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 彼に恋した10日間<12>  医学実習生:神谷美咲

祥子のメールを見てすぐに家を飛び出した私は、バス停に走った。
今まさにドアが閉まろうとしているバスに飛び乗り、病院へ向かった。
病院へはバスで2駅・・・

―間に合うだろうか?・・・

<冷静になりなさい。もっと深く考えなさい・・・>
一条先生の言葉が頭をかすめた・・・それでも私にためらいはなかった。

病院前でバスを降り、病院の門をはいったところで一台のタクシーが私を追い越して行って病院
の玄関に停まった。
ガラスの自動ドアの向こうに目を凝らすと、数人の人影が見えた。

―もしかしたら?・・・

私は立ち止って、少し離れた所から自動ドアが開くのを待っていた。

思った通り、程なくして自動ドアが静かに開いて入江先生と琴子さんが現れた。
入江先生は、琴子さんを両手で抱きかかえるように支えながらエントランスの階段をゆっくりと降
りて来た。
私は、自然と足が動いて数歩近付くと、2人の姿をじっと目で追っていた。
入江先生の肩に頭を預けた琴子さんの目は泣きはらして真っ赤になっていた。

―入江先生も?・・・

気遣うように彼女の顔を覗きこんでいた入江先生は、顔を伏せていてその表情を伺うことはでき
ない。
ところが、琴子さんが先にタクシーに乗り込んでいる時に入江先生が顔を上げた。
そして、後ろから何か声を掛けているナース達に振り向き、さらにぐるりとあたりを見回す仕草を
した時、入江先生の視線が私のところで止まった。

入江先生は、ほんの一瞬目を見開き、驚いた表情を浮かべた。
遠目に見てもやはり彼の瞳も心なしか赤く充血しているように思えた。
私は、彼と目が合ったことに動揺し、慌てて頭を下げた。
すると、入江先生は私に向って少し目を細めて微笑むと、すぐにタクシーに乗り込んだ。

ドアが閉まると同時に走り出したタクシーが、病院のエントランスを回って私の前を通過して行く。
ゆっくりと走るタクシーの後部座席に目を凝らすと、座席の中央でしっかりと握りあった2人の手
が見えた。

私は走り去るタクシーが病院の門を出て右に曲がるまで見送ると急に涙がこみ上げてくるのを感
じてうろたえた。
それは安堵の涙のようであり、悔し涙のようにも思えた。
それなら私は何に安堵し、何を悔んでいるのだろう・・・
ただ、最後に私を見た入江先生の微笑みと固く握りあった2人の手が、この目に焼き付いて心が
痛くて仕方がなかった。

―私は、いったい何をしに来たんだろう・・・

わざわざ傷つきに来たようなものだと自己嫌悪が広がる。
でも私は知りたかった。
あの入江先生が、仕事を放棄してまで探しまわった琴子さんという存在の意味を・・・

<これは入江先生と琴子さんの問題なの。あなたが取り乱しても何も解決しないのよ・・・>

また一条先生に言われた言葉が頭に浮かぶ・・・

―わかってますよ・・・一条先生。

一条先生に諭され、昨夜祥子と語り合って、何かが吹っ切れたのは確かだった。
だからこそ、一条先生の言葉が浮かんでも今なら素直に聞くことが出来る。
ただ、今この胸にもやもやと広がる想いだけは払しょくしたかった。
この恋が決して叶わないものであるのなら尚更、初めて心から尊敬できる医師だと思った気持ち
だけは無くしたくなかった。
そうでなければ、あまりに自分が可愛そうに思えた。
たとえ、この考えが一方通行の独りよがりだとしても、私には知る必要がある気がしていた。

そうは思っても、出会ってからでもまだ1週間しか経っていない恋にそれを知る術はない。
ましてや、この想いを彼に伝えることすらできないのだから・・・

―バカね・・・他にやることはいっぱいあるのに・・・

私は自嘲気味に笑うと、ふと我に返って顔を上げた。

日曜日の病院は、いつもなら外来患者がひっきりなしに出入りするエントランスも、時折見舞客の
往来がある程度で閑散としていた。
私は、何気なくあたりを見まわして、今さらながらに自分がぽつんと一人佇んでいることに気が付
いた。
不意に恥ずかしさが込み上げ、うつむきながら病院の門に向かって歩き始めた時、ふと目の端に
風に翻る白衣が見えた気がして振り返った。

「一条先生?・・・」
私は、その場に立ちすくんだままつぶやいた。
病院のエントランスの前に一条先生が立って私に微笑みかけていた。

そして、一条先生は私に手招きをしながら「いらっしゃい」と言って自動ドアの中に入って行った。
私は、その後ろ姿を自動ドアが自然と閉まるまでの間呆然とながめてから、あわてて後を追いか
けて病院の中へ入って行った。


「まったく、せっかくのお休みだっていうのに、昨日報告書が仕上がらなくて今日は休日出勤なの
よ・・・」
一条先生は、カウンセリングルームに入ると私にソファに座るよう促しながら、そう言って笑った。

私は、なぜここに呼ばれたのか一条先生の真意を測りかねていた。
すると、うつむいて小さくなっている私を見てさらに笑いながら一条先生が言った。
「まるで、親か先生に叱られてる子供みたいね?・・・何か悪いことでもしたの?・・・」

「えっ?・・・いえ・・・そういうわけじゃ・・・」
私は、顔を上げしどろもどろで答えた。

一条先生は、部屋の隅に置かれた電気ポットでコーヒーを入れて私の前に差し出すと、自分もカ
ップを持って正面のソファに腰掛けた。

「琴子さん、見つかって本当に良かったわ・・・」
一条先生は、心から安堵したようにつぶやいた。
私は、何も答えずに一条先生の形のいい唇が次の言葉を発するのを待っていた。
すると一条先生は、カップのコーヒーを一口飲んでから、まるでひとり言のように話し始めた。
「琴子さんはわかってないのよね・・・」
その言葉は、ため息交じりでどこか羨ましげに言っているようにも聞こえた。

「何をですか?・・・」
私は相槌を打つ代わりに尋ねた。

「ん?・・・どれ程自分が入江先生に愛されてるかってことをね・・・」

あえて私から視線をそらして言った一条先生の言葉に、私の心臓の鼓動は一気に速まった。
そして一条先生は「これは私の推測だけどね」と前置きをしてから話しを続けた。
「入江先生にとって琴子さんという存在は心の中枢なの・・・極端に言えば、たとえ医師という職業
を失ったとしても入江先生なら他にいくらでも出来ることがあるでしょう?・・・でも、琴子さんを失っ
たらたぶん彼は生きていられない・・・誰も彼女の代わりは出来ない・・・私はそう思ってるの」

―生きていられない程に・・・?

琴子さんに愛され琴子さんを愛することで、入江先生はかろうじて外の世界と繋がっているのだ
と一条先生は言った。
だからこそ、天才ゆえに何もかもをわかりつくして来た中で全てを理性でコントロールしてきた彼
が、唯一感情をあらわにする相手が琴子さんなのだと付けくわえた。

「神谷さんも、ずっと入江先生と一緒にいて感じたことがあったと思うわ・・・彼は琴子さんを見てい
る時だけはとても人間らしい表情をするでしょう?」
一条先生は、クスリと笑うと、何かを思い出しているように遠い目をしながら言った。

―あっ!・・・

その時私の脳裏には医局の窓際でそれまで見たこともなかった穏やかで優しい微笑みを浮かべ
た入江先生の顔が浮かんでいた。

―わかります・・・一条先生。

私は、この数日間入江先生に付いて歩きながら見て来た彼の表情をひとつひとつ思い出していた。
他の医師たちと話している時、患者を診察している時、ナース達と話しをする時も決してずっと冷や
かな表情をしているわけではなく、時には笑みを浮かべることもあった。
それでもこれ程あの窓際での微笑みが焼き付いているのは、それが入江先生の心からの笑顔だ
ったからなのだと納得できた。
そして、貧血で倒れた琴子さんを連れて帰る時の強引とも思える行動も、それが琴子さんだけに集
約された愛情表現なのだと思えばすんなりと受け入れることが出来る気がした。

私は、知りたいと思っていた琴子さんという存在の意味が急に目の前に浮かび上がったように思え
ていた。しかし、同時にまた違った疑問も湧き上がって来た。
「それなら、なぜ琴子さんは失踪なんて・・・そんなにも入江先生に愛されてるのに・・・」

すると、一条先生は少し困ったように首を傾げながら答えた。
「琴子さんの失踪の理由は、それが私たちに関わりのあることならいずれは耳に入ってくるわ・・・
でも、そうでないなら詮索する必要のないことだと私は思うわ・・・ただ・・・」
そこで一条先生は一瞬言葉を選ぶように言い淀むと、私の目を真っ直ぐに見つめながら言葉を続
けた。
「そんなにも琴子さんを愛している入江先生だったからこそ、あなたは恋をしたんじゃないかしら・・・」

―えっ?・・・

「だって、あなたは入江先生の容姿に惹かれたわけじゃないんでしょう?・・・」

それは衝撃的な言葉だった。
私は、見透かされた心に微かな痛みを感じながら、ただ一条先生の顔を見つめていた。

私の恋は、琴子さんの存在があってこそ芽生えたものなのだと一条先生は言った。
それならば、入江先生に琴子さんという存在がいなかったら、私はこの実習で恋をすることはなか
ったのだろうか・・・

私は、一条先生がなぜ急にこんなにもたくさんの話しをしてくれたのかということを不思議に思う余
裕もない程に混乱していた。
混乱しながら、次第に胸が熱くなってくるのを感じていた。


そして、私の脳裏にはまるで2人の愛の象徴のように、タクシーの中に見た2人の固く握りあった手
がはっきりと浮かんでいた・・・


                                                 つづく


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