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 女神のくちづけ <3>  医学実習生:桐生聡志

<あの入江は無愛想な奴だけど、医療に対する情熱には並々ならぬものがあると・・・>
<私だったらきっと嫌だろうなって思うもん・・・>

俺の心の中に不規則に並んだ黒い点が増殖し始めていた・・・
それは、確かに何かを形作っているのに、あまりに近くにいすぎて何なのかがわからない。
全てを視界に納められる場所まで、離れればわかるかもしれない・・・でも、俺は今立っている
場所から動くことが出来ないでいる・・・ましてや後退することなど決して・・・

静まり返った大学の講義室に、パンッ!という乾いた音が響き渡った・・・

それは、俺がノートパソコンのエンターキーを力任せに叩いた音。
講義が終っても残っていた数人の学生達が、一斉に俺を見ている視線を感じる。
それでも俺は、一瞬動きを止めて自分の指を見つめてから、何事もなかったように再びキー
ボードを打ち始めた。

その日は、午前中に必須の講義がひとつあったため、朝から大学へ来ていた。
この後はまた病院へ行くことになっているため、俺は先に今終ったばかりの講義のレポートを
まとめておこうと、講義室に残ってパソコンに向かっていた。

「おい、桐生?・・・お前、最近なんだかイライラしてないか?」
少し離れた席で、同じようにレポートを書いていた友人が俺に声をかける。

「別に・・・」
俺は、キーボードに指を走らせたまま素っ気なく答えた。

「そうか?・・・それならいいけど・・・」

目の端に、俺の顔を不審げに覗き込んでいる友人の顔が見えていたが、俺は何も答えずに
そのまま液晶のモニターを見つめていた。

確かに、俺はイライラしていた・・・
自分の気持ちなど、いくらでもコントロールできると思っていたのに、俺の苛立ちは回りから見
てもわかるほどなのか・・・

俺の中で何かが変わり始めているのはわかっている。
でも、それが何なのかわからないジレンマが、俺を苛立たせているんだ。
ただ、パソコンのモニターを見ているはずなのに、俺の脳裏には医局長や入江琴子の言った
言葉が・・・入江直樹と入江琴子が見つめあう場面が・・・何度となく浮かび上がっては消えて
行った。


昼間近になって、講義を受けていた仲間達と一緒に登院すると、医局の中がやけに賑やかで、
いつにも増して医師の数が多いように感じた。
それは、西垣チームと呼ばれている、西垣医師を筆頭とした第3外科精鋭の医師たちが全て
医局に集結しているからだとすぐにわかった。

もちろん、入江直樹もそこにいた。

「おお、実習生達が来た来た・・・」
医局長が、立ち上がって俺たちに手招きをすると、部屋の奥に座っている西垣医師に向かっ
て俺たちを紹介した。
「西垣チームの面々には、ずっと忙しくてちゃんと紹介してなかったな。
康南大学医学部から実習に来ている学生達だ。君達の仕事ぶりを見せるのが、一番の勉強
になるだろうから、しっかりと手本になってくれよ。」

「やあ、西垣です。今まで難しい患者を抱えていてね、随分と挨拶が遅くなった・・・どうぞ、よ
ろしく。がんばって。」
西垣医師は、少しキザな笑みを浮かべながら、オレ達に向かって手を上げて見せた。

「おお、そうだ。入江2世って呼ばれてるのがいるって聞いたな・・この中の誰がそうなんだ?」
西垣医師が、興味深げにオレ達実習生達を見る。
俺は、まさか自分だと言って手を上げるわけにも行かず、少し伏せ目がちにしていた。

「確か桐生って言ったな・・・」
その声は、入江直樹の声だった・・・俺は意外に感じながら思わず目を上げた。
上げた視線が、入江直樹の視線とぶつかった・・・すれ違う程度にしか会ったことがないのに、
入江直樹が、俺を認識していることをほんの一瞬不思議に思ったが、その謎はすぐに解けた。

―きっと入江琴子に聞いたんだ・・・夫婦だもんな・・・

「桐生は俺です」
俺は、仕方なく返事をした。
すると、興味津々といった面持ちで、西垣医師が俺の顔を見ている。
「君が、何年後かの入江なのか?・・・頼もしいな。これで、この病院も安泰だな・・・」
西垣医師は、満足げに何度も頷いていた。

すると、西垣医師の横に立っていた入江直樹がポツリと言った。
「オレはオレで桐生は桐生ですよ・・・何年後かのオレだなんてありえない。オレと同じ人間な
んていませんからね・・・」

「お前は、またそうやって冷めた物言いをする・・・」
西垣医師が、いつものことだといわんばかりに、入江直樹をたしなめる。
すると、苦笑いを浮かべて西垣医師を見た入江直樹は、次に思いもかけないことを言った。
「それに、今言ったことは桐生に対する侮辱ですよ、西垣先生。」

「なんだよ、それは・・・お前の2世だと言われるってことは、名誉なことだと俺は思うけどな・・」
西垣医師は、心外だといった面持ちで入江直樹に言った。

「さあ、本人はどう思っているのか・・・オレ、ICU見てきます」
入江直樹は、俺をちらりとみると、西垣医師にカルテを見せながら医局を出て行った。

俺は、思わず耳を疑っていた・・・
そして、入江直樹が言った言葉の意味を考えた。
入江直樹は、俺を庇ったのか?・・・

それとも?・・・

俺は、みんなが、他の医師たちに向かってブツブツと文句を言っている西垣医師に注目して
いるのを横目で見ながら、そっと医局を出て入江直樹を追いかけた。

ここのところのイライラも手伝ってか、胸に込み上げるものを、抑えられなくなっていた。
どんな言葉が返ってこようとも、ぶつけてしまわなければ前へ進めないような気がしていた。

長い廊下の先に、入江直樹の背中が見えていた。
俺は、小走りで声が届くあたりまで近づいていてから奴の名前を呼んだ。

「入江先生!」

入江直樹は、立ち止まるとゆっくり振り向いた。
何も言わずに俺をじっと見ている。

その顔からは、何の感情も読み取れず、今までに何度となく見ていた奴の表情と何ら変わ
りはなかった。
それなのに、初めて会ったときにも思った・・・どうしてこの男と一対一で向き合うと、こんな
にも射すくめられたような気持ちになるのか・・・
俺は、思わず目を逸らしたくなる衝動をなんとか堪えながら、奴と対峙していた。

「俺・・・俺は、あんたに会うためにここへ来ました。」
俺は、搾り出すように言った。
すると、入江直樹は一瞬目を見開いたかと思うと、「何のために?」と言いながら拳を唇にあ
てて、声を殺して笑った。

「俺は、これまでずっと知りもしないあんたと比べられてきた・・・あんたは何で医者になったん
だ?せめて、あんたが別の道に進んでくれれば、俺はもっと楽でいられたのに・・・だから、あ
んたがどんな医者なのかをここで確かめて、俺はあんたを越える医者になってみせる」

そんなつもりもなく、思わず口をついて出た言葉は、まるで宣戦布のようだった。
こんな風に、考えもなく思ったままを口にしたことなど今までにはなかったのに、奴の態度が
俺の感情を逆なでしていた。
しかし、そんな俺の言葉を、じっと聞いていた入江直樹は、たったひと言だけ、抑揚のない声
で言い捨てると、そのまま背中を向けて行ってしまった。

「好きにしな・・・」
それが、奴の言った言葉。
受けて立つとも言わない代りに、拒絶もしない・・・

―俺など相手にもしないってことか?・・・

俺は、去っていく入江直樹の背中を睨みつけて、爪が食い込むほどに拳を握りしめながら、あ
ることに気付いていた。
それは、切ないまでのあこがれと激しい憎悪・・・その二つが背中合わせになって俺の心の中に
存在しているということを・・・

だから、やはり思っていた通りだと納得しようとしながら、大きな落胆を感じている自分も否定で
きずに、その場にしばらく立ち尽くしていた・・・


俺は、自分の行動にも、入江直樹の言葉にもどこか釈然としないものを感じながら、遅い昼食
をとるために一人ラウンジへやって来た。
カフェテリア式になっているラウンジで、適当に食べ物を取ると、トレーを持ってラウンジの端の
方へと向かった。
ひとりで、ゆっくり考えたいと思いながら、壁際のテーブルにトレーを置いた。

「あれ、桐生君・・・今頃食事?」
それは、入江琴子の声だった。
見ると、ちょうど俺がトレーを置いた席の斜め後ろのテーブルで、入江琴子が一人食事を取っ
ていた。

―なんて最悪なタイミングでこんなところにいるんだ・・・

俺は、舌打ちしたくなるほどに気まずい思いを抱いて、彼女へ振り返った。


                                              つづく


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