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 女神のくちづけ <Final>  医学実習生:桐生聡志

病院の屋上に、爽やかな風が吹きぬける。

俺たちは、それぞれの思いを胸に、いったいその場にどのくらいの間沈黙していたのか・・・
きっとほんの数秒のことなのに、俺は随分と長い時間だったような気がした。

満面の笑みで俺と入江直樹を交互に見つめている入江琴子。
呆れたように、小さなため息を漏らす入江直樹。

そして俺は?・・・俺はいったいどんな顔で、二人を見ていたのか・・・

<桐生君にだって出来るよ!・・・絶対に出来る!>

頭の中には、彼女が言った力強い言葉が、繰り返し繰り返し聞こえていた。

そして、その沈黙を破ったのも、やはり入江琴子だった・・・
「ああ!!私巡回の途中で抜け出してきたんだった!また見つかったら怒られちゃう!
桐生君、入江君に用があったんだよね・・・どうぞごゆっくり!入江君、せっかくメールくれ
たのにごめんね〜またあとでゆっくりね〜!」
彼女は、腕時計を見ながら、まくし立てるように言うと、入江直樹にウィンクを投げて、走り
去っていった。

「ふう・・・いつもいつも慌しい奴・・・」
入江直樹が、呆れたようにぽつりとつぶやく・・・

そして奴は、彼女が消えた屋上の扉を呆然と見つめている俺の背中に向かってひと言言
った。
「気にいらないな・・・」

「えっ?・・・」
俺は、驚いて振り返りながら「どうやら、俺が邪魔したみたいですね・・・」と言葉を返した。

しかし、そこには意外にも、穏やかな表情をした入江直樹が顔があった。

「そういう意味じゃないさ・・・お前さ、今のあいつの言葉で、突然やる気が出ただろう?・・・」
入江直樹は、あえて俺から視線を外すと、彼女が去って行った方向を見ながら俺の答えを
待たずに話を続けた。

「あいつの言葉にはさ、打算も計算も無いんだ。だから、すっと心の中に入ってくる・・・直接
心の真ん中に響いて来るんだ・・・それに、あいつの言葉は、あまりに正しすぎてさ、迷って
なんかいられなくなるんだ・・・」

俺は、突然饒舌になった入江直樹に驚きながら、それでもその言葉には大きく納得していた。

「お前も、そう思ったんだろ?・・・」

それまで、遠くを見ていた入江直樹がその言葉と同時に、不意に俺の目を見た。
俺は、ひるむことなく、何も言わずに奴の目を真っ直ぐ見つめ返した。
すると、そんな俺の沈黙を、肯定と受け取ったのか、入江直樹はあからさまに不快そうな顔
をして、もう一度つぶやいた。
「だから、気にいらないんだよ・・・」

―ん?・・・なんだか変だな・・・

俺は、その時唐突にそう思った。
なぜ変だと思ったのか・・・そう、その時の奴は、いつもの隙をまったくみせない「入江直樹」
ではないように見えた。

―まさか!・・・

俺は、あるひらめきを感じて、奴にカマをかけてみようと思い立った。

「ははーん、つまり、あんたが医者になった動機も彼女の言葉だったってわけか?・・・」
俺は、少し優位にたったような気持ちで、ニヤリと笑いながら言った。
すると、入江直樹も同じように不敵な笑みを浮かべながら聞き返した。
「だったら、どうだっていうんだ?」

「それなら、余計にやる気が出てきたな・・・」
俺は、完全に自分を取り戻して言い返した。

「そうかそこまでわかってるなら忠告しておく。お前が琴子の言葉で医学に対して本気に
なったのなら、きっと琴子も喜ぶだろう・・・あいつは、いつでも人の幸せを願っているから
な・・・でも・・・」
入江直樹は、そこまで言うと一旦言葉を切って、大きく息を吸い込んだ。
そして、一歩前へ出ると俺より少し高い視線から、見下ろすようにして言い放った。

「許してやるのはそこまでだ・・・」

俺は、静かながらも迫ってくる威圧感に、後ずさりしながら奴の顔を見上げた・・・
それはたじろぐとか、うろたえるとか、そんな生易しいものではなく、それこそがまさに射
すくめられるという感覚かもしれないと思えるほどだった。

「あんた・・・な、何言ってるんだ?」
俺は、少し口ごもりながらもかろうじて抵抗を試みた。
しかし、入江直樹はいつもの冷めた顔に戻って答えた。
「自分の胸に聞いてみな・・・」

そして、奴はそのまま白衣をひるがえしながら屋上の扉へ向かって歩き始めた。

やっぱり、奴は俺の気持ちに気付いて、俺をけん制したのか?
彼女の言葉に心を動かされて、本気で医学の道を進むのはいい・・・しかし、彼女への気
持ちは封印しろと・・・

それは、つまり・・・

―あの、誰もが一目置いている天才入江直樹が、やきもち?・・・

そう気付くと、俺は思わず笑い出したくなるのをなんとか堪えながら、去っていく入江直
樹の背中を見つめていた。
そして、奴が扉のノブに手をかけた瞬間に、その背中に向かって叫んだ。
「やっぱり、俺はあんたの2世なんてまっぴらだ。だから、絶対にあんたを越えてみせる」

すると、入江直樹はノブを掴んだまま動きを止めて、振り返らずに答えた。
「やれるもんなら、やってみな・・・」
そして、奴は扉を大きく開け放つと、その向こうへと消えていった。

―あいつ・・・受けてたった?

俺は、張り裂けそうな程高鳴る、自分の心臓の鼓動を聞きながら、そう思っていた。

初めて対峙した時、入江直樹は俺の挑発に「好きにしな」と言って相手にもしなかった。
奴は、あの時俺が本気でないことを見抜いていたということなのか?・・・

そして、たった今ほんの少しだけ垣間見た、入江直樹の感情の機微・・・
それは、明らかに入江琴子を中心に置いたときにだけ顔を出す奴の本当の姿だと確信
できた。

彼女にだけ向けられる優しくて穏やかな微笑み、彼女にだけ語られる本当の心・・・そし
て、おそらく誰にも見せないそんな姿をさらしてまで、俺をけん制した言葉・・・

奴にとって、入江琴子という存在がどれ程大きなものかがわかる。
入江直樹の感情の中枢を司っているのは、入江琴子なのだということが・・・
だから、奴には彼女が必要だったのだということも・・・

空を見上げると、ちょうど真上に輝いている太陽に手を翳してみる。
あの太陽が入江琴子・・・真っ直ぐに見つめたら、きっと俺には眩し過ぎてその輪郭すら
わからない・・・
でも、俺の前に立ちはだかった入江直樹という”手”でその光を少し遮れば、おのずとそ
の形が見えてくる。

―そういうことなのか・・・

きっと、俺は入江琴子だけに出会っても、入江直樹だけに出会っても、答えは見つけら
れなかったのかもしれない・・・
二人に出会ったからこそ、導き出せた答えなんだ・・・
俺は、それでもまだチクチクと痛む心を何とか鎮めながら、そう納得するしかないのだと
自分に言い聞かせていた。

―それにしても、あの入江直樹がやきもち・・・

俺は、ひとりきりになった屋上で、思い切り声を出して笑った。
なぜか、ほんの少しだけ涙が込み上げた・・・そして、その雫が頬を伝い落ちて、地面に
小さな染みを作った時、俺は自分が生まれ変わっていることを確信していた。



それから数日がたって、俺達の病院での実習も終わりを迎えようとしていた。
また、しばらくは大学に戻って、講義と研究の日々が戻ってくる。

そして、いよいよ実習の最終日、俺はある決心を心に秘めていつものように登院した。

入江直樹は、あの緊急手術の一件から、さらに回りの信頼を集めて、最近では大きな
手術を任されることも多くなって多忙を極めていた。
入江琴子は、相変わらずドジを繰り返し、あれからも何度も師長に小言を言われている
場面に遭遇した。
もちろん、俺は彼女への気持ちなどおくびにも出さず、一緒に仕事をする時にはほんの
少し痛む心を隠しながら彼女をからかったりもしていた。

俺と彼女が一緒にいる時に、入江直樹に遭遇すると、あきらかに不機嫌になる奴の顔を
見るのがおかしかった・・・

そんな日々も、今日で終る。

俺達実習生は、お世話になった先生方や、院長への挨拶を済ませ、思い思いに病院へ
の別れを惜しんでいた。

そんな中、俺はひとりで入江直樹を探していた。

ただ、できれば、彼女にはもう会いたくなかった・・・この気持ちが恋というものなら、最後
の最後で何をしでかすか俺にも自信が持てなかったから・・・
だから、俺は入江琴子がナースステーションにいることを確かめてから、奴の姿を探して
回った。

そして、さんざん探して見つからないことに業を煮やした俺は、奴の持っている院内用の
PHSで呼び出してやろうと、医局へと戻った。


ドアを開けると、不思議なほどに医局には誰もいなかった。
しかし、次の瞬間、奥の棚の中から「誰?」という声が聞こえた。

それは奴の声・・・まさにここへ実習に来て、初めて入江直樹に会ったときの再現のよう
な場面だった。

「入江先生、ここにいたんですか?・・・あんたを探してたんだ」
俺は、肩で息をしながら姿の見えない相手に声をかけた。

「桐生か・・・今日で実習も終わりだってな・・・」
入江直樹が、顔が隠れてしまうほどのカルテを抱えて棚の間から姿を現した。

「はい・・・お世話になりました」
俺は、まずは型どおりの挨拶をした。
そして、奴の前に進み出ると、カルテを半分運んでやりながら、さりげなく言った。
「俺・・・康南大学へは戻らずにアメリカへ行きます」

「えっ?・・・」
奴にしてはめずらしく少しは驚いたのか、くずれそうになったカルテをかろうじて支えなが
ら俺を振り返った。

「このまま、大学に戻ったら、いづれまたこの病院へ来ることになるし、誰も俺のことを入
江2世と呼ばない所へ行って、勉強しなおそうかと思ったんですよ・・・」
俺は、奴の反応を確かめようと、しっかりと顔を見ながら話した。

「ふーん・・・そうか」
入江直樹は、相変わらず冷めた表情を崩さず、素っ気ない返事を返した。

「俺、最初にここへ来た時、あんたがどんな医者かを見極めて、いつか蹴落としてやろ
うって、そんなことだけ考えていました・・・でも、今は違う。まずはしっかりと医学を学ん
で、優秀な医師になって、それからあんた・・・いや、入江先輩と肩を並べられるような医
者になりたいって思っています・・・大切なことに気付かせてもらったこと、感謝しています」
俺の言葉に、入江直樹はほんの少し目を細くして笑ったように見えた。
それは、決して茶化したりするのでなく、俺の気持ちを受け止めてくれた微笑みに思えた。

俺は、あらためて奴に・・・いや彼に頭をさげると、そのまま背中を向けた。

「今の言葉、琴子が聞いたら喜ぶよ・・・」
彼は、ドアに手をかけた俺に向かって、言った。
それは、あの女神がくちづけた夜に、彼女に向かって語りかけていた優しい声色と同じ
響きに聞こえた。

「俺・・・」
その時、瞬間的に熱いものが俺の体を駆け巡った・・・
俺は振り向くと、最後の最後で、心の壁を突き抜けた言葉を彼に向かって言っていた。
「俺、どうせ天才に生まれるなら、あんたに生まれたかったよ・・・」

入江直樹は、一瞬目を見開くと、ニヤリと笑いながら答えた。
「それは、残念だったな・・・」

それは、もちろん俺の気持ちを知っての答えだと確信できた。
俺達は、無言で微笑みを交わした。
そして、医局の外へ出た俺は、ドアが閉まる間際に彼の声がしたような気がして振り向いた。
その声は、確かに「がんばれよ」と言ったように聞こえた。


俺は、実習の打ち上げをするために、病院の門の前に集合している仲間達の輪に加
わった。
不思議なほど、とても清々しい気持ちだった。
初めてこの門をくぐった時の、何の感慨も持っていなかった自分とは、あきらかに変化し
た自分を感じながら、俺はもう一度病院の建物を振り返った。
すると、どこからか俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。

「桐生くーん!!」

頭上に視線を上げると、屋上の柵から身を乗り出すようにして手を振っている入江琴子
の姿が見えた。

「桐生くーん!アメリカに行っちゃうんだってー?・・・がんばってね〜それで、きっと素敵
なドクターになって帰って来てね〜!!」

なぜか、彼女の姿が霞んで見えた。
そして、俺が堪えきれずに彼女に手を振り替えした時、彼女の後ろから入江直樹が現れ
るのが見えた。

俺は、二人に向かって手がちぎれるほど思い切り手を振った・・・


あの時・・・俺は確かに女神がくちづけるのを見た。
その優しいキスに、彼女の愛の深さと果たしてきた役割の大きさを知った気がした・・・
あのキスを受ける資格があるのはこの世にただひとりだけ・・・

それが俺ではなかったことが哀しくて・・・


だからこそ、俺は、力一杯手を振った。
そう・・・初めて知った苦い恋への決別と、悔しいほどの尊敬を込めて・・・


                                              END


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