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 彼に恋した10日間<4>  医学実習生:神谷美咲

病院の建物の間を突然強い風が吹き抜けた。

風は、肩にかかったセミロングの髪を乱し、白衣の下から覗いたひざ丈のスカートの裾を揺らした。
そして、右手に抱えていたファイルの表紙をめくり、間に挟んでいたメモ用紙を空へと舞いあげた。

「あっ!待ってぇ〜!」
慌ててメモを追いかける私を、何事かというように入江先生が振り返った。
そして、メモを掴もうと伸ばした左手が虚しく空を掴んだ次の瞬間、不意に体が宙に浮いた・・・
それから先は、何が起こったのかわからないまま全身に強い衝撃を受けた後、私は空を見上げな
がら地面に寝転っていた。

「お、おい!大丈夫か?・・・」
突然、青空と自分の間に入江先生の顔が覗いた。
「あんたも結構ぬけてんだな」
入江先生は、笑いをかみ殺すようにして言った。
どうやら私はメモを掴もうとして転んでしまったらしい・・・

―やだ・・・恥ずかしい・・・

入江先生が私の腕を掴んで上半身を起こしてくれた。
「えっ?あっ・・・あれ?・・・私ったら何やってんだろ・・・す、すみません!!」
私は、恥ずかしさに顔を伏せながら何とか謝った。
しかし、立ち上がろうとして足に力を入れた途端、激痛が走り私はその場にうずくまってしまった。

―な、何?・・・

恐る恐る痛みを感じた右足を見ると、ふくらはぎに出来た裂傷から流れ出した血がすでに足元の
地面も赤く染め始めていた。
そこは、中庭から続く芝生の間に、歩きやすいように飛び石が敷かれた場所で、足を切るような鋭
利な物があるような所には見えなかった。

「見せろ!・・・何で切ったんだ?」
入江先生が、私の視線の先を見て驚いたように言った。
そして、すぐにポケットからハンカチを取り出すと私の傷に当てながら周りの地面を見まわした。
すると、私のすぐ傍らにガラス瓶の割れた破片が落ちていた。どうやら転んだ拍子にこのガラス片
で足を切ったらしい。

「何でこんな所にこんなものが落ちてるんだ!」
入江先生は怒りをあらわにして言ったあと、もう一度傷を見ながらひとり言のように言った。
「出血が多いな・・・見た目よりずっと傷が深いかもしれない・・・すぐに止血して縫合しないと・・・」

入江先生が助けを求めるようにあたりを見回す・・・しかし丁度2つの建物が並んで建っている隙
間にいたためか、あたりに人の気配はなかった。
入江先生は、私を片方の手で支えたままもう片方の手で携帯電話を取りだした。
私は、恥ずかしさと申し訳なさでいたたまれない気持ちで痛みに耐えていた。
すると、一瞬携帯電話を耳に当てた入江先生が、何かを思いついたように後ろを振り返った。


そして、思いがけないことが起こった・・・


入江先生は持っていた携帯電話をポケットにしまうと、突然大きな声で誰かを呼んだ。
「おい琴子!・・・その辺に隠れてるんなら出てきて助けてくれ!」

―えっ?・・・誰?・・・

すると、私たちが通って来た建物の影から誰かが現れた。
「な、なんでわかったの?・・・」
琴子と呼ばれた相手がおずおずといった様子で答える。

―あっ・・・この人は・・・

私服に着替えてはいたが、その人は朝私に声をかけた不思議なナースだった。
「まったく・・・こそこそつけて来やがって、最初からわかってたよ!夜勤明けはさっさと帰れ・・・
そんなことより、出血してるんだ。お前何か縛る物持ってないか?」
入江先生の言葉に、初めて私が怪我をしていることに気づいたのか、慌てたように彼女が駆け
寄って来た。
「わっ!・・・転んだだけだと思ったら、足切っちゃったのね・・・」
彼女は、すぐに首に巻いていたスカーフを帯状にして、入江先生が当てていたハンカチの上から
私の足を縛った。
そして、彼女の手当てを焦れたように見ながら入江先生が言った。
「このままオレが運ぶから、お前は先に初療室に行って洗浄と縫合の準備をしておけ!」

私は、物静かだと思っていた入江先生の怒声を頭上に聞きながら、今まさに入江先生に怒鳴り
つけられている女性との朝の初対面のシーンを思い出していた。

―”琴子”って呼んでた・・・誰?この人・・・入江先生のファンってだけじゃないわよね・・・

「うん、わかった!」
彼女は、入江先生の指示に素直に従って、建物の中に駆け込んでいった。
そして、その背中をぼんやりと見送っていた私の目の前で、さらに驚くべきことが起こった。

入江先生が突然白衣を脱ぐと、それで私の両足をくるんだ。
そして、表情ひとつ変えることなく何の躊躇もなく、私の背中と膝の下に手を入れると、軽々と私
を抱きあげた。

―えっ?えっ?・・・

私を横抱きにした入江先生が病院の建物に入って行くと、やっと異常事態に気づいたナースや
医師たちが集まって来た。
私は、救急病棟の初療室に運ばれ、そこで傷を洗浄され、縫合手術を受けた。

しっかりと適切な治療を受けた傷は、意外にもそれ程痛むこともなく、少し足を引きずる程度で歩
くこともできた。
いつの間にか、あたりに入江先生の姿はなく、私はお礼も言えないまま一人で医局に戻った。
初療室を出る時に、私があまりにもしょんぼりとしていたからか救急のナースが慰めるうに私に言
ってくれた。
「入江先生に縫合してもらえてラッキーだったわね・・・きっと傷もほとんど残らないと思うわよ。」

確かに傷はあまり痛まないのに、なぜか胸が締め付けられるように苦しかった。
それは、実習2日目で失態を演じたことやそのことで指導医の入江先生に迷惑をかけたことへの
羞恥心からくる苦しさとは違っているように思えた。

白衣の裾と袖口に、転んだ時に付いたらしい枯れた芝生が付いていた。
私は、それを指で取りながら、ただ「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げて、救急病棟を後にした。



あの時、ビル風のような強い風が吹かなければ・・・せめて、風に煽られてメモが飛ばされなければ・・・
ただ、それはずっと後になってから思うこと。
私は、足を何針も縫う傷を負ってしまったことも、たくさんの人に迷惑をかけてしまったことも何も考
えられずにいた。

あの時、バランスを失って転倒した時に見上げた空。
私の顔を、少し呆れたように覗きこんだ入江先生の顔。
突然「琴子」と呼んだ入江先生の声。
そして、思いもよらず初めて男性に抱きあげられた瞬間、ふと鼻腔をかすめた優しい香り・・・

その時の私は、ただ繰り返し頭の中に浮かんでくる場面を、それがどうしてなのかもわからないまま、
必死に振り払おうとしていた。


                                            つづく


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