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 彼に恋した10日間<Final>  医学実習生:神谷美咲

私は、入江先生の視線を感じながら、顔をそむけたまま様子を伺っていた。
誰もいない処置室は、ほんのちょっと物音ですら大きく響いて私を驚かせる。
私は、しばらく私の顔を覗きこんでいる様子だった入江先生が、使った道具の片づけ始めた音を
聞いておもむろに顔をあげた。

「神谷?・・・」
入江先生が、道具の入ったラックの前に立って背を向けたまま不意に私を呼んだ。

「は、はい?・・・」
私は、診察台からおりながら返事をした。

「お前、どうして医者になろうと思った?」

―えっ?・・・

私は、一瞬入江先生の言葉の意味が理解できず、ポカンと彼の顔を見ていた。
それは、私にとってはあまりに意外なことだった。
なぜなら、入江先生から私に話しかけることといったら、これから始めることの連絡事項くらいな
もので私たちの間に会話というものが成立する時は、私からの質問に彼が答えてくれる時意外の
ことを思いつけなかった。

「神谷?・・・聞こえなかったか?」
入江先生が振り返って不思議そうに私を見た。

「い、いえ・・・聞こえてます。私が医者になろうと思ったきっかけですね・・・」
私は、混乱する頭の中で必死に話すべきことをまとめようとしていた。
入江先生は、ラックに寄りかかると腕を組んで私の話を聞く態勢を取っていた。

私は、診察台の上に座ったまま、ほんの少し入江先生から視線を逸らして、子供の頃のあの苦し
い闘病生活について話を始めた。
一度は私の死も覚悟するように言われた両親の必死に涙を堪えながら私を励ます姿を思い出す
と、今でも涙が込み上げてくる。
そして、子供ながらにも自分に死の影がまとわりついていることを感じ始めた頃、ある朝の回診の
時に主治医が私に言ってくれた言葉が今も忘れられない・・・

<先生ね一生懸命勉強して、美咲ちゃんの病気を治す方法を見つけたよ。だから大丈夫、きっと
また学校に行って友達と遊べるようにしてあげるからね・・・>

「私の命が今につながった瞬間でした・・・未来のことを考えようとしても、自分には何も叶えられな
いのだと子供ながらにも思っていましたから・・・あの先生は私に希望と未来をくれました。だから私
も彼のように医者になって同じように苦しむ人を救ってあげたいと思うようになりました。それがきっ
かけです」
私は、話し終わってふうと息を吐きだした。

入江先生は、言葉を挟むことなく私の話を聞いていた。
そして、私が話し終えるととても穏やかな表情で短くつぶやいた。
「神谷は、いい医者になれるよ。患者の痛みをわかってやれる・・・オレにはそれがない。」

―えっ?・・・

どういう意味だろうと、私が首を傾げた時さらに入江先生が付け加えるように言った。
「今はしっかり勉強する時期だな・・・こうして縁あってお前の指導医になったんだ。オレにできるこ
とは協力するよ」

その時、私は不意に入江先生を遠く感じた。
妙にはっきりと耳に残る”指導医”という言葉が、自分がまだ学生なのだということをはっきりと思い
出させていた。
そして、ある考えが頭に浮かんで突然心臓が激しく動悸を始めた・・・

そう・・・入江先生は、私の気持ちに気づいたのかもしれないと。
そして、私の想いをけん制したのかもしれないと。

「さあ、外来の時間だ・・・とにかく、今日は西垣先生についてくれ。明日必ず時間を作るから聞きた
いことをまとめて来い」
入江先生は、そう言うと先に処置室から出て行った。

私は、閉まりかけたドアの向こうに向かって小さく「わかりました」と答えるのが精いっぱいで、ただ
呆然と彼の去って行く足音を聞いていた。



私が医局に戻った時には、入江先生はすでに自分のオフィスへ行ってしまった後だった。
結局私はその日も西垣先生について一日を終えた。

―神谷はいい医者になれるよ・・・

入江先生の言葉が、何度もその表情と一緒に私の脳裡に蘇った。
たとえ叶わない想いであっても、私は医学で彼と繋がっていられる・・・そう無理に思っている自分
がいた。
ただ、それでも胸に燻ぶる気持ちを伝えたいという想いだけは、やんわりとけん制されたとわかっ
ていても消すことができずにいた。
それは、あと明日1日しか残されていない10日間の実習の最終課題のように私には思えていた。

私は、帰り支度を整えて外科の医局を出ると、自然と足が向いて一条先生のカウンセリングルー
ムを尋ねた。
しかし、ドアの横のプレートは不在となっていて、一条先生はいなかった。

―一条先生に会って何を話そうというんだろう・・・

誰でもない。私に入江先生への想いは決して叶わないと最初に言ったのは一条先生だったのに・・・
私は、彼女に「入江先生に気持ちを伝えたい」と告白するつもりだったのかと、自分で自分に呆れ
ながらカウンセリングルームに背を向けた。

―これでいいんだ・・・

この恋を決して後悔しないでと言ったのもまた一条先生だった。
だからこそ最後がどうなろうと、自分の納得する形で終わりにしたい。
どこか思いつめたような私の思考は、ただ明日の最後のチャンスへと真っ直ぐに向かっていた。



翌日、実習最後の日は雲ひとつない見事な青空の朝を迎えた。
私は、眩しい太陽に手をかざしながらバスを降りて病院の門をくぐった。
その日は、夕方から一緒に実習をした仲間たちと打ち上げの約束があった。
集合場所や時間をまだ聞いていなかった私は、いつものように同じ時間に反対のバスを降りる祥
子に聞こうと思ったが、今日に限って祥子はそのバスに乗っていなかった。

―あとでメールすればいいか・・・

それでも、どこかに祥子がいそうな気がしてあたりを見回しながら歩いていると、不意に誰かが
「琴子!」と呼ぶ声が耳に飛び込んできて、私は声のした方に視線を向けた。
見ると、少し前を歩いていた集団の向こうに、琴子さんと以前私を助けてくれた男性ナースの姿
が見えた。

「幹ちゃん!久しぶり!」
琴子さんが振り向いて幹ちゃんと呼んだ男性ナースに駆け寄った。

「ちょっと琴子、もう出勤するの?体大丈夫?」
「違うの、まだしばらく休むからロッカーに置きっぱなしのナース服とか荷物を取りに来たの・・・
それに師長に挨拶もね・・・」
「そっか・・・で?直樹さんは?・・・」
「えっ?ああ、そこまでは一緒に来たけど、もう先に行っちゃったよぉ〜さっさと挨拶済ませて家
に帰れってさ」

2人の会話を聞いて、ふと先に視線を送ると、丁度病院の入口を入って行く入江先生の後ろ姿
が見えた。

私は、気づかない振りで2人の横を通り過ぎようと歩調を速めた。
しかし、病院の入口の前まで来た時、不意に肩を叩かれて振り返ると想いもかけず琴子さんが
私を見て微笑んでいた。

「お、おはようございます。神谷さんだったっけ?・・・入江君が指導医してる学生さんでしたよね?」
琴子さんは、少し照れたように私に尋ねた。

「は、はい・・・そうです。」
私は緊張して、そう答えるのがやっとだった。

「あ、あの・・・昨日抜糸したって入江君に聞いたんだけど、怪我は大丈夫?」

―えっ?・・・

「えっ?・・・あ、はい・・・少しすれば傷跡も目立たなくなるって入江先生がいってくださいました。
もう痛みもないので大丈夫です」
しどろもどろになりながら私が答えると、琴子さんはとてもほっとした顔で「そう、よかった」と言
った。

―どうして急に?・・・

突然話しかけて来た琴子さんに、私が戸惑いの表情を浮かべているとそれを感じたらしい琴子
さんがさらに照れたように言葉を繋いだ。
「もし神谷さんに会えたら、私あなたに謝らなきゃって思ってたの・・・」

「えっ?・・・私に?」
私は、さらに戸惑いを強めて彼女を見た。

「う、うん・・・だって、私のせいでせっかくの実習が台無しになっちゃったでしょ?」

―えっ?・・・

それは、不思議と思ってもいなかったことだった。
確かに言われてみれば、彼女が倒れたり失踪したりしなければ、私はずっと入江先生の元で
今日をむかえていたのかもしれない・・・
それでも、彼女のせいだと思ったりしていなかったのはなぜだろう・・・

―そうか、一条先生だ・・・

彼女が、とても上手く私の想いの軌道を作っていてくれたのだとその時初めて気が付いてた。
あのまま、一条先生と出会わずにただ入江先生に恋したことに気づいていたら、私はもしかし
たら今目の前にいる人を恨んだり憎んだりしてたのかもしれないと思った。

「そ、そんなことないです。お身体大事になさってください」
私は、なんとか体裁を作って答えた。

私と琴子さんは、自然と病院の入口に向かって並んで歩き始めた。
私の胸はドキドキと高鳴っていたが、彼女が隣にいることに嫌悪感も違和感も感じていない自
分が不思議だった。

「入江君がね。神谷さんはきっと患者さんの痛みのわかるいいお医者さんになるって昨日言っ
てたよ」
お互いに前を向いて歩きながら、琴子さんが言った。
私はどう返事をしたらいいのかわからず黙ったまま彼女の言葉を聞いていた。

「入江君って滅多に人をほめる人じゃないから、それってすごいことだって私は思うよ・・・きっと
神谷さんはホントに優秀なんだね。私ね、ちょっと恥ずかしいんだ・・・入江君が女の子の学生
の指導医になったって聞いてやきもち焼いちゃったしね・・・一生懸命勉強しに来た人に失礼だ
よね。あとですごく入江君に怒られちゃったんだ」
琴子さんは、頬を赤らめながら話を続けた。

私は、相づちも入れられない状況で話す琴子さんの顔を、そっと盗み見てみた。
屈託のない笑顔と、純粋で正直な話しぶりに好感が持てた。
一条先生に言われずとも、この姿を見たら入江先生が琴子さんをきっと深く愛しているだろうこ
とが分かったかもしれない・・・

私たちは、いつの間にかエレベーターホールの前に来ていた。
「あっ、一人で勝手にしゃべっちゃってごめんね・・・今日で実習終わりなんでしょ?この後も頑

張って素敵な先生になってください」
琴子さんは、最後まで屈託のない笑顔のまま話を終えた。
私はやっと「ありがとうございます」とだけ言葉にして言うと、彼女に向かってなんとか笑顔を作っ
て頭を下げた。



―神様って何てイジワルなんだろう・・・

私は、いつまでも動悸のおさまらない胸をおさえながらひとり医局への廊下を歩いていた。
どうして、今頃になって彼女は私の前に現れたのか・・・

私は、戸惑いをおさえきれないまま自分の席に着くと、バッグの中身を出しながら入江先生の席へ
顔を向けた。
入江先生は私の動揺など知るはずもなく、すでに席にいて隣の西垣先生と何か話していた。
私は、返事を期待せずに朝の挨拶をすると、昨日言われたように質問事項をまとめたレポート用
紙を机に広げてもう一度見直しを始めた。

―まともに質問なんて出来るのかな・・・

本当に聞きたいことだけを簡潔にまとめて書かれたレポート用紙は、自分でもよく書かれていると
思えた。
ただ、それで実習のレポートが素晴らしく仕上がったとしても、私の心が満たされるのかどうかと思
えばただ自嘲気味な笑みが浮かぶだけで虚しさが胸に広がるばかりだった・・・

出会わなければ良かった?
ここへ実習に来なければ良かった?
外科を希望しなければ良かった?

―じゃあ、医学という道を選ばなければ良かった?・・・

違う・・・それは違う。
少なくとも、入江先生は私はいい医者になれると言ってくれた。
私の選択を認めてくれた。

それなら、入江先生はどうして医者になろうとしたんだろう?・・・
ふとそんな想いが頭をかすめた。
元々は、理工学を専攻していたと誰かに聞いたことがある。
いつか入江先生のオフィスで見せつけられた彼の能力を持ってすれば、彼の選択肢は無限だった
はずなのに・・・
子供の頃からそれだけを見つめて来た私とは、スケールの違う未来が彼にはあったはずなのだから。

―入江先生が医学の道に進まなければ出会うこともなかったのに・・・

私は本末転倒とも思える考えに没頭して、いつのまにか入江先生が私を呼んでいることに気づか
なかったらしい・・・

不意に入江先生の声が耳に飛び込んできて、顔を横に向けると思いもよらず目の前に入江先生の
顔があった。私はそのあまりの近さに驚いて、持っていたレポート用紙を床にばら撒いてしまった。

「おい、神谷・・・大丈夫か?」
入江先生の呆れたような声がさらに私を焦らせた。

「す、すみません!」
私は、謝りながら慌ててレポート用紙を拾い集めた。
すると、その中の一枚を拾い上げた入江先生が、書いてあることにさっと目を通してから私に言った。
「さあ、オレのオフィスに行ってこれを片づけちまおう・・・」

「えっ?・・・今日は外来は?・・・私に付き合ってもらっちゃって大丈夫なんですか?」
私は、きっと今日の最後に滑り込みのように聞くことになるだろうと覚悟していたので、少し面食らい
ながら尋ねた。

「こっちのスケジュールを気にすることはない。いくぞ」
入江先生は、いつものように言葉少なに言って、先に部屋を出て行った。

私は、入江先生に借りたままだった医学書と拾い集めたレポート用紙を持つと、ある思いを胸に秘
めて入江先生を追いかけて行った。



琴子さんが疾走する前の日と同じように、ドアが開けられたままの入江先生のオフィスで、淡々と
作業は進んで行った。
私は、部屋の隅のソファに腰掛けると、入江先生の医学書を下敷きにして彼が答えてくれることを
メモに取っていた。

的確な答えとアドバイス。
時に逆に質問されたことに答えながら、まるで個人授業を受けているような時間が過ぎて行った。
私は、改めて入江先生の優秀さを目の当たりにしながら、やはりこの人のような医者になりたいと
いう想いが膨らんでいくのを感じていた。
もし、この心に恋なんてものが存在しなければ、私は医者としてどれ程彼に心酔して尊敬と憧れを
抱いただろうと。

それは、今までのどんな教授や助教授の授業よりも充実していて、意義のある時間に思えた。
そして、最後の質問の答えをレポート用紙に書き終えた時には、いつの間にか2時間という時間が
過ぎてしまっていた。

「あ、ありがとうございました」
私は、感極まって思わず込み上げてくる涙を堪えながら頭を下げた。
入江先生は、何も答えずに私の質問に答えるために広げた資料や本の片づけを始めていた。

―今が最後のチャンス・・・

私は、入江先生が本棚にファイルや本をしまっていくのを見ながら、思い切って聞いてみた。
「あの・・・最後にひとつだけお聞きしてもいいですか?・・・」

入江先生が、「なに?」というように小首を傾げながら私を振り返った。

「あの・・・昨日、私にどうして医者になろうと思ったのかってお聞きになりましたよね?・・・私もぜ
ひ入江先生がこの道を選んだきっかけを教えてもらいたいなって思って・・・」

―入江先生の答え次第で、私の恋の終わり方が決まる・・・

私は、医局で思いついたこのシナリオに全てを賭けていた。

もし、入江先生が医学の道を選んだきっかけに琴子さんの存在があるのだとしたら、私はこの
まま心を伝えずにここを去ろうと思っていた。

<琴子さんを愛している入江先生だったからこそ、あなたは恋をしたんじゃないかしら・・・>

一条先生の言った言葉が頭に浮かぶ・・・

琴子さんという存在がなければ、私は入江先生に出会うこともなかったというなら、もうこの恋は
偶然の連鎖などではなく必然であると思えた。
そう・・・彼は恋でもしなければとても向かっていけるような相手ではなかったのだと。
恋をして、彼を知りたいと思わなければ、医者としてどれ程優れていても、きっと近づくことすらで
きずにいただろうと。

だから、私が彼に恋をした10日間は決して無駄などではなく、叶わない想いの中でもがき苦しん
だことがこれからの私の糧になるのだと納得できるような気がしていた。

入江先生が答えてくれるまでの時間が酷く長く感じられた。
今この時までの出来事が、ビデオを早回しするように脳裡に流れていた。

そして、入江先生は一瞬言い淀んだあと、ポツリと答えてくれた。
「あいつだよ・・・」

「奥さんですか?」

「ああ、そうだ」

―ああ、やっぱり・・・

琴子さんがいて、今の入江先生がある。
入江先生があって、今の私がある。

心にストンと落ちた答えに涙がこぼれることはなく、私は少し照れたように頷いた入江先生に微笑
みを返していた。



「えっ?・・・入江先生がそう言ったの?・・・」
一条先生が驚きの声を上げた。

実習の全てを終えた私は、挨拶を兼ねて一条先生の部屋を訪ねていた。
私は、昨日と今日の出来事を包み隠さず一条先生に話し、今最後の入江先生の言葉を打ち明けた。

「一条先生がそんなに驚くなんて、意外でしたか?」
私は、一条先生の淹れてくれたコーヒーを口に運びながら尋ねた。

「そうね・・・私の知っている入江先生ならきっとそんな答え方はしないと思うな。たぶん琴子さんの
失踪や妊娠で二人の間にも何かあったのよね・・・それもきっととても良いことが・・・」
一条先生は、とても楽しげな言い方で答えると、頷く私に向かってさらに言葉を繋いだ。
「彼は、あなたの気持ちに気づいてたのね・・・だから、真摯に答えてくれた」

「私もそう思います」
私は、とても穏やかな気持ちで答えた。

一条先生が、優しい微笑みを浮かべて頷くのを見て、私も少し照れながら笑みを返していた。

「そうだ!私の友達が一条先生を紹介して欲しいって言ってたんですよ。とってもいい子なんです。
私の話を聞いて彼女も一条先生に憧れてるみたい・・・今度一緒にご飯でも食べに行きませんか?」
私は、祥子の顔を思い浮かべながら言った。

「ええ、いいわよ・・・たまには若い子たちとのおしゃべりも楽しいわよね。」
「そんな、まだ全然若いじゃないですか。おまけにすごく奇麗で、私医者としては入江先生のように
なりたいですけど、一条先生のようなカッコいい女医姿に憧れます!」
「あら、そんなに褒められたら、何か奢らなきゃね・・・」
「ホントですか?・・・楽しみにしてますね」

私と一条先生は、顔を見合わせて笑った。
本当に、10日ぶりに心から笑ったような気がした。



「美咲!こっちこっち・・・」
祥子が病院の門の前で私に手を振っていた。
これから、一緒に実習を受けた仲間たちとの打ち上げがある。
私は、笑顔で手を振り返して祥子の元に駆け寄った。

「終わった?」
祥子の短い言葉に、いろいろな意味が凝縮されているような気がした。

「うん、終わった」
私はとても清々しい気持ちで答えた。

「そう、良かった・・・これからもがんばろ」
「うん、そうだね」

私は、他の仲間たちを待ちながら夕暮れに赤く染まる病院の建物を見上げた。

―入江先生のオフィスはどの窓だろう?・・・

最後に入江先生のオフィスを出る時の光景がありありと脳裡に浮かび上がった。

「この後、オレは外来と手術の打ち合わせがある。これでお別れだな・・・お疲れ様。大学に戻っ
ても頑張れよ」
入江先生は労いの言葉と激励をくれた。

「はい、今日までいろいろとありがとうございました。私入江先生のような医者になれるようがん
ばります」
私は、なんとかスラスラと出た言葉にほっと胸を撫で下ろした。

ところが、まさに入江先生のオフィスのドアを出る瞬間、私は自分が抱えているものに気が付い
て驚いた。
「あっ、大変!入江先生の本、返そうと思って持ってきたのに、また持って出てきちゃいました。」

そして、私はその場で受け取ろうとする入江先生を制して、ひとりオフィスの中に入って行った。
「デスクの上に置いておきますね・・・」そう言葉をかけて・・・


この恋は、ある日何の前触れもなく私の心に降りて来た。
なぜ恋は、誰にでも平等なんだろうと思う・・・
決して届かぬ想いならそれが恋だと気が付く前に捨ててしまえればいいのに。
でもだからこそ恋は必ず心に何かを残していく・・・ときめきや戸惑い、そして涙と痛み。

それが叶わない恋ならばなおのこと・・・
だから私はあの瞬間、その偶然に感謝しながら、メモ用紙に走り書きしたメッセージをそっと挟
んで本を置いた。
いつの日か振り返った時に、この恋の思い出が透明な結晶になってキラキラしていて欲しいと
願いながら・・・


彼は、次にオフィスへ行った時、あの本をそのまま本棚にしまうだろうか・・・
それとも、手にとって開いて見るだろうか・・・
それは、もう今の私にとってはたいして重要なことではない。
ただ、最後の最後にこの恋としっかりと決別したいと思った・・・ただそれだけのこと。
そう・・・想いを伝えるためでなく、ただの決別の意味を込めて・・・


それは、あの日風に煽られて空に舞い上がったメモ用紙と同じ紙に書かれたメッセージ。
ただひと言「好きでした」と走り書きした、私の切ない恋の終えんと未来への新しい一歩への証し。


                                              END


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