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 ラブソングを聴くように・・・<前編>  心理カウンセラー:一条紗江子

その日は、朝からなんとなく何かが起こりそうな気がしてた・・・

―やっぱり、目玉焼きの黄身が破れちゃったからかしら・・・

私は、病院のラウンジでランチのトレーを持って、あたりを見まわしながらふとそんなことを考え
ていた。

別に、ゲンを担ぐつもりはないが、いつもは何の気なしに出来ていることでふと躓いたりすると人は
それを何かの前兆のように思ったりすることがあるものだ。
だからと言って、なぜか朝からずっと気になっているこの胸騒ぎの理由を朝食の目玉焼きの失敗
のせいにするのも、ちょっと強引だわと思いながら、私は空いている席を探していた。

「一条先生、ここ空いてますよ・・・どうぞ、どうぞ!」

声のする方を見ると、1年目の新人ナース達のグループがこちらを見て手招きをしていた。
若い女の子達に慕われるのも悪い気はしないが、まだまだ学生気分の抜けない噂好きな子たちの
中に入るのはなんとなく気が引けた。
恐らく、彼女たちは私を呼んで、今彼女たちの話題の中心”入江直樹”についてあれこれ聞こうとし
ているのは明らかだ。
だから私は、ほんの一瞬躊躇してから、彼女たちの必死の手招きに負けて笑顔を返した。

「ねえねえ、入江先生って本当に奥さんのこと愛してると思う?」
「あっ、私もそれ思ってた・・・この前も、すごいキツイこと言ってたし、私なんて彼氏や旦那さんにあ
んな言い方されたら、即効で冷めちゃうかも〜愛してたらあんな風に言えないよね〜普通。」
「でも、入江先生って素敵よね〜ハンサムで背が高くて天才だもん。あんな人の奥さんになれるなら
少しくらいキツイこと言われても我慢できるかも・・・」
「ええ〜でも、やっぱり愛されてなきゃいやよ〜」

まるで学食のテーブルか駅前のカフェで展開されているような会話・・・
私は、適当に相槌を打ちながら、やっぱり早々に退散しようと思いせっせと食事を口に運んでいた。
すると、とうとう私に話の矛先が向いた。
「一条先生って、入江先生と個人的にお話することなんかもあるんでしょう?・・・どう思いますか?
入江先生って本当に奥さんのこと愛してると思います?っていうかぁ〜あの二人が夫婦って信じら
れないんですけどぉ・・・」

そこにいる4人のナースたちの8個の瞳が固唾を飲んで私の答えを待っている。
私は、食事のペースを落とすことなく、淡々と答えた・・・「愛してると思うわよ」
すると、ほんの一瞬の沈黙の後、全員が一斉に「ええ〜〜」と不満の声を上げ、「本当ですか?」
「どうしてそうおもうんですか?」「入江先生がやさしくしてるところみたことありますか?」などなど
次々に繰り出される質問に、曖昧な微笑みを返すだけでは逃げられなくなってきたころ、突然天井
に設えられたスピーカーからのアナウンスが聞こえてきた。

『スタットコールです。手の空いているスタッフは、すぐに救急へ集合してください』

にわかにラウンジの中に緊張が走る・・・
慌てて出口へ駆け出す者。
院内PHSで連絡をとる者
残されて仕方なさそうに食器を片づける者・・・さまざま。

こんな時、カウンセラーである私は何の役にも立たない。しかし、目の前できょとんとした顔をして
あたりを見回している新人ナース達に葉っぱをかけることくらいはできる。

「ほら、スタットコールよ!学校で習ったでしょ?緊急招集がかかったのよ。このあと別に決められ
た仕事がないのなら、あなたたちもさっさと救急へ行きなさい!」

「えっ?・・・」
「そうよ、緊急招集よ!」
「あっ、そうか!」
「わっ、大変だ!!」

すでに、ほとんど人がいなくなったラウンジから、あたふたと飛び出していくナースたちを見送りな
がら、私は、安堵のため息をついた。
そして、テーブルの上に残された5人分の食器を片づけると、誰もいなくなったラウンジをひとり後
にした。

カウンセリングルームへ戻る途中、両手いっぱいに点滴の袋を抱えた外科のナースに出くわした私
は、悪いと思いながらも、彼女を呼び止めて事情を聞いた。

「あっ、一条先生。どこかのイベント会場での事故らしいですよ。将棋倒しになって怪我した患者さ
んが後から後から運ばれてきて救急はすごいことになってるんですが、西垣先生も入江先生も救
急に行っちゃって、今度は外科の外来が人手不足で、こっちも大変なんです・・・」
外科のナースは、慣れた調子でそう答えると、私に向って小さく会釈をして足早に去って行った。

カウンセリングルームに戻った私は、救急の様子が気になりながらも、自分のスケジュール通りに
仕事をこなしていた。
そして、スタットコールから2時間近くが過ぎて、慌ただしかった院内も落ち着きを取り戻し始めた
頃には、救急から戻ってきたナース達が、次々とカウンセリングルームに顔を出しては、嵐のよう
だった救急での出来事を聞かせてくれていた。

そんな時だった・・・

桔梗幹が勢いよくドアを開けて飛び込んできた。
「みんなここにいたの?・・・た、大変よ!こ、琴子が、琴子がぁ〜〜!!」

「ちょっと幹ちゃん、どうしたのそんなに慌てて、琴子さんがどうかしたの?」
私が驚いて桔梗幹に尋ねると、私の周りに集まっていた他のナース達も怪訝そうに彼を見た。

「さ、最後に運ばれてきた患者さんの様態が急変して緊急手術になったらしいのよ!そ、それでね
その時はまだバタバタしてる時で、介助のできるナースが残ってなくて、あろうことか琴子が直接介
助をすることになったらしくて、その手術がまだ続いてるらしいの〜〜!!」
桔梗幹は、荒い息をしながら一気にまくし立てた。

「ええ〜〜?!!」
その場にいた、他のナース達が一様に声を上げる。

「そういえば、戻って来る時に、最初の患者さんの処置を終えた西垣先生が、最後の患者さんの手
術してるって聞いたわ」
「うんうん、誰が介助してるんだろうって言ってたあれでしょ?琴子だったんだ?」
「あの子、直接介助なんてやったことないんじゃない?・・・大丈夫かしら?」
「最後の患者さんが運ばれてきた時なんて、みんな何が何だかわからない時だったものね・・・」

そこにいるナース達が、口々に言うのを聞きながら私はなぜかわくわくしたように顔を紅潮させてい
る桔梗幹に尋ねた。
「ねえ幹ちゃん?・・・入江先生は、そのことを知っているの?」

「さあ?・・・、入江先生は、別の患者さんを治療していてまだ処療室から出て来ていませんでした
から・・・」

「そう・・・」

<入江先生って本当に奥さんのこと愛してると思う?>
ふと、昼のラウンジで新人ナースが言っていた言葉が脳裏をかすめる。

私の知る限り、入江直樹の妻に対する愛情は、並みの常識で測れるようなものではない。
しかし、それでいて彼の愛情はどこか隙だらけで、不器用で、時に周りの状況など目に入らないの
かと思うほどに、ただ入江琴子一点だけに注がれていることをはっきりと見せることがある。

―こんな時、彼はどうするのかしら?・・・

ふと、そんな思いが心をよぎる。

「ねえねえ、ちょっと見に行ってみない?」
私の周りに集まっていたナースのひとりが言った言葉に、皆がうなずいている。

「一条先生も行ってみませんか?・・・琴子がちゃんとできてるか心配だし・・・」
桔梗幹が私のことも誘う・・・それは「心配」という言葉を借りた、ただの興味本位であることは明ら
かなのに、私も別な意味で駆り立てられた欲求を抑えきれずに立ち上がっていた。

きっと彼のことだ、突然不慣れな仕事を言い渡されて悪戦苦闘する妻が心配で仕方がないはずだ。
その気持ちを、いつものクールな表情の下に隠し通すことができるのだろうか・・・

―私は、彼の取り乱す姿が見たいのかしら・・・

日常とは違う状況の中で、どこか高揚している病院内の空気がそうさせるのか、それとも目の前を
歩いて行くナース達の興奮に飲まれてしまったのか・・・
私は、少し自嘲気味な苦笑いを浮かべながら、入江琴子が介助をしている手術が行われている手
術室へと向かって歩いていた。


そして、私は今朝の胸騒ぎが再び胸の中に広がるのを感じながら、まだあわただしさの残る救急
病棟へと、足を踏み入れていた・・・


                                               つづく


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