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 彼に恋した10日間<9>  医学実習生:神谷美咲

無機質な目覚まし時計の電子音に、私は泣きはらして重い瞼を無理やりこじ開けた。
何があっても、決して明けない夜はないのだと実感しながら、私はゆるゆるとベッドの上に起き上
がった。
この胸に燻ぶる想いが恋だと気づかされ、決して叶わぬと言い渡され、それでも私は彼の元へ向
かおうとしている。

本来の私はもっと強かったはず・・・ただ真っ直ぐに医学の道を目指していたほんの数日前の自
分を思い起こしながら、夜明け近くまで眠れずにたくさんのことを考えた。
そして、ただじっくりと自分の心と向き合いながら今自分がするべきことを導き出した。

<だって、入江直樹は決してあなたの気持ちに答えないから・・・>

―それならそれでいい・・・

期待しても何も得られないとはっきりとわかった今、自分を偽ることも、拒絶されることに不安や恐
れを感じる必要もない。
ただひたすらに医者としての彼の技術や知識を学び取ることに力を注げば、私はこの実習の間ず
っと彼のそばにいることが出来る。
それが祥子や一条先生が言った私だけが他の誰とも違う理由・・・そして私が彼に恋した理由。

このままの想いを引きずれば、きっと一条先生の言うように私は恋と一緒に夢まで捨ててしまうか
もしれない。
出会ったことを恨み、好きになったことを悔み、そして縮こまった心はすべてを葬ることしか考えな
くなってしまうだろうから・・・
それならば、もっと彼を知ってもっと好きになって、最後には好きになって良かったと思えるように
なりたい。

だって、私には彼のそばにいられる理由がある。
誰よりも彼の近くで彼を知るチャンスがある。
彼が私の指導医である以上、それが私に与えられた特権なのだから・・・
それがたとえすり替えであっても誤魔化しであっても、私は私の心に巣くったこの想いを別の何か
に昇華させなければならないと決心していた。



実習5日目。
相変わらずインフルエンザの患者で溢れた受付を通り抜けて、私は、努めて普段と変わりなく医局
に入って行った。
目ざといナースに、目が腫れていることを指摘されたが、昨日の疲れで寝不足だと言って誤魔化した。
入江先生は、すでに自分のデスクに座って、何かの資料を読んでいた。
昨日からの出来事が一瞬頭を駆け巡り、どうしようもなく高鳴る心臓を持っていたカルテで押さえな
がら私は入江先生に朝の挨拶をするため立ちあがった。
「入江先生おはようございます。昨日はお疲れさまでした・・・あの、奥様の様態はいかがですか?」

「ああ、おはよう。神谷と一緒で寝不足の貧血だ、心配ない。今日も出勤してるよ」

入江先生は、私とナースの会話を聞いていたらしく、私の顔をちらりと見てから返事をするとすぐに
手元に視線をもどした。

「そうですか・・・」
相変わらず取りつく島もない入江先生の態度にふと寂しさを感じて、いつものようにそのまま引きさが
ってしまいそうになる。
それでも私は、昨夜の涙と考え抜いて出した答えを実践するために、勇気を振り絞って言葉を続けた。

「先生、この患者さんの治療法についていくつか質問があるんですが・・・それに、これとこれも・・・」
私は、持っていた3冊のカルテを扇のように広げながら、顔を上げた入江先生の目を覗きこむように
して尋ねた。
入江先生は一瞬不思議そうに私を見た後、「それならここじゃダメだな」と言って急に自分のデスク
の上を片づけ始めた。

「えっ?・・・ここじゃダメって?・・・」

「その病気の症例に関しては資料が全部オレのオフィスに置いてある・・・外来の交代まであまり時
間がないからあっちで話そう・・・」
入江先生は、医局長に「オフィスにいます」と声を掛けると、私についてくるように目で合図して医局
を出た。
廊下に出てドアを引こうと振り返ると、医局の中にいた数人のナースがこちらを見ながら何かひそひ
そと話しているのに気が付いた。私は彼女たちに軽く頭を下げてからドアを閉めた。



初めて入った入江先生のオフィスは、想像していたよりもずっと簡素で整然としていた。
それが入江先生の気づかいなのか、明け放たれたままのドアからは、廊下を行き来するナース達
がちらちらと覗きこんでいくのが見える。
私は、入江先生がこのオフィスにあまり人を入れたがらないという話しを以前誰かから聞いたことを
思い出していた。

私は、入江先生が資料を用意してくれている間オフィスの中を興味深く見まわした。
入江先生がひとりで使っている部屋にいるというだけで胸は高鳴る・・・
壁際のコートハンガーに無造作に掛けられた白衣やデスクの上のペンやメモの走り書きにすらとき
めきを感じている自分がおかしかった。
そして、その中でもひときわ異彩を放って目に飛び込んできたのが、ソファに置かれた大きなクッシ
ョンと部屋の一番隅に置かれたケーキショップのジオラマだった。
ふと、琴子さんの顔が浮かんだ・・・それは当然彼女の手作りのプレゼントなのだと思えた。

入江先生は、部屋の中をうろうろと歩きまわる私を気に留めている様子もなかった。
そして、私がひととおり部屋の中を見渡して入江先生に視線を戻した時、ちょうど持っていた本を閉
じた入江先生がそれを私に差し出した。
「お前が知りたいと思ってることはその付箋のあたりを読めば解決できるはずだ、それでもわからな
ければ聞いてくれ」

「は、はい・・・」
渡された本についた付箋の数は、いったい何十か所あるのか・・・私はその数に驚きながら恐る恐る
差し出された本を受け取った。
「あ、あの・・・この付箋、今付けたんですか?・・・」

「ああ・・・」
抑揚なく入江先生が答える。

「だって、こんな短い時間にこんなにたくさん・・・どこに何が書いてあるか覚えてなければこんなこと
できないですよ・・・」

「覚えてるよ・・・」
「えっ?この本の中身全部ですか?・・・っていうかまさかここにある本全部とか?・・・」
「ああ、オレは一度読んだり聞いたりしたことは、全部覚えられるんだ・・・」
「す、すごい・・・ですね・・・」
私は唖然としながらしばし入江先生の顔を眺めていた。

―私が好きになった人は・・・私が恋した人は・・・

彼を表現するのに”すごい”などという言葉が酷く陳腐に思えた、だからといって他に言葉が浮かば
ない。
たとえ昨夜から一晩中悩みぬいて決心した想いがなかったとしても、きっと私は今の彼を見たら「つ
いて行きたい」と思うだろう・・・それ程に入江直樹という医師は摩訶不思議な魅力を持っているように
思えた。

呆然としている私を不思議そうに見ていた入江先生は、他の数冊の本やファイルをソファのサイド
テーブルに置いた。
「ここでしばらく見てるといい・・・オレはまとめなきゃいけない資料があるから、わからないことがあ
ったら聞いてくれ」

私は言われるままにソファに腰掛けると、渡された本を膝の上で開いた。
少し視線を上げると正面にデスクがあって、パソコンのモニターの向こうに入江先生が見える。

―何も期待してはいけない・・・何も起こらない・・・

頭ではわかっていても、どうしようもなく胸は高鳴る。
あんな決心をしたあとに、どうしてこんなことが起こるのだろう・・・
あの決心が促した勇気がこの状況を作り出したことは言うまでもない、それでも私は幸せと切なさ
がないまぜになった心に棘の刺さるような痛みを感じながらそこにいた。
そして、出来ることならばこの時間が少しでも長く続いてくれるよう祈らずにはいられなかった。


私が時折立って行って入江先生に質問をする以外は、ただ入江先生が叩くキーボードの音が聞こ
えるだけの静かな時間が流れた。

<あなたはこの4日間ずっと入江先生と一緒にいたでしょ?・・・彼に質問をして彼はそれに言葉少
なでもしっかり答えてくれたでしょう?・・・それって相手が女の子なら絶対にあり得ないことなのよ>

ふと、昨日一条先生に言われたことが頭をかすめた。

―ホントに、そうですね一条先生。

決してあり得ないことが、今ここに展開している不思議・・・
たとえ今さらでも私は入江先生と2人きりでここにいて、入江先生は私の勉強のために時間を割い
てくれている。
チクチク痛む心はどうしようもない・・・それでも私は、今私と真摯に向き合ってくれている入江先生
の気持ちに答えなければならないと心を奮い立たせていた。

―入江先生をもっと好きになって、「好きになってよかった」と思えるようになりたい。


しかし、不意に電話が鳴りだし、電話に手を伸ばした入江先生がハンズフリーのスイッチを押す
と無情なナースの声が私のつかの間の幸せを立ち切った。
「入江先生、交代の時間です・・・外来へいらしていただけますか?・・・それからその後に内科か
らの応援要請が来ています」

「ああ、わかったすぐいく・・・」
入江先生は電話に向かって答えるとすぐにスイッチを切って、私に顔を向けた。
「神谷行くぞ・・・今日はここまでだな。その本は持って帰るといい、続きはまた明日な」
入江先生の親しげな言葉が心に染み込んで、私は不意に涙がこみ上げてくるのを感じた。
それでも私はその涙をなんとか飲み込んで大きくうなづきながら、「ありがとうございました」と答
えた。


しかし、その約束は果たされなかった・・・


翌日、出勤時間が過ぎても入江先生は病院に現れず、医局長や西垣先生も入江先生から何の
連絡もないことに首を傾げるばかりだった。
私は”何かあったのかもしれない”と思っても、ただ待っていることしかできない自分が歯がゆく
てしかたがなかった。

そして、ナース達の噂話から、琴子さんが失踪したらしいということを私が知ったのは、開け放した
医局の窓から少し肌寒い風が入り込む昼下がりのことだった・・・


                                            つづく


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