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 彼に恋した10日間<8>  医学実習生:神谷美咲

<恋、しちゃったね・・・>
そう言った一条先生の「恋」と「しちゃったね」の間の微かな空白が、まるで小さなため息のように
私には聞こえた。

一条先生は、それきりコーヒーをゆっくり飲みながら、私に考える時間を与えてくれているようだ
った。そう感じたのはなぜだったのか・・・
それは、一条先生が私の前には座らず、デスクに寄りかかったまま窓の外へ視線を投げている
姿に、決して私の心の中を覗きこもうとしているわけでないという気持ちが感じられたからかもし
れない・・・

―これは恋?・・・これが恋?・・・どこからが恋?そしてこの恋のその先は?・・・

どんなに考えても行き場のない想いであることに変りはない・・・

私は考えた・・・
一条先生が心理カウンセラーだということはわかっている、それでも今朝一度会っただけの彼女
に私の心の何がわかるというのか・・・
たとえ、恋してしまったことを見抜かれたとしても、そのまま触れずにいてくれさえすれば、あと数
日もすれば私はここを去ることになり、きっとこの想いも薄れていくに違いないのに・・・

私は、目の前の一条先生を瞳だけを上げて見つめた。
すると、窓の外を眺める綺麗な横顔に、なぜ今この気持ちの正体をはっきりと気づかせたのだろ
うという怒りにも似た思いが湧き上がって来た。

「わ、私が誰に恋してるって言うんですか?・・・」
私は、目を伏せてテーブルの上のコーヒーカップを見つめながら尋ねた。
すると、一条先生は持っていたカップをデスクの上に置いて、静かに話し始めた。

「たいていの女の子はね、入江先生を見て好きになってもすぐに諦めるの・・・わかるでしょ?だっ
て、彼は誰も相手にしないし、ホントに冷たいもの・・・」
一条先生は、クスクスと笑いながらそう言った。

―じゃあ、私はどうして・・・?

そう思った時、一条先生がその答えを口にした。
「でも、あなたは違った・・・どうして?って思う?・・・それは、あなたが先に入江先生の優しさに触
れてしまったから、そして入江先生があなたの指導医だったからよ」

「優しさ?・・・」

「そう・・・」
一条先生は頷いて、私の右足に巻かれた包帯へ視線を投げた。
「そして、決して他人には心を開かない彼も、自分の教え子となれば冷たくばかりもしていられない
でしょ?」

「そ、そんな・・・優しくされたのなんて、足を怪我した時くらいで・・・」
私が思わず口走った不満を受けて、一条先生は声を上げて笑いながら答えた。
「あなたはこの4日間ずっと入江先生と一緒にいたでしょ?・・・彼に質問をして彼はそれに言葉少
なでもしっかり答えてくれたでしょう?・・・それって、相手が女の子なら絶対にあり得ないことなの
よ・・・」

私は、一条先生の言葉を聞きながら、ふと祥子に言われたことを思い出していた。
<美咲ったらバカね・・・その最短、最小の言葉だってかわせる人はラッキーなのよ・・・それをあん
たはずっとそばにいられるばかりか、お姫様抱っこまでされちゃってさ・・・>

― 一条先生も祥子と同じことを言っているんだ・・・

そして、一条先生はやっとソファに腰を下ろして私と向き合うと、ひとつ小さな咳払いをして話しを続
けた。
「尊敬や憧れって、恋とよく似ているの・・・」
「えっ?・・・」
「あなたは入江先生と一緒にいて、尊敬とか憧れを感じなかった?」
「そ、それは・・・」
私は言い淀みながら、入江先生のような医者になりたいと思ったことを思い出していた。

「どっちが先だったのかしら・・・恋が芽生えて尊敬という言葉とすり替わったのか、憧れが恋に姿
を変えたのか・・・」
一条先生は、天井を見上げながらまるで詩でも唱えるようにつぶやいた。

しかし、私はその瞬間ふと我に返って、一条先生の言葉を遮るように立ちあがった。
握った拳が震えていたのは、怒りだったのかそれとも心を見抜かれた動揺だったのか・・・それで
も私は立ちあがった勢いで一気にまくし立てた。
「私が入江先生に恋してるなんて勝手に決めつけないでください!・・・一条先生に何がわかるって
いうんですか?た、確かに入江先生を尊敬しています。素晴らしい医師だと思います。でも、だか
らって私は奥さんのいる人を好きになったりしません」

肩で息をしながら見降ろしている私を、一条先生は思いがけないほど優しい目で見上げると「そう、
わかったわ」と答えて小さなため息を付いた。
私は、それが合図のように一条先生に頭を下げると、そのまま出口に向かって歩き出した。

「ねえ、神谷さん?・・・最後にこれだけは言わせてほしいの・・・」
一条先生の言葉に、私はドアノブを回しかけた手を止めた。

「何でしょうか?・・・」
私は、振り返らずに言った。

「あなたは、ちゃんと自分の気持ちと向き合わなければいけない・・・相手が入江直樹ならなおのこ
とね」
一条先生は、少し低い声で諭すように言った。

「ど、どうしてですか・・・?」
私は、振り返ると少し気色ばんで聞き返した。
すると、たたみ掛けるように一条先生が答えた。
「だって、入江直樹は絶対にあなたの気持には答えないから・・・」

「えっ?・・・」
そんなことはわかってる・・・そう思っても、一条先生の言葉は思いがけず大きな痛み伴って私の
心に突き刺さった。

「でも、必ず私があなたを救ってあげるから・・・だから、苦しくなったら私を思い出して欲しいの」
一条先生は、真っ直ぐに私の目を見ながら言うと、さらに「そして・・・」と言ってほんの一瞬言い淀
んだあと、切なげな表情を浮かべて囁いた。
「あなたの夢を・・・決して、恋と一緒に夢も諦めたりしないで欲しいから・・・」

―夢?・・・

その時私は、琴子さんが倒れたと聞いた瞬間から今まで、ずっと入江先生のことしか考えていな
かったことに初めて気づいていた。
私は涙が湧き上がってくるのを感じながら、顔を上げて一条先生を見つめた。

―私の夢・・・

それは医者になること・・・
入江先生のような医者になること・・・


気づけば、いつの間にか涙が頬をつたっていた。


                                          つづく


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