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 彼に恋した10日間<10>  医学実習生:神谷美咲

その声は、ざわざわした病院のロビーを通り抜けようとした時に唐突に私の耳に飛び込んできた。

「ねえねえ、琴子の家出ってさあ、もしかして昨日のあれが原因じゃないの?」
「えっ?・・・ああ、昨日の入江先生のオフィスでの?・・・」

―えっ?・・・

私は思わず立ち止ると、その声に耳を傾けた。

「そうそう!・・・実習生の子と・・・でしょ?」
「入江先生、あの子としばらく2人きりでオフィスにいたって。それで琴子がヤキモチ焼いて家を
飛び出したって話しよ」

―そ、そんなのウソよ!

その声は、明らかにここに私がいるとわかっていて言っているように聞こえた。
それでも無意識のうちに握りしめていた拳が震え出し、振り返って反論したい衝動を堪え切れな
くなった時、不意に誰かが私の肩に手を掛けた。
驚いて振り返ると、その人は私に向かって人差し指を唇に当てながら「しっ!」と言ってから、す
ぐに険しい表情で噂話の主に向かって声を荒げた。
「ちょっと!あんたたち、いい加減なこと言ってるんじゃないわよ!・・・琴子だってそんなことくら
いで家出なんてしないわよ!」

彼女・・・いや彼の剣幕に声の主の2人のナースは、何も言わずに立ち去った。
私は思わぬ人の登場に唖然としたまましばらく彼と立ち去ったナース達の背中を交互に見ていた。

「あ、あの・・・ありがとうございました。そ、それで、あなたは?・・・」
私は、女言葉を話す不思議な男性のナースに言葉をつまらせながら尋ねた。

「私は琴子の友達で桔梗幹。じゃあ、私仕事の途中だから・・・あんな噂気にしちゃダメよ。」
彼はそう言うと、女っぽい仕草で手を振って私に背を向けた。

「あ、あの!・・・琴子さんはどうして家出なんて・・・」
私は歩き始めていた桔梗幹に向かって尋ねた。
すると、彼は振り向きながら答えた。
「私も今朝知ったのよ。ホント、あのバカどこ行っちゃったのかしら?・・・入江先生もさっき病院
に来て、なんだか眼科の周先生と話してたみたいだけど・・・琴子の家出と何か関係があるのか
しらね?・・・あっ、ちょ、ちょっとー!!」

私は、桔梗幹の話しを最後まで聞かない内に、その場から駈け出していた。

―眼科!・・・そうよ眼科よ!

私は、数日前の夕方、眼科の診察室から出て来た琴子さんと出くわしたことを思い出していた。
あの時の彼女のうつろな様子が思い起こされる・・・

私は、2階への階段を駆け上がった。
あの日琴子さんとすれ違った廊下を走り、ノックもせずに眼科の診察室のドアを開けた。
驚いた顔でこちらを振り返った医師やナースの視線もお構いなく中を見まわし「入江先生がこち
らにいると聞いて来たんですが・・・」と尋ねていた。
すると、一番奥の席でこちらを見ていた医師が「今少し前に出て行ったよ」と答えてくれた。
私は、深い落胆を感じながら頭を下げてから廊下に出た。

―どこにいるんですか?入江先生!

私に何ができるわけでない。
私には知る必要のないことなのかもしれない・・・
でも、私は知りたかった。
入江先生のことなら何でも知りたかった。
それが、更に心の傷を深くすることであっても、知らないでいるよりはましな気がしていた。

私は、途方にくれながら今来た廊下を歩き始めた。
どうして入江先生は病院に来たのだろう?
眼科で何を聞いたのだろう?
琴子さんはどこへ行ってしまったのだろう?
私はどうしてこんなにも必死に何かを知ろうとしているのだろう?
様々な疑問が頭の中を渦巻いて、私は1階へ降りる階段の前を通り過ぎてしまっていることに
気づかなかった。

ふと顔を上げると、私はいつの間にか病院のエントランスが見降ろせる吹き抜けの前に来ていた。

―あれ、行き過ぎちゃった・・・戻らなきゃ。

そう思った刹那・・・その声は聞こえた。

「・・・・・・ああ、必ず連れて帰るよ」

それは確かに入江先生の声だった。
私は、一度背中を向けた吹き抜けにもう一度体を向けた。

入江先生は濃いグレーのセーターを着た姿で、吹き抜けの柵の前に立っていた。
そして、たった今誰かと話し終えたばかりの携帯電話を両手で包むようにして見つめていた。
その画面には、琴子さんのおどけた顔が写っているのが遠目にもはっきりと見えた。

私は、ほんの数歩のところにいる入江先生に声がかけられないでいた。
手も足も呼吸すらも止まってしまったように、その場から動けないでいた。
深いため息をつきながら柵に体を預けた入江先生は、まるで知らない人のように私には見えた。
入江先生の後ろに立っている私には彼の表情を伺い知ることはできない・・・それでも彼の背中
を見ているだけで、私まで震えてくるのはなぜだろう?・・・
悲しくて涙が溢れそうになるのはなぜなのだろう・・・

結局、入江先生は私に気づかないまま、突然我に返ってすぐ横の階段を駆け下りて行った。
残った私は、やっと呪縛から解き放たれ、たった今まで彼が寄りかかっていた柵から身を乗り
出すようにして、病院を出ていく彼を見送った。



白衣のポケットの中で、院内PHSが振動していた。
きっと、代わりの指導医が私のことを探しているだろうと思えた。
それでも私はその振動を無視したまま、ある所に向かって歩いていた。

<必ず私があなたを救ってあげるから・・・だから、苦しくなったら私を思い出して欲しいの>

―一条先生・・・

わからないことだらけだった。
あの歯ぎしりをするような思いで決心したこともどこかへ消えていた。
何かほんの少しでもいいから糸口が欲しかった。
入江先生が心配なのか、琴子さんが心配なのか、嫉妬なのか、羨望なのか・・・これが恋とい
うものなのか・・・
もう、それすら見わけのつなかい私は、今この心の中を占めているものの姿すら見失っていた。


カウンセリングルームのドアのプレートは「在室中」となっていた。
私は、ゆっくりと手を持ち上げると一縷の救いを求めて目の前のドアをノックしていた。


                                            つづく


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