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 女神のくちづけ <4>  医学実習生:桐生聡志

入江直樹と初めて対峙したあと、俺は放心状態のままラウンジへと行った。
そこで、不意に声をかけてきた入江琴子は、ひとりで食事をとりながら、親しげな微笑みを浮
かべて俺を見上げた。

「あんたこそ、今頃食事なのか?・・・」
俺は、入江琴子から目を逸らしたまま聞き返した。

「うん、またヘマやっちゃってね・・・師長にこってり絞られてたら、今頃になっちゃった・・・えへへ」
照れ笑いを浮かべている入江琴子は、確かにいつもに比べて元気がないように見えた。

俺は、あえて入江琴子と同じ方向をむいて席に座って、彼女に背中を向けた。
本当なら、今一番顔を合わせたくない相手だった。

ついさっきの入江直樹の顔と言葉が、俺の心を重くする。

「なんだか、桐生君も元気がないみたいだね・・・天才でも落ち込むことってあるの?」
後ろから入江琴子の声が不思議そうに俺に聞く、しかし彼女は俺が答えるより早く「天才だっ
て人間だもんね」と、言ってクスリと笑った。

昼時を過ぎて閑散としたラウンジには、厨房の奥で洗浄されている食器の触れ合う音と、天
井に付けられたスピーカーから流れるBGMの音がやけに大きく聞こえるだけで、なぜか自分
だけがそこに置き去りにされたような気がしてくる。
俺は、後ろに座っている入江琴子の気配を確かめるように、背中に神経を集中させた。

「あんた、何で看護師になったんだ?」
俺は、振り返らずに入江琴子に尋ねた。
なんだか、ふいにそんなことが聞いてみたくなった。

俺の言葉に、彼女が食器を置いた音が聞こえ、背中を見つめられている気配に、確かに彼
女が後ろにいることが感じられた・・・

「私ね、入江君のお手伝いがしたかったの・・・だから、入江君がお医者さまにならなかったら
私はきっと看護師にはならなかった・・・入江君のそばにいられればそれでよかったんだ。」

彼女が、いったいどんな表情をしてこの話をしているのかを、見てみたいと俺は思った。
それなのに俺はその時、どうしても振り返ることが出来なかった。

しかし、入江琴子の話を聞きながら、あまりにも彼女らしい返答に、俺はふと笑いが込み上げ
るのを感じた。
初めて会った時から、あれこれ耳にしたり、目にしてきたことをまとめれば、彼女がどれ程入
江直樹に惚れているかは一目瞭然だ。
そして、おそらく入江直樹も彼女を・・・あの廊下で見た、思いもかけなかった奴の微笑みが脳
裏に浮かんだ。

「本当に、そんな理由で看護師になったのかよ・・・ありえねえ」
俺は、返す言葉がみつからなくて、思わずそんなことを口走った。

「そうかもね・・・いまだに自信を持って私は看護師ですって言えないもん・・・」
入江琴子は、つぶやくようにそう言った後、小さなため息をひとつついた。

俺は、この時胸に小さな痛みを感じた・・・それは、何をしでかしたのかはわからないが、叱ら
れて落ち込んでいると言っていた彼女を、慰めるどころか、さらに傷つけてしまったかもしれな
いという罪の意識。
不意にドキドキと高鳴りだした心臓を押さえて、振り向こうとした時、今度は彼女が俺に尋ねた。

「じゃあ、桐生君はどうしてお医者様になろうって思ったの?」
「えっ?・・・」
「桐生君も、入江君みたいな天才なんでしょ?・・・それなら、どんなことだって出来るのに、ど
うしてお医者さんになろうと思ったの?」
入江琴子は、興味深げに、もう一度聞いた。

「駅前のさ、やけにデカイ病院知ってるか?」
「うん・・・」
「じゃあ、その病院の名前は?・・・」
「えっと、確か・・・きりゅう総合病・・・あっ!まさか、桐生君ってそこの跡取り息子なの?」
俺は、前を向いたまま頷いた。

「俺は、生まれた時から医者になることが決められていた人間なのさ・・・祖父が作った小さな
病院を、おやじが継いで今の規模まで大きくした。だから次は俺が・・・これは、どうしようもな
いことなんだ」
俺は、自分の言っていることがまるで言い訳のようだと思いながら、話していた。

「ふーん。それじゃ、桐生君は、心からお医者さんになりたくてなったわけじゃないんだね・・・」
入江琴子は、さも残念そうにそう言った・・・

―えっ?・・・

俺は、彼女の言葉を聞きながら、なぜか胸がざわついてくるのを感じた。

―俺は、本当に、医者になりたかったのか?・・・

思わず心の中で自問してみる・・・
しかし、驚いたことに、俺の心は胸を張ってそれを肯定はしなかった・・・

「天才はね、なんでも出来るんだよ・・・」
入江琴子が、まるで諭すような口ぶりで話し始めた。

「桐生君は、本当にやりたいことはなかったの?・・・お医者様もいいけど、学校の先生になっ
たら、いろんなこと教えられる先生になれるよね・・・法律家になって、困った人をたすけてあげ
るとか・・・政治家になって、国をよくするために天才の力を発揮するとか、もちろん、自分で会
社を作るのもいいよね、そしたら社長さんだ・・・うふふ」
入江琴子は、人の人生のことなのに、まるで自分の夢を語るように楽し気にたくさんの職業を
並べ立てた。

「なんだか、もったいないね・・・せっかく何でもできるのに、自分のしたいことじゃないなんて」

入江琴子は、俺がなにも答えていないのに、勝手に俺が医者になることを望んでいないと決
め付けて大きくため息をついている。
しかし、俺は、彼女の話に耳を傾けながら、このところずっと胸に抱えていたイライラの原因が
わかったような気がしていた。

俺は、本当は、最初から自分が医者になることを望んでいなかったのかもしれない。
ただ淡々と過ぎていく日常の中で、親の病院を継ぐことが当たり前だと思って流されてきた。
思えば、医者になることを親に強要されたことは一度もなかったようなきがする・・・それでも、
こうして俺が医学部にいるのは、自分も含めて、俺のまわりにいる人間は、医者になっていな
い俺の未来を想像すらしていなかったということなのだろう・・・

だから、医局長の言った「情熱」と言う言葉が、やけに胸に引っかかったんだと、あらためて
思っていた。
入江直樹にはあるという医療への情熱・・・ただ流されて今ここにいる俺に、そんなものがあ
るわけがなかった。

<心からお医者さんになりたくてなったわけじゃないんだね・・・>

今まで誰にも言われた事のない言葉を、2度も彼女に聞かされた。
いや、今まで何の疑問も抱かずにここまで来た方が、おかしかったのかもしれない・・・
俺は、『入江2世』という言葉に固執するあまりに、自分に与えられた無限の可能性を棒に振
ろうとしていたのだと、その時初めて気付いていた。

―なんで、それを気付かせたのが、こいつなんだ・・・

最初は、ただからかっているのが、面白かっただけなのに、気がつけば俺の心の奥に眠って
いた本当の気持ちを呼び覚ましやがった。

俺は、強く瞼を閉じて唇をかみしめた・・・
そう・・・それが、どうして入江直樹の妻なんだ・・・と。

俺は、ついさっき廊下で相対した入江直樹の顔を思い出していた・・・抑揚のない声で奴が言
った「好きにしな」という言葉が、頭に蘇る。
奴は、きっと俺の考えの甘さを心の中で笑っていただろう・・・
せっかく人より優れた能力を与えられていながら、その使い道を間違えている俺のことを・・・

「入江君も、大学に入る前までは、別にやりたいこともないなんて言ってたけど、いつのまに
か医者になることが夢になってた。それからはまわりの人に追いつくために、あの入江君が
本当に一生懸命努力してたんだ・・・自分が心からやりたいと思うことには、人はどんな努力
だってできるんだよね」

その言葉は、とどめのように俺の心に突き刺さった。
俺は、もう彼女の話を聞いているのが苦しくなってきていた。
入江直樹を知ってから、奴を目指してやってきたことを、その妻である入江琴子に否定される
なんて・・・

「あんた、よくしゃべるな・・・」
俺は、なんとか彼女の口を塞ぎたかった。
もう、これ以上俺に後悔させないで欲しかった。

「き、桐生君?・・・怒っちゃった?・・・私また余計なこと言っちゃったかな・・・ごめんね・・・」

―違う、怒ってなんかいない・・・でも、今さらどうしてこの道を変えられる?・・・

背後から、入江琴子が心配そうに俺のことを伺っている気配が感じられた。
そして、俺が今度こそは振り向こうと、頭をあげて背筋を伸ばした時に、その声は聞こえた・・・

「おい、琴子!」

それは、入江直樹の声だった。
俺は、突然のことに、椅子がずれる音を大きく響かせながら、振り向いた。

「入江君!どうしたの?」
入江琴子が、嬉しそうな声を上げて奴を見上げている。

入江直樹は、俺を一瞥すると、すぐに入江琴子に向き直って、彼女の顔を覗き込んだ。
「おい、また何かやらかして師長に怒られたって?・・・桔梗が、お前がひどく落ち込んだまま
飯を食いに行って戻ってこないっていうから、見に来てやったんだ」

「私のこと心配して来てくれたの?・・・」
入江琴子は、はにかんだような笑みを浮かべてうつむいた。

「まったく・・・いつも言ってるだろう?仕事する時はちゃんと集中しろよ・・・そんなだから・・・」


・・・俺は、二人の会話を聞きながら、食事の済んだトレーをもって静かに立ち上がった。


胸の中にジワジワとした痛みが広がっていた。
入江直樹のために看護師になった入江琴子・・・今の彼女を見ていれば、ここまで来るのにど
れ程大変な思いをしてきたかがわかる。
自分でも胸を張って言えるほどに、彼女はやりたいことのために懸命に努力をしてきたのだろう・・・

それを支えてきたのが入江直樹・・・

そして、俺は直感的に感じていた。
入江直樹自身も、妻の期待に答えるために、ひたすら努力をしてきたのだろうということを・・・

俺のまわりには、彼女のような人間はいなかった。
でも、入江直樹には、彼女がいた。

―ただ、それだけのこと・・・

でも、この胸の痛みは、それだけでは割り切れない、甘美な気配を含んでいた・・・
もし、これから俺に本当にやりたいことができた時、たとえいくつになっても医学の道を捨てて、
新たな夢を叶えることは可能だろう。
でも、もうひとつの痛みは・・・決して叶わないもの・・・この痛みを感じることすら本当は許され
ないことだということくらい、俺にもわかっていた。

目標を見失った俺は、フラフラと廊下を歩きながら医局へ戻った。



そして・・・そんな俺に追い討ちをかけるように、運命は回り続ける・・・
南部で大地震発生の第一報が、医局にもたらされたのは、この日の夕暮れ時のことだった。


                                             つづく


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