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 彼に恋した10日間<7>  医学実習生:神谷美咲

私は、小児科の外来へ続く廊下を、足の傷の痛みも忘れて必死で走っていた。
なぜこんなにも急いでいるのか、そこへ行ってどうしたいのか自分でもわからなかった。
ただ、医局に入って来たナースが青ざめた顔で「琴子が倒れた」と言った瞬間、無意識の内に
医局を飛び出していた。

なぜだろう?・・・
そこには、確実に自分にとってはつらい場面が展開してるはずなのに、私は止まることが出来な
かった。

小児科の前に来ると、つい数時間前までは患者で溢れかえっていた待合室もほんの数人の親子
が点在して腰掛けているだけであの思わず耳を塞ぎたくなるような喧騒はなくなっていた。
だからか、5つ並ぶ診察室の1番のドアの前に数人のナースたちが集まっているのがすぐに目に
とまった。

私は、上がった息を整えながらナース達の後ろに立って中を覗きこんだ。するといきなり青白い
顔で目を閉じている琴子さんが見えた。
その首筋には誰かの手が当てられ、その手はすぐに額にかかった前髪をそっとよけながら額に
当てられた。
その手の主が入江先生であることは疑いようがなかったが、私の立っている位置からはドアの陰
になって入江先生の表情を伺い知ることはできなかった。
ただ、人目もはばからず、琴子さんの髪を撫で続けている大きな手は、その動きだけでどれ程彼
女のことを心配しているかが伝わってきて、私はチクチクと痛む胸にそっと手を当てた。

「入江先生、玄関前にタクシーが来ました!」

背後から急に大きな声がかかり、そこにいたみんなが一斉に振り返った。

―タクシーって?・・・

「入江先生?・・・何もそんなにすぐに連れて帰らなくても・・・意識が戻るまでは動かさない方が・・・」
入江先生の近くにいた年配のナースが、怪訝な表情を浮かべながら言った。
しかし、すぐに入江先生のきっぱりとした言葉が返された。
「いえ、連れて帰ります。」
その有無を言わさぬ言い方に、誰もが一瞬顔を見合わせていた。

入江先生は、用意されたストレッチャーを脇によけると、琴子さんの前にかがんだ。
すでに白衣を脱いでいた入江先生は、アーガイル模様の白いセーターにジーンズという姿で、意識
のない琴子さんを抱きあげた。
ナース達が自然と左右に別れて道を開ける。
私は、入江先生が出てくるのを、やはりナースの後ろに立って見ていた。

私も今の琴子さんと同じように、入江先生に抱きあげられて運ばれたのが、もう随分と前のことの
ように思える。この数日間の密度の濃さは、自分が今まで過ごしてきた1日24時間のいったい何
倍分になるのだろうとふと考えていた。
すると、思いもよらず入江先生が私の名前を呼んだ。
「神谷!」

「は、はい!」
一気に背筋が伸び、私はすこし上ずった声で返事をした。

「今日は大変だったな、でもお前がいてくれて助かった。オレは今日はこのまま帰る。何か質問が
あるなら明日にしてくれ・・・」

入江先生は琴子さんを横抱きしたまま、私に向かって早口でそう言うとそのまま足早に行ってしま
った。
私は、突然「神谷!」と呼び捨てにされたことに驚愕し、「お前」と親しげに言葉を掛けられたことに
呆然としてすぐに入江先生の言ったことの意味を理解できずにいた。
そして、やっと「はい、わかりました」という言葉が出た時、すでに入江先生の背中は随分と遠くに
行ってしまっていた。
私の間の抜けた返事に、そばにいたナースが不思議そうな顔をして振り向いたのが見えた。
それでも私は、その視線に愛想笑いのひとつも返せずその場に立ち尽くしていた。


「神谷さん?・・・」
ふと、どこかで聞いたことのある声が私を呼んだ。
声のした方に顔を向けると、入江先生が行ったのとは反対側の廊下に今朝初めて会った一条先生
が立っていた。
あたりにいる誰もが、入江先生が琴子さんを抱いて行った廊下の先に注目している中で、一条先生
だけが私の方を向いて、なぜかとても切なげに微笑んでいた。
私は、その微笑みに引き寄せられるように彼女の元へ歩いて行った。

「大丈夫?・・・」
一条先生が私に最初に掛けた言葉は、意外な言葉だった。

「えっ?・・・」

「私と少し話さない?・・・」
一条先生は、私のことを心配してくれているように見えた。

「ど、どうしてですか・・・」
「だって、今にも泣きそうな顔してる・・・」

そして、「そんなはずはない」と言おうとした瞬間、突然溢れ出た涙が頬を伝った。
一条先生は、私の涙を見ると何も言わずに入江先生が去って行ったのとは反対方向に歩き出した。
私は、一条先生に肩を抱かれて歩きながら、はらはらとこぼれ落ちてくる涙を両の手のひらで必死で
拭っていた。


目の前にコトリと音がして、白いコーヒーカップが置かれて私はゆっくりと顔を上げた。
私は、一条先生に連れてこられたカウンセリングルームで、今朝は患者が座っていたソファに腰を
下ろしていた。
コーヒーカップから立ち上る湯気を目で追っていくと、自分のデスクに寄りかかるようにして立って
いた一条先生が私のカップを指差して「どうぞ召し上がれ」と言って微笑んだ。

どうして一条先生は私をここへ連れて来たのだろう?・・・
私は、少し冷静になった頭で考えていた。
一条先生は、私と何を話そうというのだろう・・・私が泣いた意味をどうとらえているのだろう。

今朝、たった一度会っただけの彼女に、私の気持ちなどわかるわけがないと思っていた。
自分ですら、はっきりとした答えの出せないでいる気持ちなのに・・・と。

しかし、勧められたコーヒーを一口飲んでカップをテーブルに置いた時、それを待っていたかの
ように一条先生が言った。
「恋、しちゃったね・・・」

―えっ?・・・

その短い言葉は私を責めるわけでなく、だからと言って慰めるわけでもなく、ただ淡々とほんの少
しの切ない響きを持って私の心を揺さぶった。
ずっともやもやと心の中心を覆っていた霞が吹き飛ばされて、むき出しになった想いを突然目の
前に付きつけられた気がした。


私は、否定も肯定も出来ないまま、ただ呆然と一条先生の顔を見上げていた。


                                               つづく


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