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 ラブソングを聴くように・・・<後編>  心理カウンセラー:一条紗江子

救急病棟の手術室は、フロアの一番奥にある。
私は、病棟のナースに軽く挨拶をすると、まっすぐに手術室の前へ行った。
入口の扉の上の「手術中」のランプが赤く点灯しているのを確認してからあたりを見回すと、
ランチで一緒だった新人ナース達が固まって何か話しているのが目に入った。

「あら、あなたたち・・・少しは役に立てた?」
私は、彼女たちに声をかけながら中の様子を聞けるような誰かを探していた。

「あっ、一条先生、さっきはありがとうございました。お陰さまで師長にも怒られずに済みま
した」
「そう、それはよかったわね・・・ねえ、今この中の手術って西垣先生が執刀してるんでしょ?」
「よくご存じですね〜それで、今ちょっと前にそこに入江先生が入って行ったんですよ〜!」

「えっ?・・・」
私は、新人ナースが”そこ”と言って指さした方見た。
そこには「関係者以外立ち入り禁止」と書かれたドアがあって、それが手術室の中を中二階
の高さから見学できるブースだということを私は知っていた。
「入江先生が、そこに入っていったの?」

「はい、ご自分の手術が終わってまだ手術着のままだったのに、奥さんが直接介助をしてい
るって聞いたら驚いたような顔をして・・・」

「そう・・・」
私は、一緒にいた桔梗幹たちと顔を見合わせた。そして入江直樹が入って行ったというドアに
躊躇なく手をかけた私を桔梗幹が呼びとめた。
「一条先生?・・・入江先生がいるんじゃ、私たちは遠慮しておきます」
「あら、どうして?・・・」
私が振り返りながら尋ねると、桔梗幹は気まずそうな表情を浮かべながら「だって、絶対に超
怖い顔でにらまれちゃうもん!」と答えた。
私は、思わずクスッと笑いながら「あらそう?私は平気よ」と答えてそっとドアを手前に引いた。


中に入ると、人が10人も入ったら一杯になってしまうような小さな部屋の片隅で入江直樹が
腕を組んで立っている背中が見えた。
ドアの閉まる音に、彼がゆっくりと振り返って私を見る。

「入江先生、こんにちは・・・今、”またあんたか”って顔して私を見たでしょ?」
私は、一瞬驚いたように目を見開いた彼に向ってちょっとからかうように聞いた。
入江直樹は、フッと息を吐き出すように口元に笑みを浮かべると「そんなことはないですよ」と
小さな声で答えてすぐにまた手術室の方へと体を向けた。
私は、臆することなく彼の横に立つと、ガラス越しの手術室を見回した。

手術台に横たわった患者の前に手術着を着た西垣医師と思しき背中が見える。そして、その
横に立って介助をしているのは、確かに小柄な入江琴子の背中だった。
この2人の他に数人のスタッフが静かに、しかし素早く動きながら手術は順調に進んでいるよ
うに見えた。
私は、顔は正面に向けたまま、横目で入江直樹の表情をうかがった。
身動きもせずじっと手術の行方を見つめているその眼差しからは、何の感情も読み取れない。

私は何を期待してここへ来たのか、入江直樹という天才医師の深層心理にふと興味を抱いて
から彼にとっての入江琴子という存在を知って、それからずっと二人を見守ってきた。

<入江先生って本当に奥さんのこと愛してると思う?>

それはおそらく、彼の深い愛情を知らない者なら誰もが思うであろうこの疑問。
そして、今日あらためてその疑問をはっきりと言葉で聞いたことで、今ここで何かが起こること
を期待している自分を感じていることは確かだった。

「終わったみたいですね」
ずっと黙ったままだった入江直樹がふいにつぶやいた。
見ると、西垣医師がマスクを外そうと手をかけながら、周りのスタッフに何か言っている。
さらに手術台の横にストレッチャーが横付けされ、患者を移す準備が始まったようだった。

「それじゃ、オレはこれで・・・」

手術室の様子に気を取られていると、横に立っていると思っていた入江直樹の声が後ろから
聞こえてきて、私は思わず振り返った。

「ちょっと待って、行っちゃうんですか?・・・琴子さん、がんばったんだから労いの言葉くらい
かけてあげればいいのに・・・」
私は、今まさにドアを開けようとしている入江直樹に慌てて声をかけた。

「今オレが顔を見せたらあいつがどうなるか、一条先生ならお分かりだと思いますが・・・」
入江直樹は、手術が無事に終了したのを見届けたからか、少しリラックスした表情を浮かべ
ながらおどけたように答えた。

―あら、それが見たいのに・・・

「まあ、確かに・・・」
私はあからさまに不満げな声でつぶやいた。

「ところ構わず泣かれるのはごめんですからね・・・オレはここで退散しますよ」
入江直樹は、手を掛けたままだったドアノブを押しながら言った。

「だからあなたは誤解されるのよ・・・」
私は、思わずひとりごとのようにつぶやいた。

「えっ?・・・」
彼がドアを押したまま驚いた顔をして振り返る。

その時入江直樹がドアを開けたことで、それまで遮断されていた救急病棟の本来の”音”が
部屋の中に入り込んできた。
医療機器の電子的な音、ガラスや金属製の器具の触れ合う音、もちろん人の話し声も・・・
「お疲れ様でした」という声が、幾通りも聞こえてきて、手術室から誰かが出てきたことがわ
かる。

別に入江直樹を足止めしようと思ったわけではない。
ただ、このまま彼が去ってしまったら、彼女のことが心配で彼がここにいたことは明らかな
のに、それを彼女が知らないままになってしまうことがひどく残念な気がした。
そしてもちろん、今ここで入江琴子と相対したとしたら、入江直樹がいったいどんな態度を
とるのかということに興味があるのは確かだった。

「どういう意味ですか?・・・」
入江直樹が不思議そうな表情を浮かべて私を見る。

「別になんでもないわ・・・ただ私はいつでも琴子さんの味方だから・・・」
私は、深追いするのはやめて、苦笑いを浮かべている入江直樹と一緒に救急病棟のフロア
へ出た。


すでに手術室から出てきてる西垣医師が、患者の家族と話しているのが見える。
そして、まだ残って片づけを手伝っていたランチで一緒だった新人ナース達が、私の前に出
て行った入江直樹に熱い視線を送っているのを見つけて、私は彼女たちの方へ歩いて行った。

「ねえねえ、一条先生?・・・入江先生って、やっぱり奥さんのことが心配で手術を見学して
いたんですか?」
「ええ?・・・違うでしょぉ〜だって、いつもそんな雰囲気じゃないじゃない?」
「そうよね、心配って言ってもドジ踏まないか心配だったんじゃない?」
「あはは〜確かにその方がピンとくるかも〜」
新人ナース達は、私の返事も待たずに勝手に盛り上がって笑っている。

―まったく・・・何もわかってないのね・・・

私は、新人ナース達に苦笑いを返すと結局何も言わずに小さなため息をついた。
そして、初療室の前で手術着を脱いだ入江直樹が、白衣に袖を通しながら救急病棟の自動
ドアを出ていこうとするのを見送っていると、私たちの背後から聞こえてきた入江琴子の声が
彼を呼び止めた。

「入江君!待って!」
入江琴子は、私たちの横をすり抜けて入江直樹に駆け寄った。
入江直樹の肩が、大きなため息をついたように上下したのがわかる・・・

まさに期待していた光景が目の前に展開していることをその時私は感じていた。

―さあ、どうするの?・・・入江先生。

私は、高揚してくる気持ちを落ち着かせようと胸の前できつく腕を組んで、背を向けたままの
入江直樹を見ていた。

「入江君、私、私・・・」
入江琴子が涙声で彼の背中に話しかける。

「まったく・・・西垣先生の指示に何度も迷ってただろ?」
それが入江直樹が最初に彼女にかけた言葉・・・

「えっ?・・・」
入江琴子だけでなく、そこにいて二人の様子を見ていた者たちの誰もが思わず驚きの声を
上げてしまうような言葉。労いでもなく、慰めでもない、きつい叱責の言葉・・・
しかし、入江琴子だけはすぐに気を取り直して「うん」と返事をした。

「救急の手術は一刻を争うんだ、ほんの一瞬の迷いが患者の命を危険にさらすってことわ
かってんのか」
「う、うん」
「おまえ何年看護師やってるんだよ・・・」
「うん・・・」

それでも入江琴子はひとつ返事をするたびに一歩ずつ入江直樹に近づき、次第に二人の
距離が縮まっていく・・・
私の横からは、新人ナース達が「ほらね・・・」「やっぱりキツイことしか言わないよね」といっ
た声が聞こえてきていたが、私には今目の前に展開している出来事が見たまま聞こえたま
まのことでないことはわかっていた。

「まだまだ勉強が足りないみたいだな・・・」
「うんうん・・・」

そして、入江琴子が彼の真後ろに立った時、やっと入江直樹が振り向いた。
思わずはっと息を飲むほどの優しい表情・・・私は以前に何度かあんな顔をした入江直樹を
見たことがあった。
それは、入江琴子だけに向けられるとっておきの表情・・・今の彼にはおそらくまわりのもの
は何も見えていないに違いない。

―そう・・・私はこんな瞬間を見たいとずっと思っていた。

天才と呼ばれ、誰にも心を許さず鉄壁の理性で自分の感情すらいとも簡単にコントロールで
きるはずの彼が、唯一本当の自分を隠すことができない最愛の人・・・それが入江琴子。

私は、ふと横に立っている新人ナース達に向かって言っていた。
「よく見ておきなさい・・・もう、彼が琴子さんを愛してると思えないなんて言えなくなるわ」

振り向いた入江直樹に、入江琴子が勢いよく抱きつく。
肩を震わせて嗚咽する彼女の耳元で、彼が何かささやいた。その唇は「よくがんばったな」と
動いたように私には見えた。
入江直樹は、そのまま彼女を一度ギュッと抱きしめると、呆気に取られている周りの視線に
は目もくれず彼女の髪をひと撫でしてから救急病棟を出て行った。

それは、おそらくほんの数分の出来事だったのに、今私の横で涙すら浮かべて呆気にとら
れている新人ナース達が、入江直樹の入江琴子への深い愛情の一片を知るには十分な光
景だったに違いない。

こんな彼を見たら、日頃の棘のある言葉ですら、確かな信頼と深い愛情あってのことだと納
得できるだろう。
事実、言われている当の本人である入江琴子の態度がそれを証明している。彼の叱責する
言葉に、素直に返事をしながらも最後には彼が優しく抱きしめてくれることを彼女は無意識の
内にわかっていたのだから・・・

こんな風に、入江直樹が人前でその鉄壁の仮面をはがす瞬間を見てみたいとずっと思って
いた。
思いは叶った・・・それなのに、私は今嬉しさよりも、寂しさを感じていた。
それは、彼らの恋の本当の姿を知っているのが自分だけではなくなってしまったことへの嫉妬
によく似た寂しさのように思えた。

入江琴子の真っ直ぐな愛情と、入江直樹の少し屈折した不器用な愛情の絡み合いを見てい
るのが好きだった。時に目にするその光景は、繰り返し聴きたくなるラブソングのように、いつも
私の心をとらえて離さない。
いつも人の心の奥に触れ、人の心の不確かさをずっと見てきたからこそ、あんなにも深く人を
愛することや運命ともいえる出会いをした二人の姿にずっと私は癒されてきたように思う。
いつの間にか、私の中の何か欠けているいるものが、あの二人を見守ることで埋められていく
ようにさえ思えていたのだから・・・

―もう、ひとりじめはできないってことね・・・

「あの・・・一条先生?」
ふと声をかけられ、周りをみると新人ナース達もいなくなって、自分一人が廊下の真ん中に
ポツンと立っていることに気がついた。
「さっきから、ポケットの中でPHSが鳴ってるみたいなんですけど・・・」
私に声をかけた救急病棟のナースが白衣のポケットを指さす。

「えっ?・・・あっホントだ・・・」
私は、慌ててポケットから院内PHSを取り出すと、受話ボタンを押して受話口を耳にあてた。

「一条先生!!・・・いったいどこにいらっしゃるんですか?患者さんがずっとお待ちで怒って
らっしゃいますよ!お約束の時間お忘れですか?」
それは、外科病棟の看護師長の声だった。

「えっ?あっ、す、すぐ戻ります!」
私は、腕時計を見ながら駆け出した。
午後に約束したカウンセリングの時間から、すでに30分以上が過ぎていた。

―私としたことが!・・・仕事を忘れるなんて最悪だわ。

私は、廊下を走りながら、ふと朝の目玉焼きの失敗で感じた何かが起こりそうな予感のこと
を思い出した。
もしかしたら、あの胸騒ぎはこのことだったのか・・・
決して時間に遅れない、約束を忘れないことをポリシーとしてきた私が患者のカウンセリング
の時間を忘れるなんて・・・

そして、次についさっき衆人環視の中でありながら、ほんの一瞬とはいえ妻をギュッと抱きし
めた入江直樹の姿が浮かんできた。

―私のあの二人への思い入れも相当なものだわ・・・

この私に、今どこにいるかさえ、硬いはずのポリシーさえ忘れさせてしまうほどに魅力的な
二人の恋・・・
もう夫婦であるのだから、それを恋と表現するのはおかしいのかもしれない、しかしあの二人
の間にある想いは確かに恋としか思えない。


「あら?・・・一条先生そんなに急いでどうしたんですか?・・・」
長い廊下を前から歩いてきた桔梗幹が、面食らった顔で私に声をかける。
私は、走る速度を緩めることなく、すれ違いざまに桔梗幹に向って叫んでいた。
「もう!元はと言えば、幹ちゃんがイケないんですからね〜!!」

「えっ?どういうことですか〜?それより琴子どうでしたかぁ?ねえ、一条先生ってば〜!」
桔梗幹の声が追いかけてきたが、私は無視して走り続けた。
なんだか、わけもなく笑いが込み上げて仕方がなかった・・・


入江直樹、琴子・・・どうか、ずっと変わらずにお互いに恋していて欲しいと私は心から願う。

それは、いつまでも色あせることのないラブストーリーのように・・・
永遠に歌い継がれていくラブソングのように・・・


                                           END


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