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 「女神のくちづけ」特別編
 女神に恋して・・・   医学実習生:桐生聡志

あの時・・・俺は確かに女神がくちづけるのを見た。
その優しいキスに、彼女の愛の深さと果たしてきた役割の大きさを知った気がした・・・
あのキスを受ける資格があるのはこの世にただひとりだけ・・・
それが俺ではなかったことが哀しかった。

あれから1年・・・
今も、あの恋がふと胸をかすめていく。
忘れられない・・・忘れたい・・・忘れることなどできない、あの日々の記憶と共に・・・



「き、桐生・・君・・・?」

―えっ?・・・

俺は、忘れもしないその声が背後から聞こえて、すぐには振り向けないでいた。

―ま、まさか・・・彼女はもうこの病院にはいないって聞いたのに・・・

そこは、康南大学病院の正面玄関、目の前で開いた自動ドアが待ち切れずに閉っていくのを見つ
めながら俺はゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、まぎれもなく入江琴子。

「あ、あの・・・桐生君だよね・・・?」
彼女は、振り向いても何も答えずにいる俺に、もう一度同じことを聞いた。

「ひ、久しぶり!」
俺は、不思議そうに首をかしげている彼女に、なんとかその場を取り繕うように言葉を絞り出した。

「ああ、やっぱりそうだったんだぁ〜なんだか雰囲気変わったね、前よりもっとかっこよくなってる
感じ。ねえ、もうアメリカから帰って来たの?もしかしてこの病院の先生になるとか?・・・あれ?
卒業したのって聞く方がいいのかしら?」
彼女は、自分の言っていることに収集がつかなくなったのか思わず噴き出しながら俺の顔を覗き
込んだ。

「そんなに一気にいろいろ聞くなよ・・・それより俺の方が驚きさ、なんだよそのお腹・・・あのドジば
かりのナースだったあんたが母親になるのかよ」
俺は、入江琴子のお腹を指さしながら聞いた。

「し、失礼ね〜!せっかくかっこよくなったってこっちは褒めてあげてるのに、イジワルなのは相
変わらずなのね、さっき言ったこと撤回する!」
入江琴子は、頬を膨らませて怒った顔を作ると、俺を睨みつけた・・・しかし、その直後には口元
がゆるみ俺たちは、一瞬の沈黙のあと、顔を見合せて笑った。

「ねえ、ホントどうしてここにいるの?実習生でここに来てたのってもう1年くらい前だよね・・・」

俺は、師事する教授の通訳兼助手として一時帰国したことを彼女に告げた。
「教授のスケジュールが過密で、1週間の帰国で今日だけが唯一のオフなんだ。それで実家に
顔をだしたついでに、ここの院長にも挨拶しようと思って来たんだよ」

1年ぶりに再会した入江琴子は、以前と少しも変わらない長い黒髪と表情のくるくる変わる大きな
瞳をさらに大きく見開いて俺の話を聞いていた。

「ふーん。私はね、見ての通りこの子の検診で来たの・・・月に1度しか来ないのに、たまたまこう
して会えるなんて、すごい偶然だよね〜」
彼女は、屈託なく言うと膨らんだお腹を撫でながら微笑んだ。

―今日がそんな日だって知ってたら来なかったさ・・・

この1年の間、俺は俺なりにあの時に抱いた気持ちへの決着をつけたつもりでいた。
そして、あの時と確実に違う彼女のお腹の大きな膨らみが、1年という時の流れをいやが上に
もオレに告げている。
しかし、だからといって心の準備も何もない再会は、やはりどこか心もとなくて、まだどこか心の
片隅にくすぶっている想いがざわざわと騒ぎ出すのを感じずにはいられなかった。

「それにしても、ホントあんたが母親になるなんて信じられないな・・・」
俺は、とってつけたようにつぶやくと、彼女の膨らんだお腹に手を伸ばしていた。
なぜか衝動的に、そのお腹に触れてみたくなった。
しかし、今まさにこの手が触れようとした瞬間に、横から伸びてきた大きな手が俺の手を払いの
けた。

「おい、気安く触んなよ・・・」

そのあまりにの懐かしい声に、思わず苦笑しながら振り向くと、そこには腕を組んだ格好で入江
直樹が立っていた。

「あっ、入江君!迎えに来てくれたの?」
入江琴子が、嬉しそうに彼の前に立つ。

「予約時間過ぎてもお前が来ないって、産科のナースから連絡が入ったんだよ」
入江直樹は、冷めた目で俺を一瞥すると、彼女に向き直って腕時計を指さしながら答えた。

「えっ?・・・もう、そんな時間?まずい急がなきゃ・・・じゃあね桐生君。また帰ってきた時にも会
えるといいね・・・」
入江琴子は、俺に手を振ると慌てて病院の中に入って行き、その背中に向って入江直樹が「走
るな!」と声を掛けた。

まるで1年前の屋上での出来事のように、また彼女に置いてきぼりにされた俺達はすこし気ま
ずい思いで対峙していた。
あの時、あえて言葉にはしなくても、俺の入江琴子に対する気持に十分気づいていた入江直
樹はそれまで決して見せたことのない素顔をあらわにしてまで俺をけん制していた。
それほどに、彼女の存在がこの男にとって大きなものだということを知らされた時でもあった。

「やっぱり”気に入らないな”ですか?」
俺は、この場の少し重い空気を取り払おうと、冗談交じりに尋ねた。
すると、「えっ?・・・」と一瞬驚いた表情を見せた彼は、すぐにその意味を飲み込んで、口元に

笑みを浮かべながら穏やかな声で答えた。
「そうだな、気に入らないな・・・」

俺たちはお互いにふっと顔を見合せて笑った。
そして、入江直樹は「じゃあ」と言って、踵を返した。

相変わらずの自信に溢れた態度。
必要最小限しか発しない言葉と冷めた表情・・・きっと普段の自分も他人から見たら同じようなも

のなのだろうと思える。
そして、そんな時には、もうそれ以上は何も話しかけられたくないと思っていることもよくわかるの
に、だからこそ俺は声をかけずにはいられなかった。

「1年前・・・」
俺は、入江直樹の背中に向かって言っていた。

「えっ?・・・」
彼が振り向く。

「1年前、ここであなた達に出会えたこと、感謝してる。」
首だけをこちらに向けている入江直樹を真っ直ぐ見据えて俺は言った。
1年前の出来事が、ふと閉じた瞼の裏を早回しにしたビデオのように駆け抜けていく。

「そうか・・・」
彼は、それが癖のようにポケットに片手を突っ込みながら抑揚なく答えた。

「あと1年アメリカでみっちり最先端医療を学んでここへ戻って来ようと思ってます。すぐにあなた
に追い付きますよ・・・その時はもう誰にも”入江2世”なんて言わせやしないですからね・・・だから
必ずここに居てください。どこか他の病院へ移ったり、海外へ行ったりなんてなしですよ」
俺は、言葉にすることで高まる想いをぶつけるように彼に語った。

「さあな・・・お前を待っているかどうかはわからないが、オレはずっとここにいるさ」
入江直樹が、口元に微かな笑みを浮かべて答えた。

「ずっと?・・・」
俺は、やけに強調されたその言葉にふと違和感を感じて聞き返した。
「あなただって、いずれはこの病院を出てどこかもっと力を発揮できる所へ行こうとは思わないん
ですか?もっと最先端の技術が学べるところはたくさんあるじゃないですか・・・」

「その気になれば、勉強なんでどこでだってできるさ・・・それに・・・」
彼が、まるでため息をつくように答えていると、不意に背後から入江琴子が彼を呼ぶ声が聞こえた。

「入江くーん。ねえ、一緒に検診に行ってくれないのぉ〜?・・・」

その声に驚いたように振り向いた入江直樹は、いつもの調子に戻って彼女を怒鳴りつけた。
「お前何やってんだよ!先生が待ってるんだぞ、早く行けよ・・・オレもすぐに行く。」

「うん、わかった。すぐに来てよ・・・先に行ってるからね〜!」

入江琴子は、悪びれた様子もなく笑顔を見せ、もう一度俺に向って手を振ると再び病院の中に戻
って行った。
俺は、「まったく・・・」と言いながらため息をついている入江直樹にじれたように尋ねた。
「それに・・・の続きはなんですか?・・・」
すると、彼女の姿を目で追っていた入江直樹が、ぽつりと答えた。
「それに・・・あいつが笑っていられるところじゃないとな・・・」

―えっ・・・?

俺は、言葉も出せずにじっと見つめていた。
すると、入江直樹は「じゃあな」と言って、入江琴子を追って行った。
そして俺は、もう彼を引き止めることはしなかった。


それから俺は、ひたひたと胸に滲み込んで来るような感動を覚えながら、院長室へ向って歩いて
いた。

もし、入江琴子と再会したら・・・

それは、きっととても辛いものになるだろうと漠然と思っていた。
しかし、今日の唐突な再会が、俺の中にくすぶっていた想いを確実に別の何かにすり替えてくれた。

思えば、入江直樹はただ彼女に愛されているだけではなく、彼自身が入江琴子という太陽の光を
浴びて輝いた一人だったのだということ・・・
その昔、きっと一年前の俺のように、天才ゆえに自分を見つけられずにいた彼を知らず知らずに
導いたのはやはり彼女だったのだから・・・

―そうさ、やっぱり彼女は女神なんだ。

その女神の愛を一身に受け止めている彼が、何よりも彼女のことを優先させたとしても不思議では
ない。そして俺は、そんな二人に出会えたからこそ、今の自分があるのだというこも・・・

なぜか、わけもなく笑いがこみ上げた。
とんでもない奴らと関わってしまったと、ほんの少し後悔する気持ちすら感じていた。
それでも、俺はとても清々しい気持でこれから先の未来へと思いを馳せていた。
あの女神の放つ光を浴びてしまった者の一人として、彼女が教えてくれた俺自身の力を信じて進ん
でいく・・・

一年前、彼女が俺に言った言葉が蘇った。
<桐生君にもできるよ・・・>

その言葉に恥じないように、決して目をそらさず、いつかたくさんの命を救える医者になってみせる。
そして、入江2世ではなく、桐生聡志として天才入江直樹と肩を並べるために、必ずここへ戻ってくる。

だからこそ、俺は忘れない・・・忘れてはいけない。
この先、たとえ他の誰かを愛したとしても、女神に恋したあの日々を・・・


                                                END





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