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 女神のくちづけ <6>  医学実習生:桐生聡志

眠れないままに、病院での朝が明けた。
昨夜の緊急事態に立ち会ったもの達は、病院の中の思い思いの場所でそれぞれの朝
を迎えていた。

俺の心は、たとえようの無い喪失感を抱えて、あてもなく彷徨っていた。

なぜ喪失感なのか・・・
何も得てはいないのに、何を失ったのか、それさえわからないのに、心の中に大きな穴
がぽっかりと口を開けていた。

入江2世という言葉を払拭するために、奴を追いかけることすら無意味になった今、俺は
どこへ向かって進めばいいのか・・・
入江直樹にあって、俺にないものは何だ?・・・医療への情熱?・・・
それは、いったいどうすれば手に入る?
真っ白な霧の中にいるように、過去も今も未来すら見えなくなった俺は、完全に方向を見
失っていた。
目を閉じれば、浮かんでくるのは昨夜の女神のくちづけ・・・そして、やわらかに微笑んだ
奴の顔・・・

俺は仮眠室のベッドの上にのろのろと起き上がると、寝不足の瞼を無理やりこじ開けてな
んとかベッドから這い出した。

朝の病院は、昨夜のことなど何も無かったかのように、いつもとどこも変わりなく機能して
いるように見えた。
しかし、第3外科の医局に入ったとたん、部屋の中に漂う緊張感が、それまで朦朧としてい
た俺の頭を一瞬で覚醒させた。

「大変だぞ、桐生・・・」
実習仲間のひとりが、俺の横に来て耳打ちする。
俺は、目だけで「何が?」と聞き返した。

「入江先生の査問会議だよ・・・こんなに朝早くから、院長や教授達が全員召集されて会
議室に集まってる・・・さっき、被災地から西垣先生も急きょ呼び戻されて、会議室に行っ
たよ・・・」

「そうか・・・でも、査問会議は仕方ないんじゃないか?・・・入江先生は、確かに研修医で
ありながら指導医の指示を仰がずに治療行為を行ったんだから・・・」
俺は、今日の予定をチェックしながら、淡々と答えた。

「お前・・・お前だって、昨夜あの場にいたんだろう?それなのに、よくそんなに冷静でいら
れるな・・・もし入江先生が医者をやめるようなことになったらどうするんだ?・・・」
実習仲間は、気色ばんで俺を責め立てる。

「誰も、入江先生が悪いなんて言ってないだろう?・・・ただ、こういう状況で査問会議はあ
たり前のことだって言ってるのさ。でも、入江先生は医師を辞めさせられるようなことはな
いさ・・・せいぜい始末書の一枚も書けば終わりだろ・・・あんな優秀な医師を、そう簡単に
辞めさせるわけがない、ましてや昨夜の患者は助かってるんだ・・・」

胸の中に渦巻くものをもてあましているのに、人前ではこうして冷静を装っていられる自分
が不思議だった。
おそらく、昨夜の入江直樹の行動に、一番衝撃を受けているは、当の俺だと思えるのに・・・

いつになく静まり返った医局を見回すと、誰もが一様に緊張した面持ちで、会議の結果を
固唾を呑んで待っているのがわかった。
すると、程なくして医局のドアを勢いよく開けて西垣医師が入ってきた。

「まったく、あの入江の奴・・・」
西垣医師は、苦虫を噛み潰したような顔で、自分の席にドサリと腰をおろした。
「あの野郎・・・規則などに意味はないといいやがった、回りくどいことはせず自分だけ罰
すればいいともな!ふん、研修医の分際でどこまで生意気なんだ!あれだけ言いたい
放題言って、始末書一枚で済むなんて本当に悪運の強い奴だよ・・・」
西垣医師は、誰にともなく不満をぶちまけながら、最後には呆れたような笑みを浮かべ
ながら小さなため息をついた。

「入江先生は、医者を辞めなくていいんですね?」
入江直樹と同じ研修医のひとりが、念を押すように西垣医師に尋ねた。

「ああ、首はつながってるよ・・・まったく、あそこで嫁さんと看護師長が飛び込んでこなか
ったら、どうなっていたか・・・俺は、あいつと心中するつもりはないからな!」

―えっ?・・・

西垣医師のぼやきのような言葉に、俺はその時初めて西垣医師の顔を振り返った。

「あの・・・彼女、入江先生の奥さんがどうかしたんですか?・・・」
俺は、胸の鼓動を感じながら、できるだけさりげなく西垣医師に尋ねた。

「前から思ってたけど、あの嫁さんの入江への愛情は並じゃないな・・・教授達が、入江を
責め立ててる真っ最中に入江の嫁さんが会議室に飛び込んできたんだよ・・・まったく無
鉄砲っていうか・・・でも、それを追いかけてきた師長の報告で、院長の気持ちが軟化して
なんとか始末書だけで済んだんだ・・・あのベテランの師長が、みごとな手術だったって言
ったんだぜ、院長だって無下に罰することなんてできやしないさ・・・」
そう言った西垣医師の顔には、苦々しさではなく安堵の表情が浮かんでいた・・・それは、
自分が責任を取らずに済んだ安堵なのか、入江直樹という優秀な医師を失わずに済んだ
安堵なのか・・・
俺は、きっと後者であるだろうと、確信していた。

「それで、入江先生は?」
俺は、医局のドアを振り返りながら聞いた。

「さあな、途中まで一緒だったが、いつの間にかいなくなっていた・・・まったく、ひとことも
謝りもしないで、何を考えてるのやら・・・」
西垣医師は、そう言いながらやれやれというように首を横に振って肘掛のついた椅子に
深く体を沈めた。

―きっと、奴はひとりになりたかったんだ・・・

俺は、直感的にそう思った。
たとえどれ程人前で無表情を装っていても、心の中で何も感じていないわけではない・・・
天才であっても人並みの葛藤や悩みを抱えて生きている。
それでも気持ちを抑えられない時、俺はひとりになろうとする癖がある・・・
だからきっと入江直樹も、今ひとりになって、昨夜からの出来事を奴なりに消化しようとし
ているのではないかと思えた。

オレは、もう一度奴と対峙してみたいと思って、そっと医局をぬけ出した。

<オレは怖かったよ・・・>

奴を探しながら、昨夜の入江直樹の言葉が頭に浮かんだ・・・
そうさ・・・この病院のトップ達を前にして、規則に意味はないとまで言う奴が、彼女の前
でだけは、本当の自分をさらしていた。
もしかしたら、彼女と一緒にいるかもしれない・・・そう思えば、心がチクチクと痛んだ。
でも、それはもう決して戻ることのない子供の頃の心象風景を懐かしむ気持ちと似てい
るような気がした・・・

「あ、桐生君!おはよう・・・昨夜はお疲れ様でした」
不意の声に振り向くと、入江直樹と一緒にいるかもしれないと思っていた入江琴子がカ
ルテを抱えて立っていた。
俺は、少しドギマギしながら「おはよう」と答えた。

「入江君、始末書だけであとはお咎めなしだったんだよ・・・聞いた?」
彼女がさも嬉しそうに言うのに俺は無言で頷いた。

「なあ、その入江先生は今どこにいるのかな・・・」
俺は、焦る気持ちを悟られないように、ことさら素っ気ない口ぶりで尋ねた。

「えっ?桐生君、入江君を探してるの?・・・今、屋上にいるってメールが来たから、これ
から行くところなんだけど、一緒に行く?」
彼女は、ニコニコと屈託のない笑顔を見せながら言った。


屋上へ続く鉄の重い扉を開けると、正面の柵にもたれかかるようにして立っている入江
直樹の背中が見えた。
何も遮るもののない空間を吹き抜けていく強い風が、奴の白衣の裾をひるがえしている。

「入江君!」

奴の姿を見つけた入江琴子が、文字通り弾むように駆け寄っていくのを見ながら、俺は
やはり胸がチクチクと痛むのを感じていた。
手を伸ばせばすぐそこにいるのに、指先さえも触れることが許されないものがあることを、
俺は思い知らされていた。

彼女の声に、奴は彼女にしか見せないとっておきの微笑みで振り返った・・・しかし、その
後ろに俺の存在を見つけるやその顔は、いつも冷たい表情に一変した。

俺は、屋上の扉の前に立ったまま、奴に向かって頭を下げた。
入江直樹は、俺にむかっていぶかしげな視線を向けながら「何か用か?」と言った。

「あんたに、どうしても言いたいことがあって・・・」
俺はゆっくりと奴に近づきながら、息苦しいほどの動悸の中で、話を切り出した。
入江直樹は、胸の前で腕を組むと、俺を真っ直ぐに見つめ返した。
俺は、その視線に、今度こそは射すくめられまいと強い意志をもって立ち向かっていた。

しかし、俺のそんな緊張もお構いなしに、入江琴子が俺たちの間に割って入ってきた。

「入江君!・・・ホントによかったぁ〜もう、一時はどうなるかと思ったのよ〜このまま入江
君がお医者様を続けられなくなったらどうしようかと思ったもん!でも、師長も味方してく
れたし、ホントよかったよね〜」
入江琴子は、奴の腕にぶら下がるようにして、喜びをあらわしていた。

「お前は、相変わらず無鉄砲すぎる・・・」
入江直樹は俺のことを少し気にしながら、それでも苦笑いを浮かべて彼女を見下ろした。

「昨夜の入江君、ホントに立派だったんだよ・・・桐生君にも見せてあげたかったな・・・入
江君2世なんだからきっと勉強になったよ・・・ねっ!入江君!」
彼女が、屈託のない笑顔で、残酷なことを言う・・・
俺は、その時、きっとひきつったような笑みを浮かべていたに違いない・・・

「お、俺は・・・」
追い詰められた心は、ついに本当の気持ちを吐露しようとしていた。
しかし、泣き言にも聞こえるだろうその言葉が、まさに俺の口から飛び出そうとした瞬間に
奇跡は起きた・・・

「俺は、入江先生のようにはなれない・・・本当は医者なんて・・・」 「そんなことない!」

―えっ?・・・

「そんなことないよ桐生君!・・・桐生君にだって出来るよ!絶対に出来る!・・・」
俺は、俺の言葉を遮った入江琴子のあまりの語気の強さに面食らって彼女を見た。

隣に立っている入江直樹を見ると、奴は口元に手をあててニヤつきながら俺に背を向けた。
そして、彼女は、目を丸くして何も言えなくなっている俺に向かって、まるで諭すように微
笑みながら、話始めた・・・

「だって、桐生君も天才だもん!そりゃあ、心からお医者さんになりたいわけじゃないの
かもしれないけど、せっかくここまでお医者さんになる勉強してきて、もったいないよね・・・
ねえ、桐生君?天才の能力は、たくさんの困っている人のために使わなきゃいけないんだ
よ・・・桐生君ならきっとどんなお医者さんにでもなれるよ!そうしたら、この世に天才のお
医者さんが二人になるんだね・・・入江君一人だけの時より二倍の患者さんが助かるんだ
よ・・・なんだかすごく素敵よね・・・」
入江琴子は、そこまで一気に話し終えると、俺を見てにっこりと微笑み、それから入江直樹
を見上げて同じように微笑んだ。

俺は、その時再び女神を見た気がした・・・
彼女の言葉が、すっと胸の中に降りてきて、心に開いていた穴を埋めていくように思えた。

その時俺は思った。
もし、俺が入江2世と呼ばれたことにも、入江琴子に惹かれたことにも、それを必要とする
理由があるのだとしたら、今が、まさにその瞬間だったのだろうと・・・

俺は、ただ淡々と流れていく人生の中で、もう一歩先へと背中を押し出してくれる何かを
探していた。
人より何でも出来たからこそ、人に励まされることなどなかった・・・
自分の力を知っていたから、人の言葉に耳を貸すことなどなかった・・・

それが、今彼女の言葉がこれ程心に沁み込んでいくのは、俺が彼女に惹かれているか
ら・・・そして、決して叶わぬ想いであっても、入江2世と呼ばれたからこそ、彼女にめぐり
合うことが出来たのだということ・・・

俺は、あまりにも皮肉な人生のめぐり合わせに、思わず拳を握りしめながら、それでもほ
んの少し前まで心に渦を巻いていた心の迷いが、吹っ切れている自分を感じていた・・・


                                             つづく


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