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 彼に恋した10日間<2>  医学実習生:神谷美咲

実習初日の夕刻、斗南大の学食のテーブルに、それぞれの初日を終えた同期の仲間たちが集ま
っていた。
私は、仲間たちの顔を見るとやっと緊張から解放されて、色あせた学食の椅子にドサリと音を立て
ながら腰掛けた。

「美咲〜初日から随分とお疲れの様子ね〜外科の実習生はあんた一人だったし、大変だったの?」
私の隣に腰掛けていた仲間の一人、吾妻祥子が半分からかうように言った。
そして、祥子の言葉に合わせるように、他に3人ほどいた仲間たちが口々にあれこれと尋ねて来た。
「ねえねえ、指導医はどんな先生だった?・・・私はね〜ちょっと禿げたオヤジ先生だったよ・・・優し
かったけどね」
「あら〜私は黒ぶち眼鏡の硬そうな先生でさ〜質問すると受け答えが超真面目なの〜なんか息苦
しかったよ」
「ねえ、美咲はどうだったの?・・・医学バカのあんたがそんなに疲れてるなんて、思いっきり勉強で
きてよかったんじゃない?・・・」

まるで機関銃のように降り注ぐ口さがない仲間たちの声に閉口しながら、私はポツリと答えた。
「よくわかんない・・・だって、朝行って挨拶したあとずっとその先生が担当してる患者のカルテを読
まされてさ・・・ほとんど口もきかなかったもん・・・」

「へえ〜外科っていったら指導医は西垣先生?・・・」
祥子が私に聞いた。

「ううん・・・本当はその先生だったんだけど、急に変更になってつい最近まで研修医だったってい
う若い先生になったのよ・・・」
私は、今朝の医局での光景を思い出しながら答えた。
すると、それまでアイスティーの氷をストローでカラカラとかき回しながら話していた祥子が、不意
に手を止めて私の顔を見た。
「ちょ、ちょっと美咲!・・・今、最近まで研修医だった先生って言った?」
祥子は、顔を突き出すとまるで私に覆いかぶさるようにして聞いてきた。

私は、あまりに唐突な祥子の反応に、思わずのけ反りながら聞き返した。
「そ、そういったけど、何よ・・・?」
ふと周りを見ると、他の仲間たちも祥子と同じような表情をして私を凝視している。

「ああ〜もう美咲ったらじれったいな〜!・・・早くその指導医の名前言って!」
祥子が、まるで命令するような口調で言った。

私は、その言い方に少しムッとしながら吐き捨てるように答えた。
「入江直樹って先生よ!・・・それが何なの?」

情けない話だけど、私は本当に彼のことを何も知らなかったらしい・・・

私が彼の名前を口にした途端、夕方のけだるい空気が漂う学食の中で、私たちのいた一角だけ
がまるで蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。

「美咲!それホント?・・・入江直樹って言ったら、この大学じゃ超有名人じゃない!」
祥子が、目を輝かせながら言った。

「ええ?・・・そうなの?私、知らない・・・」
私が答えると、次には仲間たちの冷やかな視線が私に注がれた。

―な、なんなのよ、いったい!

「まったく、これだから美咲は・・・少しは男にも興味を示しなさいよ。」
「ホント、入江直樹を知らないなんて、この大学の医学部じゃ超有名人じゃない!・・・在学中は学
園祭の人気投票でずっと1位だったのよ・・・これはもう伝説よ!ホントに知らないの?・・・とはい
え、私も会ったことはないけどね・・・えへへ」
「IQ200の天才で、背が高くて、超イケメン。大学病院じゃナース達のファンクラブもあるとか
聞いたけど・・・」
「そんなすごい人が、よりにも寄って医学バカで恋愛音痴の美咲の指導医だなんて、ある意味神
様の采配って残酷よね〜!あはは・・・」

私は仲間たちが、当の本人の私を完全に無視して盛り上がっている会話にあきれながら、あらた
めて入江直樹という医師のことを思い出していた。

確かに、背も高かったし、端正な顔立ちをしていたと思う・・・でも、だからと言って私に限って言え
ば、彼に対して何の感情も抱かなかった。

―好みの問題だと思うけど・・・ふんっ!

それよりも、微笑みすら浮かべずに私に向けられた視線と抑揚のない声・・・
正直に言えば、彼は私の指導医になることを迷惑に思っているのではないかと勘繰りたくなるよう
な対面だったことの方が気にかかった。

―お世辞でもにっこりくらいしてくれたっていいように思うけどね・・・

私は、掴みどころのない入江医師の表情を思い出して小さなため息をついた。


「・・・美咲?・・・美咲?!」
私は、祥子の呼ぶ声でふと我に返った。
「な、何?・・・」

「それはこっちのセリフよ・・・どうしたの考え込んじゃって。からかったりして怒った?・・・」
自分から話を振っておいて今度は心配そうに私の顔を覗き込む祥子に、私は首を振りながら答えた。
「別に怒ってなんかいないわよ・・・ただ、ホント私ってみんなが言うように何にも知らないんだなっ
て思って反省してたの・・・」
私は、祥子を安心させるように肩をすくめて答えながら、今仲間たちから聞いた入江医師の印象
と自分が感じた印象とのギャップに、何か得体のしれない不安も感じていた。

「まあ、美咲以外の女子が実習生だったら、間違いなく彼にポーっとなっちゃって実習にも何もな
らないだろうから入江先生にとっても相手があんたで好都合だったかもね・・・」
祥子は、クスクス笑いながら言った。
私は祥子を軽く睨みながら「何よそれ・・・」と答えたあと、一瞬見つめ合ってから声をあげて笑った。


私たちは、学食の窓の外に夜の帳が降りていることに気づいて慌てて席を立った。
実習は始まったばかり・・・誰もが明日のことを思って、いつものように時間を忘れて語り合ってい
る暇などなかった。

学食を出た私たちは、大学の門の前でそれぞれの方向へ別れた。
その別れ際、祥子がふと思い出したように私を振り返った・・・

「そうそう美咲!・・・何にも知らないあんただから一応教えておいてあげる・・・」
「何?・・・」
「入江先生ってね、結婚してるらしいわよ・・・」
「だから?・・・」
「そうね・・・まぁ、間違っても恋なんてしないように、おまじないかな!」
祥子は、顎に人差し指をあてて言うと、笑いながら手を振って帰って行った。

―おまじない・・・って何よ!・・・

私は、しばし呆然と祥子の後ろ姿を見送りながら、心の中で文句を言っていた。

―だいたい何で私が入江先生に恋なんて・・・あ・り・え・な・い!!

私は、祥子の背中に向かって思いっきり舌を出すと少し気も済んで、バス停の明りに向かって
歩き始めた。


恋なんて、その頃の私にとってはひどく遠いところにあるモノのように思えていた。
だからこそ・・・恋なんてするはずがない・・・この時私は、本当にそう思っていた。


                                                つづく


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