≪Menu
 初恋 <2>  教育実習生:佐多香織

「ねえ、入江直樹って、あの子のどこを好きになったんだと思う?」
私は、職員室の中を落ち着きなく歩き回っている入江琴子を、自分の机に頬杖をついて
眺めながら、隣の席の元同級生に聞いた。

「さあ・・・まあ、あの子の一途さは、高校の時からかなりの評判だったけどね。それにず
っと同じ家で暮らしてたみたいだし、入江直樹のお母さんが、またあの子を相当気に入っ
てたみたいよ」
元同級生は、我関せずといった風にそっけなく答えた。

入江直樹の家に相原琴子が一緒に住んでいたという話しや、相原琴子が一方的に入江
直樹に片思いをしていたことは、知らない者がいないほど、この学校では有名な話らしく、
教育実習に来て間もないうちから自然と耳に入ってきた話だった。

―私が知りたいのはそんなことじゃない・・・

私は、隣の元同級生の横顔をひと睨みしてから、次の授業のための資料を抱えてC組の
教室へと向かった。


授業を終えて職員室に戻ると、いつもそのたびに落ち込んだ顔をしている入江琴子がめず
らしくウキウキとした表情で席に座っていた。見ると、入江琴子の前には、ひとりの女生徒
が座っていて、なにやら楽しげに話し込んでいた。
私は、すこし興味を引かれ、コピーをとる振りをして二人に近づいた。
どうやら、F組の佐川好美という生徒が、A組の入江裕樹に片思いをしているらしく、それを
自分のことと重ね合わせて興奮している入江琴子が、私にはこっけいに見えた。

「私も5年も片思いしてたから、あなたの気持ちがわかるのよ・・・」
「じゃあ、どうして勇樹君のお兄さんと結婚したんですか?勇樹君のお兄さんはどうして急
に琴子先生のことを好きになったんですか?」

私は、自分の耳を疑った・・・
今まさに、私が知りたかったことの答えが、本人の口から語られようとしている。
私は白紙のA4のコピー用紙の束を握りしめたまま、身動きもせずに入江琴子の声に耳を
澄ませた・・・

「それがね、私にもよくわからないの。聞いたこともないしね・・・でもたぶん、何があっても
絶対にあきらめなかった私の想いに感動したんじゃないかって思うの・・・だから、あなたも
きっと大丈夫よ」

―えっ?・・・結婚までしたくせに、わからない?

私は唖然として振り向くと、職員室を出て行く入江琴子の背中を見つめていた。

翌朝、学校に来ると職員室がいつになくざわついていて、そこかしこで教師達が何やら話
しこんでいた。
机にバッグを置いて、職員室を見回すと教育実習の担当教諭の前で、何度も頭を下げて
いる入江琴子の姿が見えた。

「彼女、またなにかやらかしたの?」
隣の元同級生にそっと聞く。

「あずけられてたA組の答案用紙を持って帰るのを忘れたからって、夜中に学校に忍び込
んだらしいのよ・・・それで、通報されて警察に連れて行かれたんですって。旦那に迎えてき
てもらったらしいけど、入江君もすごい奥さんもらっちゃったわよね・・・」
元同級生は、ニヤニヤと笑いながら答えた。

―どうして?・・・どうして、どうして、どうして!!

胸に込み上げるものは、今にも堰をきって流れ出しそうだ。
どうして、あの入江琴子が、入江直樹に愛されているのか・・・

最初の授業では、教育実習生のくせに自分の名前をまともに書くことも出来なかった。
A組の授業では生徒にやり込められて何も言い返せなかった。
まともな授業も出来ないくせに、生徒の恋愛には首を突っ込む。
おまけに、生徒の答案用紙をなくして警察沙汰になってみんなに迷惑を掛ける・・・

私は、握りしめた拳を微かに震わせながら、湧き上がる怒りなのか嫉妬なのかわからない
感情を必死に堪えていた。

私は、なんとか心を落ち着かせて、朝一番の授業をするためにA組の教室へ向かった。
A組は、やはりこの学校で一番優秀な子供達があつまるクラスらしく、いつも手ごたえのあ
る授業をすることができてとても勉強になる。

私は、授業をしながらふと入江裕樹という生徒に目を止めた。
入江直樹の弟だというその生徒は、兄に似て今の斗南中でもっとも成績の優秀な生徒らしい。
入江琴子にとっては、義理の弟ということになるのだが、彼女が授業をするときにはどうや
らこの義理の弟が兄嫁を徹底的にいじめていると、他の実習生が言っていた。

私は、授業が終るとためらうことなく、入江裕樹を廊下に呼び出した・・・

「先生、僕に何の用ですか?」
まるで中学の時の入江直樹のような、そっけない言い方に笑いが込み上げる。

「裕樹君にちょっと聞きたいことがあったものだから・・・私、高校2年まで君のお兄さんと同
じクラスだったのよ。ねえ、裕樹君ってお義姉さん、つまり琴子先生のことあまり好きじゃな
いみたいだけど、お家ではお兄さんっていうか家族とは上手くいっているの?」
私は、この入江直樹の弟が、兄嫁を嫌っているなら何か聞かせてくれるかもしれないと思っ
ていた。しかし、私の少し遠まわしな言い方もおかまいなしに、入江裕樹の口から出た言葉
は意外なものだった。

「僕がいつ、あいつ・・・琴子先生を嫌いだっていいました?」
入江裕樹は、頭を上げず上目遣いに私を睨むように言った。

「えっ?・・・」
あまりに思いがけない答えに私は次の言葉を失っていた。

「佐多先生って、もしかしたら兄のことが好きだったですか?・・・僕に何を聞きたいのか知ら
ないけど、僕はきっと先生が喜ぶような答えは出来ないと思いますよ」
入江裕樹は、さすがに天才入江直樹の弟らしく、大人びた物言いで畳み掛けるように私をけ
ん制している。

「そ、それってどういうこと?・・・」
完全に飲まれていることを感じながらも、私は一るの抵抗を試みた。

「先生みたいなこと聞く人なんて五万といるってことです。これだけは言っておきますけど、兄
と琴子の間には誰も入れないですよ!僕はまだ子供なんでそれ以上のことはわかりません
けどね・・・じゃ、失礼します」
入江裕樹は、頭を下げると呆気にとられている私にほんの一瞬視線を投げかけてから教室
の中へ消えていった。

―なんなのよ!!

私は毒気にあたったように、呆然と職員室へ戻った。

そして、結局何の答えも出ないまま、公開授業も終わり、いよいよ教育実習の最終日が訪れた。
最後の日であっても、それぞれのクラスで普通に授業は行われ、ただ最後にお別れの挨拶
をするだけで淡々と時間は過ぎていった。

しかし、職員室に戻るたびに私を驚かせたのは、入江琴子の机の上に増えていくたくさんの
花束やプレゼント・・・
私は、今さらになって気付き始めていた。
休み時間のたびに、職員室に押しかけてくる生徒達の笑顔や涙の意味を・・・
生徒達にはわかっていたんだ。
教師としての資質にばかりこだわっていた私とは逆に、入江琴子が人間として自分達と向き
合ってくれていたことを・・・
上から見下ろすばかりの私と違って、彼女が自分達の目線まで身を低くして相対していたこ
とを・・・

問題ばかり起こしていたはずなのに、最後の最後で私は思い知らされていた。
ありのままの姿でいることは、とても難しいこと・・・それなのに、入江琴子はいとも簡単にそ
れをやってのけていたんだ。

そう・・・もしかしたら、入江直樹は彼女のそんなところを愛しているではないかと思えた。
正直で、あけすけで、一途な彼女の心が、あの氷のような入江直樹の心を溶かしたのだろうと・・・

嘘つきで、見栄っ張りで、弱虫な私では、あの入江直樹の心を掴むことなど無理なことだっ
たんだ。


最後の授業を終えて、職員室に戻るとF組の生徒達が入江琴子を囲んで、別れを惜しんで
いた。
私は、お世話になった先生方に挨拶をして回りながら、ふと部屋の壁に掛けられた時計を
見上げた。

―今なら、間に合うかもしれない。

心に湧き上がる思いが、自然と体を動かしていた。
このままでは、帰れない。
もう一度彼に会いたい。

「香織、これから実習生の打ち上げだって!」
元同級生が、私の肩をたたいた。

「う、うん・・・ちょっとごめん!」
私は、驚いている元同級生を振り切って、職員室を飛び出していた。

息が切れるのも厭わずに、ただ真っ直ぐにひとつの場所を目指して走っていた。
ちょうど一週間前、この学校へ戻って来て初めて入江直樹を見つけたあの場所に向かって・・・


                                                つづく


Menu ☆ Next