゃない?」
元同級生の言葉が、過去を浮遊していた私の意識を一瞬にして現実へと引き戻した。

教育実習に来て一週間目で、やっと彼を見つけた・・・
しかし、高校の校舎を後にして校門へつづく道を歩いていた私は、視界に飛び込んできた
背の高い後姿に、不思議にも懐かしさよりも軽い憎しみを覚えていた。

それが逆恨みだとわかっていても、実習初日のほんの一瞬で5年間の思いを打ち砕かれ
た私の心は、行き場を失ったままくすぶりつづけていたのだから・・・

―私はここへ何をしに来たんだろう・・・

この数日間に、何度も浮かんでは答えの出なかった疑問。
今、やっと彼の背中を目の前にして、しぼんでいた心がその答えを求めて再び動き出す
のを感じていた。

「いり・・・」 「入江くーーーん!!」
私が、振り絞るようにその名前を呼ぼうとした瞬間に、その声は聞こえた。

アスファルトを蹴って走ってくる靴音が後ろから近づいてきて、あっという間に私を追い
越していく。

彼が振り向く。

5年ぶりに見た入江直樹の顔・・・

「やったー追いついた!絶対にこの時間ならこの辺りにいると思ったの!」
弾むように彼の腕に飛びついた入江琴子が、満面の笑顔を浮かべて言った。
「みつかりたくなかったよ・・・」
彼が答える・・・少し鬱陶しそうに、でも確実に微笑みを浮かべて・・・

―あの入江直樹にも、あんな顔が出きるんだ・・・

私は、もしかしたらパニックを起こしかけている心の片隅でそんなことを考えていた。
感情を表に出さず、いつもクールだった入江直樹の笑顔は、新鮮な驚きと共に私の心
に焼きついた。

そんな時、二人のやり取りを呆然と見つめていた私を彼の視線が捉え、私は逃げ出した
い気持ちを堪えて、彼を見つめ返した。
しばらく私の顔を見ていた入江直樹が、おもむろに私の名前を呼んだ。
「佐多香織?」

彼の視線を追って、私に気付いた入江琴子が、笑顔で手を振った。
「佐多先生、お疲れ様です。今帰りですか?」

「ええ・・・入江先生もお疲れ様でした。やっと週末ですね・・・」
私は取ってつけたような笑顔を浮かべて、二人に近づいていった。

「そうか!佐多先生も高校2年まではA組だっただもんね、入江君のこと知ってるんだー!」
入江琴子が、屈託なく言う。

「入江君、私のこと覚えていてくれたんだ・・・もう忘れられてると思ってたわ」
私は、入江琴子に微笑みを返しながら、彼に言葉をかけた。

「顔と名前くらいはね・・・ほら、行くぞ!」
後の言葉は入江琴子にかけた言葉・・・5年ぶりの彼との会話はあまりにも素っ気なかった。
でも、それが私の心の中に、あの頃の入江直樹を鮮やかに蘇らせていた。

私はその時二人の背中を見送りながら、心から知りたいと思った。
どうして彼女は彼をあんな風に微笑ませることができるのか・・・
そして、どうして彼は彼女を愛するようになったのか・・・


それは、5年もの間ずっと忘れることができなかった、この初恋と決別するために、必要な
ことだと私は思っていた・・・



                                          つづく


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