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 彼に恋した10日間<3>  医学実習生:神谷美咲

実習2日目の朝、私は2時間ほど早く病院へ来ていた。

昨日から読み始めたカルテを少しでも早く読み終えてしまいたかった。
考えてみれば、入江先生に付いて歩く以上、何よりも彼の担当している患者について知らなけれ
ばならないということは至極当然のことだと思いなおした。
まだたった1日・・・私はまだ何もわかってはいない。
たとえほとんど口を利いてはくれなくても、彼が指導医である以上私なりに彼の意図を理解して
先に進む以外にない。

しかし、入江先生のカルテは、読めば読むほどにその書きこまれている内容に何度も驚かされた・・・
ついこの間まで研修医だった医師が指導医だと不満に思ったことなど、私の頭からは跡形もなく
消えていた。
彼の書いたカルテはまるでそのままが医学書のように、さまざまな治療法を網羅して、予想から
経過、結果へが無理なく理解できた。

―IQ200の天才ってホントなのね・・・

まだ誰もいない医局で、私は黙々とカルテを読んでいた。
ところが、ふとドアの開く音が聞こえて顔を上げると、わずかな隙間からナースが顔を覗かせていた。

「お、おはようございます」
私が驚いて挨拶をすると、そのナースは医局の中をぐるりと見まわしてから少しバツの悪そうに言
った。
「あ、あの・・・入江先生はまだ?・・・」

「は、はい・・・他の先生もまだこちらにはいらしてませんが・・・」
私は、立ち上がりながら答えた。

「そ、そう・・・驚かせちゃってごめんなさいね」
そのナースは私に向かって照れたように微笑んで見せた。
彼女は、患者のことで何か支持を仰ぎに来たというわけでもなさそうで、ガッカリしたような表情を
浮かべると何かを思案しているようだった。

ふと昨夜の仲間たちの話しが蘇った・・・
もしかしたら彼女も入江先生のファンクラブとやらのメンバーなのだろうかと思っていると、ふと彼
女が私に尋ねた。
「ね、ねえ・・・昨日から外科に実習生が来てるって聞いたんだけど、もしかして・・・?」
言葉の最後を飲み込むようにしてそのナースは探るような視線を私に合わせた。
私は、彼女が濁した語尾を受けるように答えた。
「あっ・・・は、はい!私です。」
そして私は頭を下げながらあらためて挨拶をした。
「斗南大医学部から実習にきました神谷美咲です。昨日から入江先生にお世話になってます。
よろしくお願いします」

・・・ところが、私が頭を上げた時には、ナースの姿は消えていた。

「えっ?・・・な、何?・・・」
私はまるで狐につままれたような気持ちで、開いたままのドアをしばらく見つめていた。

しかし、それから程なくして誰もいなかった医局にも先生方が集まり始め、私は不思議なナースの
こともすぐに忘れて再びカルテを読むことに夢中になって行った。



「神谷さん。オレはこれから外来だから、今読んでるカルテが終わったら君も来るといい・・・」
不意に入江先生から声がかかったのは、朝の9時を少し回った頃。
私は、「はい、わかりました」と答えて、あと数ページになったカルテに再び視線を落とした。

―やった・・・やっとカルテ読みから解放される!

私は、急いで残りのページを読み終えると、すぐに外来に降りて入江先生が診療を行っている部
屋へ入って行った。

入江先生の診療はまったく無駄がなく整然としていて、ある意味小気味良い程に淡々と患者をこ
なしていた。
それでも流れ作業のように見えないのは、彼の態度がとても誠実で思いやりのあるものだったか
らかもしれない。
医局にいる時には全く感じることのできなかったそんな彼の様子に、私は初めて入江先生に対し
て好感を持ち始めた自分を感じていた。
そして時にメモを取りながら、入江先生と患者の会話を一言一句聞き逃さないようにと耳を澄まし
ている内にあっという間に時間が過ぎ、最後の患者を送りだした時には時計の針はすでに1時を
指していた。


それから入江先生と私は昼の休憩の前に一旦医局に戻ろうと廊下を歩いていた。
私は、少し前を歩く入江先生に、我慢が出来ずに声をかけていた。
「あ、あの・・・入江先生って患者さんの前では結構笑うんですね・・・」

「えっ?・・・」
私の言葉に驚いたように入江先生が振り返った。

―ヤバ・・・やっぱ変なこと言っちゃったかな・・・

「あっ・・・いきなり失礼なこと言っちゃってスミマセン・・・ただ、昨日初めて会ってから私は一度
も入江先生が笑ってるところを見てなかったんで、ちょっとびっくりしたっていうか、ほっとしたっ
ていうか・・・」
私は、少し焦りながら言い訳をした。
すると、入江先生は顔だけをこちらに向けたまま、ふっと口元に微かな笑みを浮かべて再び歩
き出した。

―やっぱり患者さん以外の人にはそんなもんなのね・・・

私は、ちょっとガッカリしながら入江先生に続いて歩き始めた。
ところが、少し歩くと今度は入江先生が立ち止って、丁度病院の中庭を望む大きな窓の方を見
ている。
そして、不意に「ちょっと一緒に来て」と言って、中庭に通じるドアを開けて外へ出ていった。
どこへ行くのかと付いて行くと、入江先生は中庭で日向ぼっこをしている車いすに乗った患者に
声をかけた。
「やあ鈴木さん、こんにちは・・・外に出てみて体調はいかがですか?」
入江先生は、先程外来で見せたのと同じような優しい笑顔で鈴木という患者に近づくと、探るよう
にその顔を覗きこんだ。
私は今朝まで読んでいたカルテの中に「鈴木文子」という名前があったのを思い出していた。

―確か心臓の手術で入院している患者だ・・・先にカルテを読んでおいて良かった。

「まぁ、入江先生!本当に久しぶりにお日様に当たれてとっても気持ちいいです」
年配の女性患者は、少し頬を赤らめながら嬉しそうに答えた。

―なるほど・・・患者に人気があるのはこういった細かい心遣いもできるからか・・・

私は、入江先生が雑談をしながら、さりげなく患者の様子を観察していることにも気づいていた。
そして、私にまず先にカルテを読ませた意味をあらためて噛みしめながら、彼を観察することが
何よりの勉強になるのかもしれないと思っていた。

―確かに祥子達が言っていたようにすごい先生なのかもしれない・・・

それから入江先生は、なぜか時折り楽しげな笑顔を浮かべながら、中庭にいた何人かの患者に
声をかけてからやっと病院の建物に向かって歩き始めた。

―お腹すいたな・・・

私は、今にも鳴りだしそうなお腹を気にしながら、入江先生の後ろを歩いていた。


そんな時だった・・・


病院の建物の間を突然強い風が吹き抜けた。
そして、いたずらな風は私が持っていたファイルの表紙をめくり、間に挟んでいたメモ用紙を空へ
と舞いあげた。

私は、慌ててメモ用紙を追いかけた。
もちろん、それがこれから起こる全ての出来事の合図だったと気づくはずもなく・・・


                                                つづく


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