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 瞳に映っていた真実<前編>  一条紗江子物語


<紗江子?・・・俺はずっと君を愛するよ。それなのにどうして?・・・>
彼の瞳が真っ直ぐに私を見る。

<だって、私にはそれが嘘だってわかるもの・・・>
私は、彼から目をそらして答える。

<紗江子が見ると、俺の心にはそう書いてあるの?>
彼がポツリと尋ねる。

<・・・・・>
私は、うつむいたまま黙り込む。
息苦しくなるような沈黙が2人の間に流れ・・・そして、彼が言った。
<俺が愛したのは、心理カウンセラーの君じゃない・・・生身の一条紗江子だったのに・・・>

<えっ?・・・>

そして、顔をあげた私が見たのは、背中を向けて去って行く彼の後ろ姿だった・・・

―待って!・・・

どこか心の奥底から「追いかけろ」という声が聞こえていた・・・それなのに私の足は、まるで杭で
打たれたようにその場から動くことができなかった。




「まもなく斗南大学病院前に停車します」

私は、遠くに聞こえたアナウンスにはっと目を開けた。
どうやら、病院へ向かうバスの中でほんの一瞬眠ってしまったらしい・・・
顔を上げると、目の前に病院前のバス停が見えていた。

―また、あの夢・・・

私は、ドキドキと動悸する胸を押さえながらバスを降りた。
あの恋が終わってから1年が経とうとしていた。
いつもは過去の恋のことなど思い出しもしないのに、時々不意に夢に現れるのはいつも決まって同
じ別れの場面だった。

あの時のことは、夢に現れた場面の前後を心の中で封印してしまったかのようになぜか思い出すこ
とができない・・・
ただ、生身の一条紗江子を愛したと言った”彼”の言葉だけが、いつまでも心の中に棘のように刺さ
ったまま悲しい記憶の中に燻っているように思えていた。

「いけない、いけない!」
私は、ついつい過去に浮遊して行ってしまいそうな気持ちを引き戻すように声に出して自分に喝を入
れると病院の門を入って行った。
すると、後ろから聞きなれた声が私を呼び止めた。
「一条先生、おはようございま〜す!」

「あら、琴子さん、おはよう・・・今朝は入江先生と一緒に出勤なのね?」
私は、入江琴子に笑顔で挨拶をすると隣を歩いてくる入江直樹に軽く頭をさげて「おはようございます」
と言った。

「そうなんですよ〜入江君と一緒に来られるのってホントに滅多にないから、ちょっとデート気分です!」
入江琴子は上機嫌で隣の入江直樹に腕をからめたりして見せる。
すると、入江直樹はその腕を鬱陶しそうに引き抜くと、私に向って「おはようございます」と言った後、
口を尖らしてもう一度腕を組もうとする入江琴子を振り払うようにしながら言った。
「オレは、このまま行けば間に合うけど、お前はさっさと着替えに行った方がいいんじゃないか?遅
刻するぞ」

「えっ?・・・もうそんな時間?」
入江琴子は慌てて腕時計を見ると急に青ざめた。
「きゃあ遅刻しちゃう、じゃあ入江君またね、一条先生失礼します!」

私が呆気に取られてバタバタと走り去っていく入江琴子を見送っていると、入江直樹がボソリと言った。
「まったく、懲りない奴・・・」

そして、私がその声に振り返った時には、彼はもうエレベーターホールに向って歩き始めていた。
すると、その後ろ姿がバスの中で見た夢の”彼”の背中とふとだぶって見えて、私はその光景を振り
払うように数回頭を振ると歩きだした。

―今日はどうしちゃったんだろ・・・

見ると、少し先で丁度エレベーターの扉が開いていた。
「乗ります!」と言いながら、閉じかけた扉をすり抜けて中に入るとそこには入江直樹ひとりが乗って
いた。
入江直樹は、彼のオフィスのある5階のボタンを押すとほんの一瞬だけ私を振り返って、すぐにまた
階数表示パネルに顔を向けた。
私は、入江直樹から一番離れた奥の角に立つと、再び彼の後ろ姿を盗み見た。

ただ立っているだけなのに、その全身から放たれるオーラのようなものに圧倒される・・・
私はきっと他の誰よりも、もしかしたら妻の入江琴子よりも彼の本質を知っているかもしれないという
自負を持ちながらも、やはり迂闊には話しかけられない壁がそこにはあるように思えた。

それなのに、私はふと聞いてみたくなった・・・
それは過去の悲しい恋の記憶が蘇ったからか・・・それともいつもの好奇心からなのか・・・

エレベーターはゆっくりと上昇を続け、他の階には止まらずに5階のフロアに到着した。
そして、扉が開く一瞬前にチンと鳴ったチャイムがまるで心のスイッチを入れたかのように、私は入江
直樹に尋ねていた。
「入江先生は、ずっと琴子さんに愛され続ける自信がある?」

「えっ?」
扉が開ききらない内から外へ出ようとしていた入江直樹がふと立ち止まって振り返って私を見た。
私は、入江直樹の刺すような視線に我に返ると、すぐに今言ったことを打ち消した。
「な、なんでもないわ・・・変なこと言ってごめんなさい・・・」

それでも、その時入江直樹の唇が何か言おうとしたのを私は見た・・・しかし、私たちの乗っていたエ
レベーターで上階へ行こうと5階のフロアで待っていたスタッフがまだ私が乗ったままのエレベータ
ーに乗り込もうとして来たのを除けながら入江直樹はそのまま去って行ってしまった。

慌ててエレベーターから降りた私は、入江直樹が廊下の角を曲がる瞬間の横顔を見ながら激しい
自己嫌悪に陥っていた。

―何を血迷ったの?・・・入江先生にあんなこと聞くなんて!

私は、カウンセリングルームに入ると、仕事に没頭した。
30分刻みのスケジュールが組まれているカウンセリングをこなし、合間にカルテの整理や次のカ
ウンセリングの計画を立てた。
仕事をしていれば忘れていられた。
職種上、自己分析は完璧だという自信もあった。
そして今の私にとって、何よりも仕事に勝るものはないと思っていた。


午前中最後の患者をカウンセリングルームから送り出すと、すぐにドアがノックされて桔梗幹が顔
を見せた。
「一条先生、午前中のお仕事終わったんでしょう?・・・私たちこれから休憩なんだけど一緒にラン
チどうですか?」
「うーん、どうしようかな・・・このカルテだけ片づけちゃいたいのよね・・・」
私は、たった今カウンセリングした患者のカルテを持ち上げて桔梗幹に見せた。
すると、少し残念そうな顔をしながら桔梗幹が言った。
「そうですか・・・じゃあチャチャっと片づけて来てくださいね。一応一条先生の分も席取っておきま
すから」

「わかったわ。ありがとう・・・」
私は笑顔を向けて答えると、すぐにカルテを広げて今カウンセリングしたことの報告を書き始めた。
しかし、その作業に思いのほか時間がかかり、カルテを閉じて時計を見た時には、すでに桔梗幹
たちの休憩時間は過ぎてしまっていた。
このまま、売店でサンドウィッチでも買ってきてランチを済ませてしまおうかと思いながら午後のス
ケジュールを見ると、この後のカウンセリングがひとつ患者の事情でキャンセルになったことを思い
出し、私は財布だけを持ってラウンジに向かった。

午後2時近いラウンジは人もまばらで、私はその日のランチメニューの乗ったトレーを持って壁際
の2人用の席に座った。
黙々と食事をしていると、ふとまた今朝の夢が蘇ってくる。

確かに私も”彼”のことをとても好きだった。
真面目で優しくて大きな夢を持った人だった。
ただ、その真面目さゆえに時に窮屈に思ったこともあった。
それでも、それにあまりある幸せも感じていた。

―それなのに、どうして手放したの?・・・

結局、いつも”彼”を思い出す時、私の心はこの問いかけに答えられずにまた次に思い出す時ま
で封印される・・・その繰り返し。

―これじゃ、完璧な自己分析ができてるなんて言えないわね・・・

私は、箸をくわえたまま自嘲気味に笑うと、テーブルの端に置いたままだった水の入ったコップを
取ろうと手を伸ばした。
そして、そのコップを持ち上げたとたん、たった今コップのあった場所に食事の乗ったトレーが置
かれて私は驚いて顔をあげた。

そこには、絶対に私と2人でランチをしようなどと思うはずのない人物が立っていた。

「入江先生?!」
私は、もしかしたらとても素っ頓狂な声をあげていたかもしれない。
それでも、今目の前に立っているのは紛れもなく白衣姿の入江直樹だった。


                                               つづく


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