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 心に刻まれた笑顔  一条紗江子&神谷美咲

それは、私にとっては何てことのないある日の出来事。
しかし、その出来事は、その日の終わりに私をとても幸せな気持ちにさせてくれた・・・



「これはこれは、一条先生いらっしゃいませ。随分とお久しぶりではありませんか?」
行きつけのイタリアンレストランに入ると、顔なじみのホールマネージャーが人懐こい笑顔で迎え
てくれた。
「ええ、ここのところ忙しくて・・・」
「今日はお一人ですか?」
「いいえ、待ち合わせなの。ちょっと早く来すぎちゃったみたい・・・待たせてね」
「はい、ではお席にご案内します」

私はマネージャーの後に付いて店の奥へと入って行った。
混雑時の待合室も兼ねている少し広めの入口は、片方の壁に天井まで設えたワイン棚がある。
そして、赤と白のタイルで装飾された大きなピザ窯の前を通り過ぎると、解放的で明るい雰囲気の
ホールに出る。
平日の夜ということもあって、夕食の時間でもぽつぽつと席は空いていた。
私は、丁度空いたばかりだというバーカウンター前の広い席に案内された。

「とりあえずグラスワインをください。白がいいかな・・・食事のオーダーは連れが来てからにするわ」
「かしこまりました」
水とおしぼりを持って来たウェイターに声をかけて、私はテーブルに置かれたメニューを手に取った。

―さて、何を食べようかしら・・・

アンティパスト、サラダ、パスタ、ピザ・・・と順番にメニューをめくっていると、耳の中を通り過ぎて行
く店のざわめきの中に聞き覚えのある声が聞こえたような気がして、ふと顔を上げた。
あたりを見回すと、すぐにその声の主を見つけて私は思わず微笑んだ。

店の一番奥のテーブルに、入江先生と琴子さんが向き合って食事をしていた。
耳に止まったのは、どうやら琴子さんの声だったらしい・・・
一生懸命話しかけている琴子さんに、入江先生が時折返事をするように見つめ返す仕草をする・・・
その表情はいつも病院で見る彼のそれとは明らかに違っていて、とても穏やかで優しい顔をしていた。

入江先生の琴子さんに対する愛情や想いは、私の知り得る範囲で十分にわかっているつもりでは
いる・・・それでもあんなに優しい彼の表情を目の当たりにすると、それが”あの”入江直樹と同一人
物とは思えず不思議な気持ちになった。

―へえ・・・あの2人でも、こんなところで食事することがあるのね・・・

私は、見てはいけないものを見てしまったような、それでいてとても得をしたよう妙な気分で、しばし
2人の姿をメニューの上から盗み見ていた。

「お待たせしました・・・」
不意に頭上から声がかかって、私はなぜか少し慌ててメニューを閉じた。
目の前に白ワインの入ったグラスが置かれるのを見て、私はそれを自分が注文したのだということ
をその瞬間に思い出して苦笑した。

―あはは・・・何やってるんだろ、私。

しかし、次のウェイターの言葉に、思わずはっとして顔を上げた。
「お連れ様がいらっしゃいましたら、お声をおかけ下さい」

―お連れ様?・・・そうよ!!

「まずいわ・・・まさか入江先生と琴子さんがここにいるなんて思わなかったし・・・」
私は、声に出してつぶやきながらバッグの中から携帯電話を取り出した。

メールをして少し時間をずらすように伝えようか・・・それとも思い切って場所を変えようか・・・
開いた携帯を眺めたまま思案していると、不意に手の中で携帯が振動した。
驚いて携帯を落としそうになりながら着信メールを開くと、思いもよらず当の相手からのメールだった。

『すみません。少し遅れます』

私は、そのあまりに短くて簡潔なメッセージに思わず大きく息を吐き出した。

―よかった!・・・やっぱり、この場で会うのは気まずいわよね・・・

私は、待ち合わせの相手の顔を思い浮かべながら一人納得して返信メールを打った。
『急がなくていいですよ。ゆっくり来て』

―そう、できるだけゆーっくりね・・・

私は、心の中でも念を押すようにつぶやきながら、送信ボタンを押した。
それから、少しだけ首を伸ばして入江夫妻の様子を伺った。
どうやら、2人はすでにデザートを食べているようで、テーブルの上には小さな皿とエスプレッソの
カップだけが乗っていた。

―これなら大丈夫かな・・・

私は、きっともうすぐ入江夫妻が席を立つことを期待しながら、バッグから読み掛けの雑誌を出し
て読み始めた。
そして、時計を気にしながらページをめくっていると、程なくして入江夫妻が立ち上がるのが目の
端に見えた。
私は、持っていた雑誌を少し高く上げてさりげなく顔を隠した・・・なんとなく、今の2人の邪魔はし
たくないように思えたから・・・
しかし、真っ直ぐにレジに向かったのは入江先生だけで、なぜか琴子さんがテーブルの間を縫う
ようにして私の前にやって来た。

「やっぱり一条先生だ!」
琴子さんは、満面の笑みを浮かべて私の顔を覗きこんだ。

「あら!琴子さんじゃない?・・・どうしたの?」
私は、少しわざとらしいかと思いながらも、たった今彼女の存在に気付いたように顔を上げた。

「一条先生こそ、こんなところで!誰かと待ちわせですか?あっ!彼氏とか?・・・」
琴子さんが、にやりと笑いながら私を見る。

「まさか!女の友達と待ち合わせてるの・・・少し遅れるって言われて待ちぼうけしてるのよ。それ
で琴子さんは?」
私は、自分の言った”友達”という響きに、ほんの少し照れを感じながら聞き返した。

「私は、入江君と2人で食事に来たんです」
琴子さんは、そう言いながらレジで会計をしている入江先生に視線を向けた。

「へえ、入江先生がこんなところで食事するのってなんだか意外だわ・・・それとも何か特別な日
なのかしら?」
私は、さも驚いたようにいいながら、レジの前からこちらを見ている入江直樹に頭を下げた。

「はい、実は今日は私と入江君の結婚記念日なんです!・・・だから、本当に特別なんですよ。こ
んな日じゃないとなかなか一緒に外食なんてしてくれないですから・・・」
琴子さんは少し口を尖らせて答えながらも、次に彼女の顔に浮かんだ笑顔は、この上ない幸せ
で輝いていた。

「まあ!結婚記念日なの?・・・それはおめでとうございます。じゃあ、この後は夜の街をデート
かしら?」
私は少し冷やかすように琴子さんに聞いた。
すると、琴子さんは小さな声で囁くように教えてくれた。
「これから観覧車に乗りに行くんです!・・・入江君は嫌そうですけどね・・・」

「そう、それは楽しみね。あっ、でも夜は冷えるから体を大事にね。今度会える時はもっとお腹も
大きくなってるわね」
私は、まだ膨らんではいない琴子さんのお腹に軽く手をあてて言った。

「はい、定期健診の時にカウンセリングルームに遊びに行きますね」
琴子さんは、大きくうなづきながら答えた。

「ええ、待ってるわ・・・」
「それじゃ、失礼します・・・」

琴子さんは軽く頭をさげると、レジの前で待っている入江先生に向かって弾むように小走りに駆
けていった。すると、入江先生が怒った顔で何か言っているように見えた。
大方、「走るな」とでも言っているのだろう・・・琴子さんが肩をすくめて何か答えた後、2人はしっ
かりと手をつないで出口の向こうに消えていった。

なんだか、見ているこちらも心が暖かくなるような光景だった。
ただあの2人が手を繋いで歩いて行っただけなのに・・・

―これは、また響子先輩に報告するネタが出来たわ・・・

私は、この場にいたかったと悔しがる響子先輩の顔を想像しながら、思わずほくそ笑んだ。



待ち人は、入江先生と琴子さんが店を出ていって10分程した頃にやっとが現れた。
「一条先生!お待たせしました〜今日提出のレポートが終わらなくて・・・ホントに遅れちゃって
すみません!」

「美咲ちゃん、お久しぶり!・・・いいのよ、気にしないで・・・」
ほんの少し前に琴子さんの立っていた同じ場所で遅れたことを一生懸命詫びている彼女を見て
私はなんとも言えない不思議な気持ちになりながら答えた。

たった今入江先生と琴子さんに会ったばかりだからか、彼女に関わったあのひと月程前の出来
事が頭の中を一瞬にして駆け巡って行った。
そして、あれからたったひと月しか経っていないのに、彼女は随分と大人びたように見えた。

私は、彼女がこのひと月余りの出来事を息もつかずに話し続けるのを、時折言葉をはさみなが
ら聞いていた。
ピザとパスタの並んだテーブルの向こう側には、普通の、本当に今どきの女子大生が笑っていた。

今の彼女を見る限り、あの時の恋の余韻はみじんも感じられない・・・
それがたとえ本当は心の中の悲しみを隠している姿であっても、すでに想いを吹っ切った姿で
あったとしても、私は今目の前で笑っている彼女が、今の彼女の等身大の姿なのだと素直に思
えた。

それでも最後の最後で、彼女は少し気まずそうに私に聞いた。
「あの・・・入江先生は元気ですか?・・・」

本当は、それが一番聞きたかったことなのかもしれないと私は思った。
だから、私は答えた・・・そう、あの輝くような琴子さんの笑顔としっかりと繋がれた2人の手を思い
出しながら・・・
「ええ、元気よ・・・」

―美咲ちゃんが恋したまま、琴子さんをとても大事にしている入江先生のままでね・・・

もちろん、それは言葉にはしなかった。
そして、それを彼女が知る必要もないのだと私は思っていた。

「そうですか・・・それなら良かった」

最後に彼女は笑顔を見せてそう言った。
その言い方には、すでに入江直樹という存在が思い出になっているのだと思わせるような清々し
い響きがあった。



―恋は、人を成長させるのね・・・

入江直樹然り、神谷美咲然り・・・入江琴子は?

―彼女の場合は、どうかしら?

私は、思わず吹き出しそうになった。
入江琴子の恋は、特別だ・・・それが彼女を成長させるかどうかではなく、彼女の中でゆるぎなく
変わらないことに意味がある。

じゃあ、私は?・・・

―私?・・・その前に、まず恋を見つけなきゃ!

彼女たちを思う内に、救いようのない自分の現状まで気付かされて思わず苦笑いが込み上げた。
それでも、輝くような入江琴子の笑顔と、悲しみを吹っ切った神谷美咲の清々しい笑顔が心に刻ま
れて、私はその日をとても幸せな気持ちで終えることが出来た。


そう・・・次にまた彼女たちに会える日を、とても待ち遠しいと思いながら・・・


                                         END


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