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 彼に恋した10日間<5>  医学実習生:神谷美咲

まんじりともせずに夜が明けていた。

じっとしても右足の傷は微かに疼き続け、浅い眠りから私を引き戻し、そのたびに昼間の出来事
を頭の中に浮かび上がらせた。
ただ、私は何度思い出しても心臓がドキドキしてくるその光景を、今だけのものと思いこもうとして
いた。
生まれて初めて男の人に抱きあげられたことで、のぼせあがっているだけなのだと。

そう・・・たとえ、デスクに広げられた実習日誌のノートが、何も書きこまれないまま窓から差し込
む朝日に白く光っていたとしても・・・
これまで医学以外のことに心を奪われて眠れない夜を過ごしたことなど一度もなかったとわかっ
ていても・・・



実習3日目の朝、寝不足の頭を振りながら病院前でバスを降りると、反対側に着いたバスに乗っ
ていたらしい祥子が私を呼びながら追いかけて来た。
「美咲!ちょっと大丈夫?・・・」
祥子が、心配そうに私の顔と右足を交互に見ながら聞いた。

「うん、ちょっと傷が吊れた感じがするけど、思ったよりも痛くないよ・・・こういうのって自分で経験
してみるのも必要だよね・・・」
私は、苦笑いを浮かべながら答えた。

「何のんきなこと言ってんのよ!・・・大丈夫?って聞いたのは、その怪我のことだけじゃないのよ!」
祥子があたりを気にするように、少し声のトーンを落として言った。

―えっ?・・・

「あんた今日は覚悟して行った方がいいわよ。昨日の午後はどこも美咲の話題で持ちきりだっ
たんだから・・・」
祥子が嘘とも本気ともつかないような言い方で私の顔を覗きこむ。

「も、もちきりってそんな大げさな・・・ただ私がドジって転んで足を切っただけじゃない!まぁ、入
江先生に迷惑はかけちゃったけど、今日ちゃんと謝るつもりだし、実習だって休まずに済んだん
だから・・・」
私は、祥子の言葉に戸惑いながらも、心外だというように答えた。
すると、祥子は呆れたように深いため息をひとつ付くと、私の肩を叩きながら言った。
「ホント、あんたって何も知らないのね〜まぁ、それがあんたのいいところなんだけどね・・・とにか
くさ、口さがない年増のナース達の攻撃なんて適当にかわしていちいち本気にしないのよ・・・いず
れにしても私たちがここに来るのは、あと1週間のことなんだからさ」

「ちょっと・・・入江先生ってホントにそんなに人気があるの?・・・だって、全然笑わないし、聞いた
ことには最短、最小の言葉で答えてくれるだけで、私なんて先生のやってることを見て覚えるしか
ないって必死にメモ取ってるんだよ」
私は、祥子に答えながら、ふとこの2日間に入江先生と交わした言葉の数を頭の中で数えていた。

―ふん、両手の指だけで足りちゃうわよ!・・・でも・・・

「美咲ったらバカね・・・その最短、最小の言葉だってかわせる人はラッキーなのよ・・・それをあん
たはずっとそばにいられるばかりか、お姫様抱っこまでされちゃってさ・・・で?どうだった?病院一
のイケメンさんに抱きあげられた感想は?」
祥子が、話しの矛先を変えてからかうように言いながらにやりと笑った。

「やめてよ・・・そのことは・・・」

<そのことは考えないようにしている>と言おうとして、私は思わず黙り込んでしまった。

「美咲?・・・」
祥子が、不審げに私の顔を覗きこむ。

私は、祥子の視線から逃れるようにして反対側へ顔を向けると、急に高鳴り出した胸の鼓動が祥
子に聞こえてしまうような気がして思わず持っていたバッグを胸に抱えた。
本当は、昨夜からずっと考えていたことだった。
強がって見せても、病院に近づくに従って足が震えてくるのを感じていた。

包帯を巻かれた右足の傷がチクチクと痛むたびに、それはまるで私の頭の中を覆い尽くそうとす
るように浮かび上がる光景だった。

入江先生の白衣が巻きつけられた足。
私の右手を掴んで自分の肩に回すと彼は小さな声で「つかまって」と言った。
そして、事態を飲み込めないまま、ふわりと抱きあげられた時、私はまるで全身が麻痺してしまっ
たように抵抗することもなくこの身を委ねていた。

―ああ・・・

今、私の心を占めているこの気持ちの答えを出すのが怖かった。
本当は、このまま回れ右をして逃げ出したい気持だった。
昨日から思っているように、今だけ頭がのぼせているだけなのだと信じたかった。
それでもやっぱり入江先生の顔をまともに見ることができないような気がしていた。

「じゃね美咲、がんばって!とにかく何言われても知らんぷりしてなさい」
病院の門をくぐると、祥子が私の肩を叩きながら言った。

「う、うん・・・ごめん、急に黙っちゃって。忠告ありがと。私ももう少し周りを見るように努力するわ」
私は、心配そうな祥子になんとか笑顔を見せると手を振って外科の医局へあがるエレベーターへ
向かった。

ところが、外来受付の横を通り過ぎる時、私はふと昨日までとは様子が違うように感じて立ち止った。
それがたまたまのことなのか、まだこの病院へ通い始めて3日目の私にはわからなかったが、今
朝はこの2日間に比べてやけに受診を待つ患者が多い様な気がした。

―何だろう?・・・

時折、急ぎ足ですれ違うナースに首をかしげながら医局のドアを開けると、そこにいた医師やナー
ス達の視線が一斉に私に振りそそいだ。
私は、急いで背筋を伸ばすとそのまま深く頭を下げて、昨日のことを詫びた。
「お、おはようござます。昨日は大変ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

「いやいや、大した傷じゃなくてよかったね」
医局長が、優しく声をかけてくれた。
他の医師やナースも口々に慰めや励ましの言葉を掛けてくれて、私は祥子に脅かされて身構えて
いた気持ちがまるで拍子抜けのようにほぐれるのを感じてほっと胸を撫で下ろした。
そして、私は素早く部屋の中を見回して、誰よりも一番にお礼を言わなければならない人を探した。
この部屋の中でただ一人、私のことを振りかえることもなく声も掛けてくれなかったその人は、なぜ
か窓際に立って外を見ていた。

私は、再び高鳴りだした心臓の音を耳の奥に聞きながら、彼の背中に近づいて行った。
すると、熱心に窓の外の何かを目で追っていた彼が不意に目を細めるようにしてとても優しい微笑
みを浮かべた。
私は、一瞬声を掛けるのも忘れてその微笑みに引きこまれるのを感じた。

―へえ・・・この人でもこんな風に笑う時があるのね・・・

私は、彼の背後からそっと首を伸ばして彼が見ているものを探した。
そして、その姿を見つけた瞬間、自分でも思いもよらず彼に声を掛けていた。
「あの・・・入江先生。おはようございます。昨日はいろいろご迷惑をおかけしました。傷の手当ても
していただいてありがとうございました」

突然背後からかかった声に、少し驚いたように振り返った入江先生は、いつもの少し冷たい表情に
戻っていて私は少しガッカリしながら彼の返事を待った。

「傷の具合はどう?・・・あとで外来に行く前に診せて。必要なら消毒するから・・・」
彼の言い方は事務的で、たった今まで浮かべていた優しい微笑みの欠片すら感じられなかった。
それでも私は、再び彼を窓際に戻したくなくて更に言葉を掛けていた。
「あ、あの・・・昨日あんなことになっちゃったので聞きそびれてる質問がいくつかあるんですが、今
伺ってもいいですか?」

彼は、ほんの一瞬なごり惜しげに窓の外へ目を向けると、私に向かって「いいよ」と答えた。

私は、この時自分の中に芽生えた感情に戸惑っていた。
不思議とそれまでのドキドキが消えていた。
それまで彼が見ていた窓の外へ目を向けると、退院していく家族を見送っているナースの姿が見
えた。
走り去っていく車に向かって泣き笑いの顔で一生懸命手を振っているのは、まぎれもなく昨日彼が
「琴子!」と呼んだナースだった。


しかし、私はすぐに私的な感情に振りまわされてなどいられない事態が近づいていることを知るこ
とになる。
その日の朝やけに多いと感じた外来患者は、その日の午後になっても減る気配はなく、外来の受
付が終わっても患者が絶えることがなかった。

「神谷さん。君はインフルエンザの予防接種はしてる?」
入江先生が、私にそう尋ねたのはその日の帰り間際のこと。

「はい、済ませてありますけど・・・」
「そう・・・明日は朝から内科か小児科へ応援に行かなければならなくなりそうだから、君もそのつ
もりで来て。」
入江先生は、私にそう言うと私の返事も待たずにすぐに医局を出ていった。



その頃、近隣の街ではインフルエンザが大流行の兆しをみせていた・・・


                                                  つづく


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