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 瞳に映っていた真実<後編>  一条紗江子物語

―どうして、入江先生が?・・・

「ここ座っていいですか?」
入江直樹は、目の前の椅子を指さした。
いつもと変わらぬクールなその表情からは、彼の意図するところは何も読み取れない・・・

「え、ええ、どうぞ・・・」
私は、動揺を隠すように無理に笑顔を作って彼を促した。

―いったい、どういうつもり?・・・

心ではそうつぶやきながらも、思い浮かぶのは今朝のエレベーターでの出来事・・・
まさか、入江直樹が私のあんな問いかけを相手にするとは到底思えなかった。
しかし、こんなに広いラウンジであえて私と相席しようとするなど、今朝のことを意識しての行動だ
ということは、それがカウンセラーでなくても容易にわかることだった。

私は、彼がどう話しを切り出してくるのか何も言わずに様子を伺った。
冷静になれば、こんな状況の場合私の方に分があると思っていた。

しかし、入江直樹はまるで目の前に私が座っていることなど忘れたように黙々と食事を続け、つい
には皿を全部空にしてしまった。
そして、コップの水を一気に飲み干してふーと息を吐き出すと、少し照れた仕草をしながら言った。
「腹が減ってて・・・」

―えっ?・・・

それは、不意打ちだった・・・

私は一瞬、ぽかんと彼の顔を見ていたかもしれない・・・
ほんの少し人よりも知っているつもりだった入江直樹の、おそらくこれまでに見たことのあるどん
な顔も当てはまらない表情をして彼は私を見ていた。
そして、決して飲まれはしないと身構えていた気持が緩んだ隙を突くように、彼の言葉が私の心
に流れ込んできた・・・

「オレに自信があるかどうかなんて関係ないんです・・・先のことなんてわからない。
でも、何があってもあいつはずっとオレだけなんですよ。あいつの真っ直ぐな目を見ればわかる
でしょう?・・・生半可な気持ちじゃ対峙できない・・・だから、強いて言うならオレはそんな琴子の
自信を信じてるんです」
入江直樹は、不思議なほど優しい微笑みを浮かべて私を見ると「これでいいですか?」と言って
私の顔を見た。

―真面目に答えてるの?・・・

呆気に取られたままだった私は、何とか気持ちを落ち着けながら、彼に尋ねた。
「ど、どうして、あんな質問に答える気になったんですか?」
私はともすれば涙が出て来そうな感慨に浸りながらも、入江直樹の不可解ともいえる行動の理
由を知りたいと思っていた。
すると、入江直樹はなぜかにやりと笑いながら答えた。
「あの時、一条先生はオレに質問しながら、同じことを自分に問いかけているように見えたんです
よ・・・違いますか?」

「私が自分に?・・・」
私は戸惑いながら彼を見ていた。

「そう見えましたよ・・・一条先生でも迷うことがあるんだと思うと、ちょっといい気味だと思いました
ね・・・だからこそ、あの質問にはきっと答えてあげようって思ったんです・・・それだけのことですよ。」
入江直樹は、まるで私をからかうような口調でそう言った。

「いい気味って・・・」
私は顔をしかめながら呟いた。
しかし、入江直樹はそんな私の不満など耳に入っていないかのように、話しを続けた。
「あなたがどれ程優秀な心理カウンセラーであっても、わかるのは過去と今の心だけです。オレ
達医者も同じです、患者に対して今できることを精一杯やって未来につなげていけばいいんです。
それは、人の心も同じですよね・・・まぁ、そんなことはオレが言うよりも一条先生の方がずっとわ
かっていることだと思いますが・・・」

私は、いつになく饒舌な入江直樹の言葉を相槌すら打てずに聞いていた。
そして彼は最後にもう一言付け加えた。
「それとも一条先生は未来にも確実な約束が欲しいと思ってるんですか?・・・」

―えっ?・・・

そして、入江直樹は最後にとても優しい眼差しで私を見ると「じゃあこれで」と言い残してラウンジ
を出て行ってしまった。

私は、彼の背中がラウンジの出口に消えた瞬間、まるでそれまで呼吸を止めていたかのように
全身の力を抜いて息を吐きだした。

―な、なによ!あれ!!

私は、お門違いも甚だしく込み上げてくる怒りと恥ずかしさに思わず声に出して言ってしまいそう
な言葉をなんとか飲みこんだ。

完全に普段とは形勢が逆転していた。
きっと彼はいつも、入江琴子のことで私にやり込められた後には、こんな気持ちになっているの
だろうと思うと自然と苦笑いが込み上げて来て、私は周りを気にしながら口を押さえてしばらく笑
っていた。
そして、ゆっくりと立ち上がると、人気の途絶えたラウンジを後にした・・・

カウンセリングルームに戻っても、私は今朝の夢の光景とラウンジでの入江直樹の言葉を交互
に考えていた。
目の前に広げた夕方にカウンセリングをする患者のカルテは、随分と長い時間1ページ目のまま
だった。

<それとも一条先生は未来にも確実な約束が欲しいと思ってるんですか?・・・>
入江直樹が最後に言った言葉が何度も頭に浮かんだ。
その言葉で目が覚めた気がした。
長い長い悪夢から解放されたように思えた。

カウンセラーである私にわかるのは、今と過去の心だけ・・・

―そんなことは、わかってる。

人の心の中が手に取るようにわかるからこそ、そこに自分への想いを見つけた時、それが永遠
のものではないと勝手に決め付けて信じようとしなかった。
我を忘れて愛してしまうことを恐れて、傷つく前に終わりにしたかった・・・ずっとそうして来たよう
に思う。

だからこそ知りたかった。
入江琴子の盲目的な愛情を一身に受け止めている入江直樹の心は、一点の曇りもなくそれを
信じているのかと・・・
もし、信じているのならどうしてそうすることができるのかということを・・・
ところが彼は言った。
自分に自信があるかどうかなど関係ない、ただ自分を好きだという入江琴子の自信を信じてい
ると・・・決して、自分から愛しているとは言わない彼らしい答えだと思いながらも、そうすることの
難しさは誰よりも今の私には実感できる。

相手が未来を語るたびに私の心にはざわざわとさざ波が立った。
歯の浮くような愛の言葉に、心は急速に冷めていった。
それなのに、なぜ”彼”のことだけは、夢にまで見て忘れられずにいるのだろうとずっと思っていた。

その答えが、今日やっとわかった気がした・・・

ラウンジで入江直樹と話している時、夢の中で私を見つめる”彼”の真っ直ぐな視線と入江直樹
を見つめる入江琴子の眼差しとが重なって見えていた。
そこには、きっと真実が映っていたのだと今さらながら気づいていた。
だからこそ、本当は信じたかったのに私は臆病で素直に飛び込んではいけなかったのだとも思
っていた・・・

<人の心も同じですよね・・・>

いつか失うかもしれないことを恐れるよりも、今愛されていることが大切なのだと入江直樹は言
ったんだ。
それが私の深読みだとしても、今があってこそ確実に未来へ続いて行くのだとはっきり思うこと
ができた。

―入江直樹って人は・・・

<入江先生は、ずっと琴子さんに愛され続ける自信がある?>
このたった30文字にも満たない問いかけの中に、いったい彼はどれ程の私の想いを汲み取っ
てくれたのだろう・・・
もし、次に誰かに恋をしてその瞳の中に真実を見つけられたなら、今度は未来を恐れずにその
胸に飛び込んで行こう・・・今は素直にそう思えた。

それにしても、まさかあの入江直樹が私の心を救ってくれるとは思わなかった。
もちろん、彼はそこまでは思っていないだろう・・・それでも、これまでに何度も彼の心に欠けて
いたものを示唆してきたつもりの私には、少々片腹痛い思いがないではなかった。

―それに・・・

「逃した魚は大きかったな・・・」
私は、夢の中の”彼”の後ろ姿を思い浮かべながら深刻になりすぎた自分を茶化すようにつぶ
やいた。

「えっ?・・・どんな魚を逃したんですか?・・・」
不意にどこからか声が聞こえて、私は飛び上るほど驚いた。
見ると、ドアを開けて桔梗幹がニヤニヤしながら立っていた。

「も、幹ちゃん!・・・何か用?」
私は、どぎまぎしながら尋ねた。

「何か用?じゃないですよ!ノックの音が聞こえないほど考え込んでて・・・4時からのカウンセ
リングの患者さんがいらしてるんでお通ししていいか聞きに来たんです!・・・それより、逃がした
魚って誰のことですか?そんないい男がいたんですか?」
桔梗幹は、私の目の前まで進んでくると興味津々の顔を突き出して聞いてきた。

「な、なんでもないわよ!それにどうして男だって決めつけるのよ!・・・それより、早く患者さん
をお通しして!」
私は、そう言いながらまだ1ページもめくられていないカルテを慌てて読みはじめた。


その日、仕事を終えて病院の出口に向っていた時、ふと見た廊下の先に入江直樹の姿を見つ
けた。
もし、彼が私に気づいたら頭を下げようかと思った瞬間、彼の後ろの角から入江琴子が現れた。

「入江君!・・・何時頃帰るの?私少し残業になっちゃったから、一緒に帰れるかと思って・・・」
満面の笑みの入江琴子が、入江直樹の腕にぶらさがるようにして返事を待っている。

「わかんねーよ。オレを待ってなくていいから、終わったらすぐに帰れ。いいな・・・」
相変わらず素っ気ない夫の返事に、入江琴子が頬を膨らませる。

その後、何かもう一言二言会話をして、2人は違う方向に歩いて行った。
でも、その別れ際、入江直樹は妻の頭をひと撫ですると、とても優しく微笑んでいた。
その微笑みこそが、きっと今を大切にしている彼の姿勢のように私には思えた。

<俺が愛したのは・・・生身の一条紗江子だったのに・・・>

今までのことを後悔したくはない、だからもう一度”彼”に会いたいとも思わない。
でも、もう二度と、あんなに悲しい気持で、誰かの背中を見送ることはしたくない。


私はしばらく入江直樹の去っていく後ろ姿を眺めながら思っていた。
きっと次には、未来へと続く恋をしよう・・・と。

そう、あの2人のように・・・・


                                              END


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