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 女神のくちづけ 〜直樹Version〜  <2>  

その日、ここ数日の間ずっと見守っていた心臓疾患の患者が、ようやく一般病棟へ移る
ことになり、オレはやっとICUから解放された。
そして、同じ患者に携わっていた数人の医師たち全員が、久しぶりに第3外科の医局に
集まって次の手術の計画を話し合っていると、不意に医局長の声が聞こえた。

「おお、実習生達が来た来た・・・」

今日だけはたまたま大学で講義を受けてから登院したという実習生達が、がやがやと入
って来て、そこにいた者全員が、医局の入り口に注目した。

医局長は、目を細めながら彼らに手招きすると、オレの隣に座っていた西垣医師に向か
って実習生達を紹介した。
オレはカルテから目を離さずに、西垣医師が挨拶をしているのを聞き流していたが、彼が
最後に言った言葉に思わず顔を上げた。

「おお、そうだ。入江2世って呼ばれてるのがいるって聞いたな・・この中の誰がそうなんだ?」
西垣医師が、一瞬オレを見てから、実習生達の顔を興味深げに見ている。

<ねえ、入江君は桐生君知ってるでしょう?>
オレの脳裏に、数日前の琴子との会話が蘇って、オレはつぶやくように「確か桐生って言
ったな・・・」と言いながら、上目遣いに実習生達へと視線を投げた。
すると、驚いたように顔を上げた実習生と目が合った。それは、数日前の早朝に出くわし
て、オレに何か言いたげだった実習生だと気が付いた。

―ふーん、こいつか・・・

「桐生は俺です」
奴は、仕方なさそうに返事をすると、愛想笑いのひとつもせずに西垣医師に顔を向けた。
「君が、何年後かの入江なのか?・・・頼もしいな。これで、この病院も安泰だな・・・」
西垣医師の言葉を聞きながら、オレは琴子が言った言葉を思い出して小さなため息をつ
いた。

<やっぱり自分のことはちゃんと自分として見て欲しいよね?>

―琴子の奴・・・どうしてお前の言葉って、そうやって真ん中をついて来るんだよ・・・

オレにしてみれば、今目の前にいる桐生という実習生が、これからどんな医者になるか
などということに興味はない。
しかし、琴子の言葉は、もしこれが逆の立場だったらどうかということをオレに考えさせ
た・・・オレならば、きっと誰かの2世などと呼ばれることには我慢ならないだろうというこ
とを・・・

「オレはオレで桐生は桐生ですよ・・・何年後かのオレだなんてありえない。オレと同じ
人間なんていませんからね・・・」
オレは、西垣医師に向かってそう言った。

「お前は、またそうやって冷めた物言いをする・・・」
西垣医師が、オレを横目でにらみながら言い返す。

「それに、今言ったことは桐生に対する侮辱ですよ、西垣先生。」
別に深い意味があったわけではない、それは売り言葉に買い言葉のように、すっと口
をついて出た言葉だった。
そしてオレは、また悪い癖が出たと思いながら、苦笑いを浮かべて口をつぐんだ。

ふと、桐生を見るとオレと西垣医師の会話を、不思議そうな表情を浮かべて聞いていた。
別に、桐生を庇ってやるつもりはない・・・ただ、オレにしてみれば、突然現れた実習生
をまるでオレの跡継ぎのようにいわれることに違和感を覚えたことと、琴子の気持ちを
汲んで言っただけのことだった。

「なんだよ、それは・・・お前の2世だと言われるってことは、名誉なことだと俺は思うけ
どな・・」
西垣医師は、どこか納得のいかない表情を浮かべながら、ひとりごとのようにつぶや
いた。

「さあ、本人はどう思っているのか・・・オレ、ICU見てきます」
オレは、この話題でさらに西垣医師に絡まれるのを嫌って、医局を出た。

しかしICUに行くといって出ては来たものの、今のところ用はない・・・
オレが、このあとどうしようかと思いながら廊下を歩いていると、不意に背後からオレを
呼ぶ声が聞こえた。

「入江先生!」

それが、桐生聡志の声だということは振り向かなくてもわかっていた。
ずっと何かを言いたげにオレを見ていた奴が、とうとう痺れを切らして追いかけてきたの
だと思い、オレはことさらゆっくりと振り返って、何もいわずに奴のことをじっと見つめた。

「俺・・・俺は、あんたに会うためにここへ来ました。」
桐生は、少し口ごもりながらもはっきりとそう言った。

―オレに会うことが目的?・・・

桐生の視線やその物言いは、決して友好的とは思えず、それでいてどこか的が外れて
いるように感じられる言葉に、オレはあえてカマをかけるように答えた。
「何のために?・・・」
オレは、この時口元に拳を当てながら、挑発するように含み笑いを浮かべながら桐生を
見た。
そう、それはもしオレが誰かに同じ態度を取られたら、一番腹が立つだろうと思えるやり
方で・・・
すると、みごとにオレの策略にかかった桐生は、それまでの冷静な態度を一変させて、
オレに食ってかかってきた。

「俺は、これまでずっと知りもしないあんたと比べられてきた・・・あんたは何で医者にな
ったんだ?せめて、あんたが別の道に進んでくれれば、俺はもっと楽でいられたのに・・・
だから、あんたがどんな医者なのかをここで確かめて、俺はあんたを越える医者になっ
てみせる」

桐生は、そう一気にまくし立てた後、それが自分でも思いがけず口をついて出た言葉だ
と言わんばかりに、はっと息を飲んで、戸惑いの表情を浮かべた。

―ふーん・・・つまり、志はないってことか・・・

オレは、軽い落胆を感じながら「好きにしな・・・」とひと言言い捨てると、呆然としている桐
生に背中を向けた。

<ずっと誰かの2世なんて呼ばれ続けてきて、きっと嫌な思いをしたんだろうなって思っ
たら、なんだか桐生君が可愛そうになってきちゃったの・・・>
オレは、あらためて琴子が桐生に対して感じたことは正しかったのだと思いながら、あて
もなく廊下を歩いていた。

桐生が、なぜ医学の道に足を踏み入れたのかはわからない・・・
しかし、奴の言葉には、オレを越えてやると言いながらも、決してそのために医学を学ん
できたのでないといったニュアンスが含まれていた。

いずれにせよ、桐生がオレの2世と言われ続けてきたことに、ずっと嫌悪感を感じてきた
のは確かだ。しかし、それを言うのであれば、オレにしてみても自分の2世などと呼ばれ
ている奴がこの世にいて、オレの知らないところで、そいつと比べられているなどというこ
とは迷惑な話だと思えた・・・

それなのに、奴は琴子の同情を引きやがった・・・

―ん?・・・結局はそれか・・・

オレは、自分の胸に渦巻く感情を、冷静に見つめながら少し自嘲気味に笑った。


それからオレは、担当患者の病室をいくつか回った。
そして、いい加減医局に戻ろうと、ナースステーションの前を通りかかった時に、琴子を
心配している桔梗幹に呼び止められた。

そう・・・それがまた新たな局面の始まりだとも知らずに・・・
 

                                         つづく


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