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 女神のくちづけ <5>  医学実習生:桐生聡志

<桐生君は、心からお医者さんになりたくてなったわけじゃないんだね・・・>

ふと油断すると、必ずと言っていいほど頭の中に浮かんでくる入江琴子の言葉と、
不意にあらわれた入江直樹の姿・・・
その日の実習も終了の時間が近づいて、俺は医局の窓際に立って西に傾いてきた
夕陽をぼんやりと眺めながら、やはりラウンジでの出来事を思い返していた。

「おい、桐生・・・」
不意に肩を叩かれて振り返ると、実習の仲間が立っていた。

「おい、桐生!・・・さっきから何回も呼んでるのに、どうしたんだ?お前らしくないな」
実習仲間は、不審げに俺を見つめて首を傾げる。

「ああ、悪い・・・ちょっと考え事をしてた・・・どうしたんだ?」
俺は、動揺を隠すために、努めて抑揚なく答えた。

「どうやら、南部の方で大きな地震があったらしいんだ・・・それで、この病院にも医
師の派遣要請が来ているみたいなんだよ・・・」
実習仲間は、俺の耳元で囁くように言った。

そして、程なく沈痛な面持ちで、医局長が部屋に入ってくると、今わかっているだけ
の情報を伝えた後、派遣する医師を指名した。
第3外科からは、研修医と俺たち実習生を除く大半の医師が地震現場へ行くことに
なり、俺達は用意できる限りの医療器材や薬品などを、車に詰め込む作業を手伝った。

夜が訪れ、誰もが思い思いの場所で、刻一刻と伝えられてくる地震の情報に耳を傾
けていた。
俺達実習生も、帰るタイミングを逸してしまい、そのまま医局に残って部屋の隅に置
かれたテレビで、地震の情報を見ながら時を過ごしていた。

まるでテレビの向こう側の光景が嘘のように静かな病院の中を、実は底知れぬ緊張
感が包んでいることを、誰もが知っていた。
主だった医師たちが、地震の現場に近い病院へ応援に駆けつけてしまっている今、
人手の不足しているこの病院に、もし重症の患者が搬送されて来たらどうなるか・・・
重苦しい空気の流れる中、誰もが祈るような気持ちで、のろのろと過ぎていく時間を睨
みつけていた。

ふと、考えるのは入江琴子のこと・・・
彼女は、この地震の報を知る前に家に帰ったのだろうか・・・それとも、またこの病院
の中にいるのだろうか・・・
医局の中を見回しても、入江直樹の姿はなく、もしかしたら彼女と一緒にいるのかも
しれないと思うだけで、なんとなく胸に小さな痛みを感じてしまう自分がおかしかった。

しかし、誰もが恐れていた事態は現実のものとなる・・・
車3台を巻き込む事故で怪我した患者が、三人搬送されてくると救急からの連絡が
入った。
緊急時のために病院に残った医師は二人、あとは入江直樹を含む研修医が数人と
看護師数人・・・
俺達実習生など、頭数にすらはいらず、誰もが患者の重症度が少しでも低いことを
祈っていた。

程なく先に2台の救急車が到着し、全身血だらけの患者を乗せたストレッチャーにつ
いて二人の外科医は病院の中へと入っていった。

「搬送されてくるのは三人と聞きましたが・・・」
ふと気付くと、どこから現れたのか入江直樹が、救急車の運転手にたずねていた。
その隣には、不安気な顔をした入江琴子の姿もあった。

「はい、もう一人は救出に時間がかかっていまして、もう少しで到着すると思います」
救急隊員の返答に、緊張感が走る中、遠くから3台目の救急車のサイレンが聞こえ
てきた。

「次の患者も重症だったら、きっと助からないな・・・」
俺の横に立っていた実習仲間がぽつりと言った。

俺も、彼と同じことを考えていた。
すでに、先に処療室に入っている患者も、相当な怪我をしていた・・・おそらく手術は
免れないだろう。
もし、今これから運ばれてくる患者も、それと同等もしくはそれ以上の怪我をしてい
たら、研修医しか残っていない今の状況では、その患者を助けることは不可能だ。

たとえ、どれ程優秀な研修医であっても、指導医の指示なく患者を治療することは
出来ない。
そう・・・それがたとえ入江直樹であってもだ・・・

俺は、目の前に滑り込んでくる救急車を待ち構えている入江直樹の横顔をじっと見
つめながら事の成り行きを見守っていた。

しかし、それから数分後、俺は手術室の前に立って、手術中と赤く灯っているランプ
を呆然と見上げていた。
今、この中で3番目に運ばれてきた患者を、入江直樹が執刀している。

―なんて、無茶なことを・・・

たとえその患者が助かったとしても、これで入江直樹の医師生命が絶たれることに
なるかもしれない・・・
あの入江直樹が、そんなことをわかっていないはずがない。

―それならばなぜだ?・・・

目の前で苦しむ患者を見過ごせないということか・・・
それが、奴の医療に対する情熱なのか・・・

―くそっ!

俺は、わけもなく込み上げてくる、怒りなのか悔しさなのかわからない感情を、拳の
中に力一杯握りしめた。

そして、手術は無事に終了した。
手術室の中で、いったいどんなことが行われていたのか・・・憮然とした顔の入江直
樹が手術着を脱ぎながら出てきたあと、ストレッチャーを押してICUへ向かった入江
琴子の目は涙で真っ赤に充血していた。

俺が、漫然とした気持ちのままICUに入っていくと、3人の患者が並んでベッドに横た
わっていた。

「なんとか全員助かったな・・・」
外科の医師が、ぽつりとつぶやく・・・

その言葉に、誰もが頷き、安堵のため息がそこここから聞こえてきた。

「そういえば、入江はどこへ行ったんだ?・・・」
外科の医師が、ICUの中を見回しながら誰にともなく尋ねる。

確かに、そこには入江直樹も、手術を介助した入江琴子の姿も見当たらなかった。
ICUの扉の前に立っていた俺は、首をかしげている医師たちに向かって「俺が探し
てきます」と言って廊下へ出た。

病院の中に静寂が戻っていた・・・
今はもう、地震の情報を伝えるテレビの音も聞こえては来ない。

俺が、二人を見つけた時、入江直樹と入江琴子は、ICUと同じフロアの吹き抜けの
柵に寄りかかるようにして向き合っていた。
声を掛けようと近づいていくと、俺に背中を向けるようにして立っていた入江直樹が、
急に柵に体を預けて、ズルズルと滑るように座り込むのが目に入った。
驚いた入江琴子が、奴に寄り添うようにして一緒に座り込む・・・

俺は、それ以上先へ進むことが出来ず、かといってそのまま立ち去ることも出来ず、
二人に背を向けるように廊下の壁に寄りかかって様子を伺っていた。

「どうしたの?」
入江琴子が尋ねる声が聞こえてくる。

「オレは怖かったよ・・・」

―えっ?・・・

俺は、奴の言葉に耳を疑った。
囁くように、しかし確かに入江直樹は「怖かった」と彼女に答えていた。

「あんな重症患者、初めてだったからな・・・」

「驚いた・・・」
再び彼女の声が聞こえた。

「何に驚いたんだ?」
不思議そうに聞き返す奴の声には、どこか生気が感じられなかった。

「入江君みたいな、すごい人でも怖いことなんてあるんだね・・・」

なぜか二人の会話のひとつひとつが、心に沁み込んでくる。
入江直樹は、こんなにも優しい声色で、彼女に話しかけるのかと、俺はあらためて
知った気がした。

「医者になって、良かったよ」
入江直樹は、まるで小さなため息を漏らすようにつぶやいた。
そして、入江琴子が愛おしげな声で、それに答えた。
「うん、患者さんが助かって、本当に良かったね・・・」

信頼と尊敬と愛情・・・短い言葉の中に込められたそれぞれの思いが俺の胸を熱く
する。
お互いを何よりも必要としていることを、強く感じさせる気配に、俺は不覚にも感動
すら覚えていた。


そして、俺は見た・・・
二人の会話がふと途切れて、思わず振り向いたその瞬間に見たその光景を、俺は
おそらく一生忘れることはないだろう・・・

疲れきった顔をした入江直樹が、彼女に向かって弱々しく微笑んだ瞬間、入江琴子
は伸び上がるようにして奴の唇にくちづけた。


―女神だ・・・




その時、俺には確かに彼女が女神に見えた・・・その慈愛に満ちた微笑みと優しい
キスは、苦しげだった入江直樹の顔をやわらかに微笑ませ、額を寄せ合った二人
の姿に、その愛情の深さを感じた。

俺は、結局二人に声を掛けることなく、その場を立ち去った。
ICUでは、入江先生は見つからなかったというつもりだった。

しかし、俺はICUを通り過ぎて常夜灯だけになった待合室のベンチにひとり腰掛け
て目を閉じた。
頭の中を整理したかった。
何もかも理路整然と運んできたこの人生の中で、こんなにも混乱したことはなかっ
たように思う・・・

それも、最初はあまりに何もできなくて、半ばバカにしていた女一人に翻弄されて・・・

わけもなく笑いが込み上げる。
笑いながら、思い浮かぶ入江琴子の顔に、どんなに静めようとしても静まらない心
臓の鼓動が重なって俺の心を一層切なくさせた。

俺の前に続いていた道は、ただ真っ直ぐな一本道だった。
前を見ても、後ろを見ても、どこにも分かれ道などありはしない・・・決して迷うことな
ど無いはずなのに、俺は、今その道の真ん中で呆然と立ち尽くしていた。

<桐生君は、心からお医者さんになりたくてなったわけじゃないんだね・・・>

そう・・・入江琴子に言われたことは、否定しようもない事実だった。
俺は、自分から望んで医者になろうとしているわけではない・・・これはいい訳でなく、
本当に俺は、ほんの数日前まで自分は進むべき道はこれしかないと信じて疑って
はいなかった。

それがどうしたことだ?・・・
まだ、会って数日しかたっていない女のひとことで、俺の人生は根底から覆ってし
まった。

もしかしたら、過去にも同じようなことを言われていたかもしれない・・・でも、その言
葉は俺の心には響かなかった。
それなら、なぜ彼女の言葉がこれ程、俺の心を揺さぶるのか・・・

―そうさ・・・本当の問題は、そこだ・・・

俺は、深い深いため息をつきながら、心の中でつぶやいた。
今この時点でも、医者になることに抵抗を感じてはいない、ただそれに人生を賭け
られるかといわれたら首を傾げてしまうかもしれないという程度で、このまま割り切
って進み続けることも選択肢のひとつだと思えた。

しかし、深いため息の原因は、そんなに簡単なことじゃない・・・

なぜ、俺は入江2世と呼ばれたのか・・・
なぜ、俺はここへ来てしまったのか・・・
なぜ、彼女と出会ってしまったのか・・・

全てのことには理由があるはずだ。
これが、俺に与えられた試練なら、それを越えた先で手にするものを知りたいとも思う。

―でも、それは決してあの優しいキスではない・・・

打ち消しても打ち消しても消えていかない感情は、まるでさざ波のように、俺の心を
揺らしている。

<私だったらきっと嫌だろうなって思うもん・・・>

俺の心を、掴んで話さない一言・・・あの時が、全ての始まり・・・
昼下がりのラウンジで遭遇した二人の姿に、痛みを感じた心・・・
そして、たった今脳裏に焼きついた光景と、感動まで感じた二人の絆と愛情の深さ・・・

どうして、そんなことのひとつひとつが、こんなにも切なくて哀しいのか、俺は今それ
をはっきりと自覚していた。

―それは、俺が入江琴子を・・・

俺は、薄暗がりの中で激しく頭を振って、そのあとに思い浮かんだ言葉を打ち消した。

―どの道、手も足もでない相手じゃないか!

たとえ、心の中でさえ言ってしまうことがはばかられるその言葉を、俺は胸の中にそ
っとしまいこんだ。
ただ、ひとつ思うことは彼女に対して恥ずかしい生き方はしたくないということ・・・

しかし俺は、そんな思いを胸に秘めながらも、その時、この場から消え去ることを
考え始めていた・・・


                                           つづく


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