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 女神のくちづけ 〜直樹Version〜  <3>  

オレは、ラウンジの入り口に立って、しばらく二つの背中を交互に見つめていた。

ひとつは琴子の背中・・・
医局に戻ろうとして、ナースステーションの前で不意に桔梗に呼び止められ、琴子が師
長に絞られて落ち込んだままひとりで食事に行って戻らないと聞かされ、ここまで探しに
来た。
最初、ナースキャップを付けた琴子の後姿を見つけた時、ホッとしてすぐに近寄ろうとした
が、琴子の斜め前に座っている白衣姿の男の後姿が目に入って、思わず足を止めた。

もうひとつの背中は、桐生聡志・・・
オレと対峙したあと、いったいどうしていたのか、今頃遅い昼食をとっているようだった。

しかし、オレが足を止めたのは、ただ単に琴子と桐生聡志が近くに座っていたからという
理由だけではない。
オレは自分が立っている位置から見える光景に違和感を覚えていた。

そう・・・どちらも後姿だったということに・・・

ここから見る限り、琴子はすでに食事を終えているらしく、皿の上に箸が並べて置かれ
ているのが見える。
しかし、桐生はまだ箸を持ったまま、皿に盛られた料理にもほとんど手を付けていない
様に見えた。

つまり、桐生の方が、琴子より後からこのラウンジに入ってきたはずなのに、どうしてあ
えて琴子に背中を向けて座っているのか・・・
もし嫌いな相手なら、こんなにも広く閑散としたラウンジで、そんなにも近い席に座ること
はないだろう・・・嫌いでもないのに、背中を向けて座る理由など、オレからしてみればひ
とつしか考えられない。

―参ったな・・・

オレの頭の中には、すでにひとつの答えが浮かんでいた。
それは、オレ自身にも身に覚えのあること・・・


オレは、小さなため息をひとつついてから琴子に近づいた。
その時、琴子が桐生に向かって話している声が聞こえてきて、オレは再び足を止めた。

「・・・してたんだ・・・自分が心からやりたいと思うことには、人はどんな努力だってできる
んだよね」

そして、そんな琴子の言葉を制するように、「あんた、よくしゃべるな」という桐生の声が
聞こえた。

「き、桐生君?・・・怒っちゃった?・・・私また余計なこと言っちゃったかな・・・ごめんね・・・」
琴子が、桐生の態度に面食らったように慌てて謝っている。

オレは、こんな状況ながら、そのあまりに琴子らしい反応に、思わず笑いが込み上げた。
琴子は、おそらく誰よりも何よりも正しいことを言っているはずなのに、相手の反応が悪
ければすぐに自分が悪かったと思いこんでしまうところがある。

―オレは、そんな琴子が自分を責めている姿を見て、何度後悔しただろう・・・

そして今、そんなオレと同じように、琴子の反応に思わず感じた後悔を背中に滲ませてい
る奴がいる・・・
オレは、ずっと前を向いていた桐生が、琴子の言葉を受けて振り返ろうとしてる気配を感
じて、思わず一歩前へ踏み出した。

「おい、琴子!」
オレの呼びかけに、琴子が驚いて振り返る・・・そして同時に、桐生が椅子のずれる大き
な音をたてて振り向くのをオレは目の端に見ていた。

「入江君!どうしたの?」
琴子の声が1オクターブ高くなり、顔は一瞬にして満面の笑顔に変わった。
オレは、ほんの一瞬だけ桐生を見た。すると、奴はオレと目が合うと同時に、顔を真顔に
戻してうつむいた。

「おい、また何かやらかして師長に怒られたって?・・・桔梗が、お前がひどく落ち込んだ
まま飯を食いに行って戻ってこないっていうから、見に来てやったんだ」
オレは、座ったままの琴子の顔を覗き込みながら、そう言った。

「私のこと心配して来てくれたの?・・・」
そう言った琴子は、オレの小言を聞きながら、桐生がいつの間にかその場を去っていった
ことにすら気付いていないようだった。

そうさ・・・琴子はいつだって、こうやってオレだけを見ている。
自分が何気なく口にした言葉や思いが、相手にどれ程影響をあたえているかなんてこと
は、少しもわかっていない。
それなのに、桐生のあんな姿を見れば、オレの心はさざ波のように揺れる・・・
オレにだって、もういい加減この胸に渦巻く感情の正体はわかっている。

―それでも、やっぱり揺れるんだ・・・

「あのね、今桐生君と話してたんだけどね・・・あれ?桐生君、いつの間にいなくなっちゃ
ったんだろ・・・」
琴子が、食器の載ったトレーを持ち上げながら、あたりを見回している。

「随分前に出て行ったぞ・・・」
オレは、先に立って歩きながら答えた。

オレは医局に、琴子はナースステーションに戻るため並んで廊下を歩いていると、琴子
が言った。
「そういえばあの桐生君って、駅前のきりゅう総合病院の跡取り息子なんだって・・・だか
らお医者さんになることは、生まれたときから決まってたって言ってたよ・・・」

「ふーん・・・」

「なんだ、気のない返事ね・・・」
オレの反応に、琴子が口を尖らせてつぶやく。

―なるほど・・・

琴子の話を聞いて、謎が解けた気がしていた。

<せめて、あんたが別の道に進んでくれれば、俺はもっと楽でいられたのに・・・>
どこか医学を学んでいく熱意や志を感じられなかった奴の言葉に隠されたもの・・・
それは、オレが医学の世界と出会っていなかったら、知らず知らずのうちにパンダイの
次期社長と呼ばれていたかもしれない状況と似ているような気がした。
特別にやりたいこともなく、だからといって会社を継ぐことにもさほどの抵抗はなく、ただ
目の前に敷かれたレールの上を走っていくような人生・・・

―それではいけないことを、琴子によって気付かされた・・・

そして、そう思うのと同時に、オレの頭の中を閃光のように駆け抜けた思いがあった。
オレは、それを確かめるために、からかうようにして琴子にたずねた。
「そういえば、あの時・・・桐生の奴、随分とショックを受けたような顔してたな・・・お前、
何イジワルしたんだよ・・・」

「え〜イジワルなんてしてないもん・・・ただ、天才は何でもできるんだよって言っただけ
だもん・・・」

オレは、その答えを聞いて、琴子に気付かれないように天を仰いだ・・・

―まったく、お前って奴は・・・

程なく、ナースステーションの前に到着して、上機嫌の琴子と別れた後、オレは医局へ
向かう廊下をゆっくりと歩きながら考えていた。

オレが、琴子に声をかけた時に、ほんの一瞬見た桐生の顔が頭に浮かんだ。
すぐに真顔に戻しながらも、一瞬だけ見えた切なげな視線は、琴子に向けられていた。

もし・・・

桐生が、あの頃のオレと同じように自分の将来に対して混沌とした思いを持っていたら・・・
自分の進むべき道への漠然とした不安を抱いているとしたら・・・

<天才は何でもできるんだよ・・・>

琴子のこの無垢な言葉は、おそらく心に突き刺さる。
オレの2世と呼ばれていたことを、琴子に同情されたことで、すでに動揺した桐生は胸
に燻っていた思いをオレにぶつけてきた。
そして、ラウンジで琴子が言った言葉で、奴はきっと方向を見失う・・・

―まるで、オレと同じじゃないか・・・

そうなれば、琴子が知らず知らずに落としていく道しるべを拾いながら、きっと奴は・・・


きっと、奴は・・・琴子に恋をする。


「参ったな・・・」
オレは、今度は声に出してつぶやいた・・・

琴子の気持ちは十分にわかっている。だから、もう啓太の時のようなことは起こらない
と断言できる。
それでも、もし今思ったことが現実になった時、オレは冷静でいられるだろうか・・・

オレは、ざわつく気持ちを、無表情の下に隠して医局のドアを開けた。
部屋の中を見回しても、桐生はおろか他の実習生たちの姿も見えなかった。



しかし・・・そんなオレのやっかいな感情も、吹き飛んでしまうような出来事が起こる・・・

南部で大地震発生の一報が、病院にもたらされたのは、それからほんの数時間後の
ことだった。


                                              つづく





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