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 彼に恋した10日間<11>  医学実習生:神谷美咲

カウンセリングルームのドアをノックすると、すぐに中から「どうぞ」という声が聞こえた。
私は、一瞬躊躇してから、それでも思い切ってドアを開けると一歩中に入って後ろ手にドアを閉めた。
部屋の奥へ目を向けるとデスクで仕事をしていた一条先生が驚いた顔をして立ち上がった。

「一条先生・・・」
嗚咽まじりに呼んだ声は、情けない程に震えてその先が続かない・・・
すると、一条先生の抑揚のない声が返って来た。
「すぐに外科の医局に戻りなさい」

「えっ?・・・」
<必ず私があなたを救ってあげるから・・・>その言葉にすがる思いでここへやって来た私には、
それは、あまりに思いがけない言葉だった。

「さっきから院内放送が何度もあなたを呼んでいるのが聞こえないの?・・・それに、ほらPHSもあ
なたを呼んでるわ・・・」
一条先生はそう言って、私のポケットを指差した。

「わ、わたし・・・」
私は、思わず一条先生から目をそらすとポケットの中に手を入れて振動を続けるPHSを握ぎりし
めた。

「冷静になりなさい。もっと深く考えなさい。琴子さんのことはもうみんな知ってるわ、みんな同じよ
うに心配してる・・・でもこれは入江先生と琴子さんの問題なの。あなたが取り乱しても何も解決し
ないのよ」
一条先生は、デスクの前に立ったまま私を見据えると、たたみ掛けるようにそう言った。
そして、一条先生はゆっくりと私に近づいてくると、目の前に立って優しい声で言葉を繋いだ。
「あなたならわかるでしょう?・・・ここは病院よ、そしてあなたもここでは学生じゃない。恋に翻弄
されて自分を見失ってははだめ。あなたは医者なのよ。それがあなたが選んだ道でしょう?・・・」

私は、まるで冷や水を浴びせかけられたように呆然としながら一条先生の顔を見つめた。
そして、無意識の内に振動し続けているPHSをポケットから取りだすと受話ボタンを押して耳に当
てていた。
「はい、神谷です」
機械的な言葉が自分の唇を通して送話口に流れた。

『西垣だ。今どこにいる?すぐに戻って来なさい』
西垣先生のイライラした声に、私は強く瞼を閉じると低い声で「すぐに戻ります」とだけ答えて電話
を切った。

一条先生が、私の肩に手を掛けて小さくうなづく。
私は、喉の奥から繰り返し込み上げてくる嗚咽を飲み込みながら、頭を下げてカウンセリングルー
ムを後にした。

<恋に翻弄されて自分を見失ってはだめ。>
医局へ戻るまでの間、一条先生の言葉が何度も頭の中で木霊していた。

―私は何をしていたんだろう?・・・

恥ずかしさと苛立ちがない交ぜになった心で、私は必死に今の気持ちを整理しようとしていた。

この病院の門を初めてくぐった時は、医学のことしか考えていなかったはずなのに、いつのまにか
入江先生のことばかりを考えるようになっていた。
それが恋だと知らされるまで、見つめているだけでときめく心や、医学のことを忘れてしまう瞬間が
あることへの戸惑いを知った。
そして、それが恋だと知ってからは、一度は自分を見つめなおし夢だけを追っていたころのことを
思い出したはずだったのに・・・

入江先生の一大事を知って、なんとか抑え込んでいた気持ちが弾け飛んでしまった。
ましてや、琴子さんの失踪の原因が自分かもしれないという陰口を聞いて、たとえすぐに誤解が解
けたとしても本当のことを知りたいと思う気持ちを止められなかった。

―私は我を忘れていんだ・・・

それがわかったところで、今はただ苦しいだけだった。
入江先生に抱きあげられた時のあの力強い腕の感触も・・・
無愛想な中に見え隠れするさりげない優しさも・・・
自分もそうなりたいと思った医学への姿勢と情熱も・・・
そして昨日、確かにこの胸の中に”恋”が存在することを感じた入江先生のオフィスでのつかの間
の幸せと切なかった思いすらも、もう私の記憶から消えることはない・・・

<あなたは医者なのよ。それがあなたが選んだ道でしょう?・・・>

―そうです!

一条先生が言ったことは、全てがいちいち正しい。
だからこそ私は、こんなにも悔しくて張り裂けそうな想いを抱えながらあるべき姿に戻ろうとしている。
どんなことがあっても決して私の中ら消えることはない”夢”を言い訳にして、なんとか今の気持ち
に折り合いをつけようとしていた。

しかし、その時私は同時にあることに気づいていた。

―じゃあ、入江先生は?・・・

それならば、入江先生の行動はやはりどう考えても不自然に思えた。
なぜ、入江先生は医者としての職務を放棄してまで、琴子さんを探しているのか・・・
実習に来ているわずかな時間に垣間見た2人の様子や、友人たちに吹き込まれた噂話を合わせ
ても、今日の入江先生の行動にはどこか釈然としないものがあるように思えた。

―入江先生にとって、琴子さんってどんな存在なんだろう・・・?

いつの間にか私は医局のドアの前に立っていた。
私は、再び頭の中を巡りだした思いを吹っ切るように一度強く頭を振るとドアノブを回して中に入っ
て行った。


医局長に小言を言われた後、私は入江先生がいない間の指導医を引き受けてくれた西垣先生の
仕事に付いて回っていた。
西垣先生は、入江先生の患者も引き受けたらしく、私の頼りないサポートでも喜んでくれていた。
そして私は、忙しく動き回っていることで余計なことを考える暇もないことに救われていた。

<ねえねえ、入江先生。大学にいたってよ>
<ええ?さっきの患者さんは、入江先生がピータン行きのバスに乗ってたって言ってたよ>
<琴子、どこいっちゃったんだろうね?・・・まさか!>
<ちょっと、縁起でもないこといわないでよ!・・・>

それでも、いやが上にも噂は耳に飛び込んでくる・・・
私は、その度に一条先生の言葉を思い出しながら、気持ちを抑え込み平静を装ってその日を過
ごした。

結局、琴子さんが見つかったという知らせがもたらせされることはなくその日は終わった。
私は、もやもやとした気持ちを抱えたまま身支度を整えて医局を後にした。
ふとカウンセリングルームに寄ろうかと戻りかけたが、それは思い留まって病院の出口へ向かった。
すると、職員用の出入り口を出たところで祥子に出くわした。
「そろそろ出てくるかなと思って待ってたのよ・・・明日は日曜日だし、久しぶりにどこかでご飯でも
どう?」

私は、祥子の誘いに素直にうなづいた。
そして、たまには奮発しようという祥子の提案に乗ってイタリアンレストランに向かった。


「やっぱりね・・・」
祥子が、アンティパストのマリネを口に運びながらつぶやいた。

「やっぱりってどういうことよ?」
私は、これまでのことを一気に話し終えて、やっとほっとしながらテーブルの上のフォークに手を
伸ばした。

「やっぱり美咲は入江先生に恋しちゃったってことよ・・・だからこうして誘ったんでしょ?」
祥子は、全てを心得ていると言わんばかりに胸を張って答えた。

「えっ?気づいてたの?・・・」
私は驚いて聞き返した。

「あーあ、まったくなんて顔してんのよ・・・だって、足の怪我してから、あんたおかしかったもん」
祥子は、半ば呆れたように答えた。

「だったら!・・・」
私は、だったらこうなる前にもっと忠告をしてほしかったと言おうとして、言葉を飲み込んだ。
思えば私の想いはあまりにも急速に育ったものだったと思いなおした。
それに、今思えば祥子は茶化しながらも何度も私に注意を促してくれていたように思えた。
すると、祥子が「”だったら”なによ?!」と怒ったように言った後、ふっと優しい笑みを浮かべて言
った。
「いつもみたいにそばにいられればよかったね。そうすればもっと早くに、こうしていろいろ聞いて
あげられたのに・・・」

私は、突然食べていたものが喉に詰まったように息苦しくなり、溢れだす涙を堪えることが出来
なかった。

「やだ・・・こんな所で泣かさないでよ・・・」
私は、声を詰まらせながらなんとか祥子に文句を言うと、最後に「ありがとう」とつぶやいた。

「入江先生の奥さん、早く見つかるといいね・・・」
「うん、本当に・・・」

「諦められる?・・・」
「仕方ないもん・・・頑張って忘れるよ・・・」

「足の怪我どうした?・・・」
「もう痛くないよ・・・でも、いつになったら抜糸してもらえるのかな・・・」

「一条先生ってかっこいいね。今度紹介してよ」
「うん、ホント一条先生がいなかったら私どうなってたか・・・」

「やっと美咲も恋をして、医学バカの称号を返上ね・・・」
「失礼ね。別に今までだって医学だけだったわけじゃないじゃないわよ!」
「あら、そーお?・・・」
祥子がおどけたように私の顔を覗きこむ。
その顔がおかしくて私は声を上げて笑った・・・なんだかとても久しぶりに笑った気がした。

それから私たちは、たくさんの話しをした。
私は、祥子の友情に何度も涙がこぼれそうになった。
そして、デザートを食べ終わる頃には、私は随分と心が軽くなったように感じていた。

そう・・・せめて、その夜はぐっすりと眠れる程度に・・・


翌、日曜日は、実習期間の唯一の休みということで、私は久しぶりに朝寝坊をした。
それでも病院にも大学にも行かないと、なかなか時計は進まない。
そしてふと気付くと、いつも入江先生のことと琴子さんの安否を思っていた。
そんな私の携帯に祥子からメールが届いたのはその日の夕方のことだった。

<琴子さんが見つかったよ。入江先生のオフィスにいたんだって。休日出勤してた友達のナー
スが知らせてくれたの。これで安心だね  祥子>

私はメールを閉じると祥子への返信もしないまま、バッグを掴んで家を飛び出していた。


                                               つづく


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