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 彼に恋した10日間<14>  医学実習生:神谷美咲

失踪した琴子さんが見つかった翌日も入江先生は病院に現れなかった。
私は、落胆と安堵の両方を感じながら主のいないデスクをながめていた。
きっと何か辛いことがあって家を出た琴子さんを一人にはしておけないのだと勝手に納得して、私
は西垣先生に従って忙しい1日を終えた。

昨日、夜の街を彷徨いながら、自分の気持ちに区切りをつけたつもりでいた。
それでもいざ入江先生を目の前にした時、本当にこの想いを伝えられるかどうかはその時になって
みなければわからないとも思っていた。

―でも、後悔だけはしたくない・・・

私は、”その瞬間”をどう迎えるのか?・・・
ふとした時に思うとその度に胸がドキドキと高鳴る。
それでも私の心の中のシナリオはずっと白紙のまま、きっと一行のセリフも書き込まれることはな
いのだという気がしていた。


さらに翌日、私はバス停で一緒になった祥子と共に病院の門をくぐった。
「ああ、ここへ来るのももう今日と明日の2日だけになっちゃったね・・・」
祥子がレンガ造りの門柱をひと撫でしながらつぶやいた。

「そうね・・・」
「何よ、美咲ったら・・・心ここにあらずって感じね。放心状態になるのはまだ早いんじゃない?今
日はまだ普通業務でしょ?明日、全部終わって先生方に挨拶してからそういう顔した方がいいん
じゃない?」
祥子が、私の顔を覗きこみながらからかうように言った。

―でも、たぶん今日は入江先生が来る・・・

「えっ?・・・あっあはは・・・そうよね。ちょっと気が早かったかな・・・」
私は、なんとか笑ってごまかすと、自分の頭をこつんと叩いて歩き出した。
すると、私の背中に語りかけるように祥子がつぶやいた。
「まぁ、美咲は私なんかよりずっと密度の濃い時間を過ごしたもんね・・・恋までしちゃってさ・・・」

私は、祥子の声が聞こえなかったふりをしてそのまま歩き続けた。


私は外科の医局のドアの前で一度大きく深呼吸をした。
このドアを開けたら右正面のデスクにたぶん彼は座っている。
私は、思い切ってドアを開けると、真っ先に彼の席を見た。しかし、そこに彼の姿はなく代わりに奥
の医局長のデスクの前にその背中が見えた。

私は、誰にともなく「おはようございます」と挨拶の声を掛けると真っ直ぐに自分のデスクに向かった。
背中越しに医局長と入江先生の会話が聞こえてくる。
もうずいぶんと長い間入江先生の声を聞いていなかったような気がして、私は思わず耳に神経を
集中していた。

「いろいろ大変だったみたいだな・・・琴子さんはもう落ち着いたか?・・・」

―医局長は琴子さんの失踪の理由を知っているのかしら?・・・

「はい、今回のことではご迷惑をおかけしました。琴子はまだしばらく休みますがもう大丈夫です」

―しばらく休むってことは、体の調子が悪かったのかな・・・

「そうか、それなら良かった。ところで、さっき産科の周君が言ってたんだんだが、いい知らせがあ
るんじゃないか?」

―えっ?・・・産科?

「えっ?・・・あっ、はい・・・聞いたとおりですよ」

私は、思わず振り返って入江先生の背中を見つめた。

「そうかそうか・・・それは良かったな、あの琴子さんがお母さんになるのか・・・君もできるだけ琴子
さんの体をいたわってやれよ」

「ありがとうございます」
とても穏やかなに答える声が聞こえ、医局長に頭を下げてこちらを向いた入江先生の顔には照れ
たような微笑みを浮かべていた。

私は気づかれないようにすぐ向き直ると、今日のスケジュールを確認しているふりをしていた。
それでも胸の動悸は増すばかりで、私は席に戻ってくる入江先生にどう声をかけようかと考えを
めぐらせていた。
ところが、突然入江先生が私を呼ぶ声が聞こえて、私は飛び上るほど驚きながら立ち上がった。

「神谷、外来が始まる前に足の抜糸をしてやる。処置室へ行くぞ」
「は、はい!」
私は、慌てて返事をすると先に行く入江先生を追って医局から廊下にでた。


まだ診療の始まっていない時間の処置室にはナースの姿もなく、私は診察台の上に座って入江
先生が抜糸の準備をするのを待っていた。

慎重にガーゼが剥がされ、傷があらわになると、まだ赤みを帯びた傷跡にトゲトゲとした縫合糸の
端が見えた。

「これなら、すぐ傷跡も目立たなくなる」
しばらく傷の様子を見ていた入江先生が、私の顔を見ながら微笑んだ。

「あ、ありがとうございます」
私は、ドキリとなった胸を押さえながら何とか答えた。

入江先生が、ピンセットとハサミを持ってゆっくりと手当てをしている姿を見降ろしながら、私は言
葉を探していた。
まさか、こんな逃げも隠れもできない状況で想いを伝えようとは思わない。
それでも、何か話していないと息がつまりそうだった。

「あ、あの・・・さっき医局長と話しているのが聞こえちゃったんですけど・・・奥さん、赤ちゃんがで
きたんですか?」
私は、それでもスラスラ出て来た言葉に自分で驚きながら尋ねた。

「ああ、昨日わかったんだ。」
入江先生が短く答える。

「おめでとうございます。奥さんもとても喜んだでしょう?」
私は、この場を取り繕うために必死で言葉を繋いだ。

「ああ、そうだね・・・」

なんだか、どの言葉も取ってつけたようでため息が出る。
すると、ハサミとピンセットを置いた入江先生が、傷の上にテープを張りながら言った。
「せっかくの実習を台無しにしてしまって神谷には悪いことをしたな」

「いえ、そんな・・・」
私は、急に改まったことを言われてドギマギとしながら答えた。

「それで悪いついでに、オレはこの3日間にたまった仕事があるから、残りの2日もこのまま西垣
先生について進めてくれ。西垣先生には了承をとってある」
入江先生は、テープの端をハサミで切って台の上に置くと、顔を上げながらそう言った。

―えっ?・・・

「そ、それは、困ります!」
反射的に、まるで自分が言っているとは思えない言葉が口をついて出ていた。

「えっ?・・・」
入江先生が驚いたように私の顔を見る。

「まだまだ入江先生に教えてもらいたいことがあります。ずっと待ってたのに・・・実習報告のレポ
ートも入江先生への質問をしなければ書き上げられません」

―ホントの気持ちは・・・本当は・・・

私は、胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを必死で堪えていた。

―泣いたらダメ。

今、ここで言ってしまいたい衝動が湧きあがる。
でも、こんなに唐突に言葉にする勇気が出るはずもない。
胸の中で想いがせめぎ合っていた。


入江先生が、唇を真一文字に結んで私の顔を覗きこんでいた。
その視線は、まるで私の心を透かして見ているかのように、鋭くそれでいて少し哀しげな色を帯び
ていた。

私は、金縛りにあったように身動きもできず、ただその視線からのがれるように顔をそむけていた。


                                                  つづく


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