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 彼に恋した10日間<6>  医学実習生:神谷美咲

実習4日目の朝、私は昨日と同様に病院前のバス停で一緒になった祥子と病院の中へ入って行
った。
外来受付の前を通ると、受付を待つ患者はベンチに座りきれないほどになっていて、そこここで小
さな子供のぐずる声が聞こえていた。

「すご・・・インフルエンザが流行り出したって昨日聞いたけど、たった一晩でこんなになるもん?」
祥子が、患者で溢れた受付を見ながら驚きの声を上げた。

「ホント、すごいね・・・入江先生も、今日は内科か小児科の応援にいくかもしれないって言ってたよ」
私も、患者のあまりの数の多さに呆然としながら答えた。
内科で実習をしている祥子は、青ざめた表情を浮かべて「私いかなくちゃ・・・」とひとり言のように
言うと、足早に行ってしまった。
受付の前にひとり取り残された私は、目の前の光景にうすら寒い恐怖を覚えながら外科の医局へ
向かって歩き始めた。


医局のドアを開けると、ここにはまだ階下の喧騒は届いていないのか、普段以上の緊張感は感じ
られなかった。
次に私は、部屋の中を素早く見回して入江先生を探した。
しかし、デスクにも”あの窓際”にも彼の姿は見当たらなかった。
私は少し落胆しながら、それでもなぜかほっとした気持ちで自分のデスクに腰掛けると、これから
回診する予定の患者のカルテを開いた。
ところが、まさに1ページ目の最初の項目を読み始めた時に、不意に医局のドアが開いて当の入
江先生が顔を覗かせた。
私は、一気に跳ね上がった心臓の音を隠すように開いたままのカルテを胸に抱えると「おはようご
ざいます」と声を掛けた。
入江先生は私を認めると、何も言わずに手招きをして廊下に出てしまった。

―な、なに?・・・

私は、なぜか恐る恐る医局の外に出たが、すでに廊下を歩き始めていた入江先生を慌てて追いか
けることになった。
「あ、あの・・・どこへ行くんですか?もう内科への応援ですか?・・・」
まだ傷が吊れる感じのする足で、やっと彼に追いついた私は肩で息をしながら尋ねた。

「いや、たぶんこの後忙しくなるだろうから、今度手術することになってる富田さんのカウンセリング
を先にしてもらうことにしたんだ」
入江先生は、前を向いたままそう言うと持っていたカルテを私に見せた。

―カウンセリング?・・・

入江先生は、外科の病棟を抜けた一番端の部屋の前で立ち止ると、「カウンセリングルーム」と書
かれたドアをノックした。
すると中から「どうぞ」という女性の声が返ってきて、入江先生に続いて私は初めてその部屋に足
を踏み入れた。

「一条先生、今日は無理を聞いてくださってありがとうございます。これから数日間は外来で忙しく
なりそうなんで・・・」
入江先生は、奥のデスクに座っている女性の医師に向かって声を掛けた。

「いいえ、私が大丈夫でも先方次第ですから、富田さんが了承してくれてよかったですね・・・もうす
ぐこちらにいらっしゃいます。それにしてもインフルエンザ、予想よりも早い流行で内科では対応に
追われてるって聞きましたよ。応援に行くんでしょ?大変ですね・・・あら?」
一条というその女性医師は、最後に入江先生の後ろに立っている私に目を向けて親しげな微笑み
を浮かべた。
すると、入江先生はすぐに一歩右へよけると、私に向かって彼女を紹介してくれた。
「こちらは心理カウンセラーの一条紗江子先生だ。富田さんのカウンセリングをしてもらってその結
果で手術日を決めようと思ってる」

「はじめまして。斗南大医学部から実習に来ている神谷美咲です。よろしくお願いします」
私は、頭を下げながら挨拶をした。

「へえ、あなたが噂の神谷さんね・・・やっと実物に会えたわ。うふふ・・・」
長いストレートの髪をかき上げながら、なぜか一条先生は私ではなく入江先生に笑顔を向けた。
入江先生はちらりと一条先生を見ただけで、あとは我関せずというようにカルテをめくっていた。

「う、噂のって・・・」
私は、返ってくる言葉を予想しながらも思わず尋ねていた。
すると、一条先生は「あはは」と声を上げて笑った後、とても楽しいことを語るように私に言った。
「もちろん・・・お姫様抱っこの話しは、たぶんこの病院の女性職員なら全員が知ってることだと思う
わよ・・・」

―えっ?・・・全員ってそんなに?・・・

「足の傷は大丈夫?・・・後が残らないといいけど」
一条先生は、心から心配してくれているようにとても優しく言葉を掛けてくれた。
そして、動揺している私を慰めるように肩に手を掛けると、耳元に口を寄せて小さく囁いた。
「入江先生と一緒にいると疲れるでしょ?・・・愛想ないしね・・・」

「えっ?・・・」
私が驚いて一条先生の顔を見ると、彼女は素早くウィンクをしてから入江先生に向き直った。
入江先生は、私たちの会話が聞こえているのかいないのか相変わらず真剣な表情でカルテを見て
いた。

「とにかく座ってください。今ナースが富田さんを呼びに行ってますから・・・そうね、神谷さんは患者
さんの前じゃなく、こっちにいてもらおうかな・・・」
一条先生がそう言って、ちょうど患者が座るソファの後ろの壁に椅子をひとつ用意してくれた。

私は、壁際の椅子に腰かけると、カルテを挟んで打ち合わせをしている入江先生と一条先生を見る
ともなしに見ていた。
すると、打ち合わせが済んだのか2人が同時に顔を上げた時、一条先生がふと思い出したように入
江先生に言葉を掛けた。
「そういえば、ご家族がみんなインフルエンザで倒れちゃったんですってね・・・今朝、遅刻ギリギリ
だって駆け込んできた琴子さんが言ってたわ。入江先生も琴子さんも仕事があるから家族につい
ていられなくて心配ね。お大事にね。」

「ありがとうございます」
入江先生は、目元に微かな笑みを浮かべながらそう言った。

しかし、少し緊張の緩むような場面を目の前にして、私はその時突然はっきりとした事柄に愕然と
していた。

―あのナースが、入江先生の奥さんなんだ・・・

ふと、風に舞ったメモを掴もうとして転倒した時のことが蘇る。
あの時、入江先生が「琴子!」と名前を呼び捨てにした時になぜ気づかなかったのだろう・・・
私は、あろうことか入江先生の奥さんの前で失態を演じ、さらに彼に抱きあげられたのだとあらた
めて思った。

考えてみれば、今目の前のいる2人を見ていてもわかることだと私は思った。
とても親しげに話しかける一条先生に対して、私に対するのと同じような態度で接している入江先
生が、あの窓際で見せた微笑みは、やはりそれは愛する人を見ていたからなのだと納得できた。

<まったく、あんたは何も知らないのね・・・>
脳裡に呆れ顔で私をからかう祥子の顔が浮かんだ。
私は、ひざに乗せたノートの端を爪ではじきながらうつむいていた。
ただ、苦笑いを浮かべるしかなかった。

カウンセリングは、何事もなく淡々と進んで行った。
私は、一条先生の鮮やかな話術と柔らかな物腰に憧れに似たものを感じながらメモを取っていた。
そして、患者の背中越しに見える入江先生の横顔を、彼が決してこちらを見ないことを強く確信し
ながら何度も盗み見ていた。


カウンセリングは、ほんの30分ほどで終わり、すぐに医局に戻った私たちを今度は医局長が待
ち受けていた。
「入江君、悪いが小児科の応援に行ってもらえるか?・・・神谷さんも、ナースが何人も休んでい
て猫の手も借りたいほどだ向こうへ行って手伝ってあげてくれ」

私たちは、すぐに小児科の外来へ向かった。

私は、ほんの少し距離を開けて入江先生に付いて行った。
それがたとえ後ろ姿であっても、真っ直ぐに前を見た視線の先に彼がいた。
すぐ隣にいるよりも、私にはその方が心地よかった。
そして、その距離が縮まることは決してないのだと、何度も自分に言い聞かせていた。

小児科の外来は、すでに待合室の外の廊下にまで患者が溢れていた。
私は、朝の受付で感じたうすら寒さを再び感じていた。
そして、患者を避けながら歩いているうちに見失ってしまった入江先生を探してあたりを見回して
いると、ふいに「入江君!」という声が聞こえた。
声のした方を見ると、「琴子」と呼ばれたナースが満面の笑顔で、仏頂面の入江先生にまとわり
ついていた。

「夫婦で、一緒に仕事ができるのね〜!」
嬉しそうに声を上げた彼女の”夫婦”という言葉に、心がざわざわと波立つ。

―あの人が、入江先生の奥さん?・・・

私には、彼女のようなタイプの女性が入江先生の奥さんだということが、正直信じられなかった。
しかし、たとえ入江先生が鬱陶しそうに彼女の手を払いのけても、その心の中にあの”窓際”での
微笑みが隠されていることを私は知ってしまっていた。

私は、あえて入江先生の指示は仰がず、すぐ近くにいた小児科のナースに声を掛けて手伝いを
始めた。
高熱で寒気を訴えている子供に毛布をかけてやり、心配で青ざめている母親を励まし、患者の
応対で目が回りそうなナースの雑用を引き受けた。
入江先生の妻、琴子さんは外科病棟から応援に駆け付けたということだった。
彼女も最初こそ嬉しそうに入江先生にまとわりついていたようだったが、この異常事態であっても
患者にニコニコと優しい笑顔を向けながらテキパキと仕事をこなしていた。

悪夢のような時間が過ぎていった。
しかし、その時間は私の心に、医師という仕事の尊さをあらためて刻むには十分だった。
この時ばかりは、この実習が始まってから私の心を占めていたもやもやとした思いが消えていた。

待っている間は苦しげにしてぐずっていた子供たちも入江先生の診察を受けただけで、帰る時に
は穏やかな顔になっている・・・
まだ薬を飲んだわけでもなく、熱が下がったわけでもないのに、彼の掛ける言葉や態度がそれだ
けで患者に安心感を与えているのだ。

ただ漠然と子供の頃に抱いた夢を追って、医者を志して来た。
しかし、実際の医療の現場に触れて、入江先生に出会って、私の夢はより具体的な目標を見つけ
ていた。

―入江先生のような医者になりたい。

それが、心の奥底に芽生えた想いとすり替えただけの言い訳だとしても、その時の私にはそれが
この実習の一番の収穫だと思えていた。



しかし、事態は・・・私の想いは・・・思わぬ方向へと動き出す・・・
それは、目の回るような1日も終わりに近づいた頃。
あまりにも遅い昼食を済ませて、医局に戻ろうと眼科の診察室の前を通った時の出来事だった。

眼科のドアが開き、思いもよらず琴子さんが出て来たところに出くわした。
うつろな目つきで診察室から出て来た彼女は、すれ違い様に頭を下げた私にも気づかない様子
だった。
もちろん、その時の私が彼女に下されたあまりにつらい宣告を知る由はなかった。

そして、琴子さんが小児科の前で倒れたという報告が医局にもたらされたのはその日の夕刻のこと。
私は疲れ切って朦朧としながら帰り支度をしている時だった・・・


                                             つづく


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