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 彼に恋した10日間<1>  医学実習生:神谷美咲

その恋は、ある日何の前触れもなく私の心に降りて来た。
なぜ恋は、誰にでも平等なんだろうと思う・・・
決して届かぬ想いならそれが恋だと気が付く前に捨ててしまえればいいのに。
でもだからこそ恋は必ず心に何かを残していく・・・ときめきや戸惑い、そして涙と痛み。

それが叶わない恋ならばなおのこと・・・
いつの日か振り返った時に、それが透明な結晶になってキラキラしていて欲しいと私は願う。




「やあ、神谷美咲さんだね。私は君の指導医になるはずだった西垣です」

―えっ?・・・なるはずだったって、なに?

ここは、斗南大学付属病院の外科の医局。
私は、医学実習で初めて足を踏み入れた医局の片隅で、西垣と名乗った医師を戸惑いながら見
つめていた。
しきりに医局のドアに視線を送りながら曖昧に微笑むばかりの西垣医師にしびれを切らした私は
先の言葉を促すように尋ねた。
「あ、あの・・・それじゃ私の指導医は・・・」

そして「まあまあちょっと待って・・・」と西垣医師が私の言葉を遮った時、ドアの開く音がして誰か
が医局の中に入って来た。

「こっちこっち」と西垣医師が手招きをする方を振り返った私の視線の先に彼はいた。
私には一瞥もくれず、まっすぐに西垣医師の前に進んだ彼は「遅くなりました」と西垣医師に頭を
下げ、その後やっと私のことを見た。

―誰?・・・この人・・・

「ああ、神谷さん。待たせたね・・・私の担当患者がどうしても目を離せない状態で君の指導医を
引き受けられなくなってしまったかわりに、彼に君の面倒をみてくれるように頼んであるから・・・」

「えっ?・・・で、でも・・・」
私はそのあまりにも若い医師を見て、不安を覚えた。すると、西垣医師はそんな私の気持ちを見
透かしたように隣に立つ若い医師の肩を叩きながら言った。
「彼は若いけど非常に優秀な医者だ。本当ならまだ研修医の年齢だが、院長の特別の計らいも
あって異例の早さで専門医になったこの病院の出世頭だから、何も心配はいらないよ」
西垣医師は、まるで自分のことを自慢しているかのように胸を張りながらまくし立てた。
それでも一抹の不安は拭えないまま、私は仕方なく西垣医師にうなづくと、横に立つ若い医師に
向かって挨拶をした。
「斗南大学医学部5回生の神谷美咲です。将来は外科を志望しています。今日から10日間、よ
ろしくお願します」


私は、この時はまだ彼のことを何も知らなかった。


子供の頃、命にかかわる病気をして入院したことがあった。
その時に、ずっと私を励ましながら病気を治してくれた医師との交流から自らも医学の道を志し
て今日まで、医学に関すること以外にはほとんど興味を持つことなく生きて来た。
もちろん友達と夜通し語り明かしたり、好きなアーティストのライブいったこともある。
人並みに彼氏と呼べる存在の人がいたこともあった。
でも、そのどれもが医学以上に私を夢中にさせるものではなかった。
はた目には、それなりの青春、それなりの学生生活を送りながら、私の生活の中心にはいつも
医者になるという夢があった。
そして、その夢はそれ以外のことなら、どんなことでもあっさり捨ててしえる程私の中では大きな
位置を占めていた。

だからこそ、実習生とはいえ今日初めて医療の現場に立つことができたというのに、自分の指導
医がついこの間まで研修医だった医師だなんて・・・

彼は、頭を下げた私に抑揚のない声で「よろしく」とひと言だけ言った。


それが私と彼との最初の出会い・・・
あの時、医局の大きな窓から差し込む春の日差しが、私の足元に小さな陽だまりを作っていたこ
とをやけにはっきりと覚えている・・・

そしてこの出会いが、医者としてだけでなく、人として生涯忘れることのできない鮮やかな思い出
をこの胸に刻むことになるとは、もちろんその時の私はまだ知らない・・・


                                                   つづく






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