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 女神のくちづけ 〜直樹Version〜  <4>  

真夜中の病院・・・初めて自ら執刀した手術を無事に終え、白衣に着替えてICUへ向かう
途中、静まり返ったフロアでオレはふと立ち止まった。

今日の夕刻、南部で大地震が発生したという一報を受けてからの、怒涛のような時間を
思い返しながら、今はその動きを止めているエスカレーターを見下ろす柵に寄りかかっ
て何度も深いため息をついた。

ほとんどの医師が被災地へ派遣された病院に起こった緊急事態・・・
車3台を巻き込む大事故は、手薄になっている病院に容赦なく複数の重症患者を送り込
んできた。
まだ研修医のオレには、被災地へ派遣されてしまった西垣医師の許可なく治療行為を行
うことはできない決まりがある。
それでも、瀕死の患者を目の当たりにした時、オレは迷うことなく決断していた。

―全力を尽して、オレがこの患者を救う!

反対する琴子に激を飛ばして手術の準備をさせ、動揺する看護師や他の研修医達を落
ち着かせ、自分を奮い立たせた。
規則にしばられて、今目の前で苦しんでいる患者を見過ごすことなどオレには出来なか
った。
たとえこのことで医者としての資格を失ったとしても、その患者に手を尽さなかった自分
を後悔するよりはましだと思えた。

あの時、胸に湧き上がった熱い思いこそが、オレが医者になった意義であり、あの困難
を乗り越えるためにこれまでの努力があったのだとすら思いながら挑んだ手術だった。

それでも今、全てを終えて誰もがこの緊急事態を乗り越えた達成感に浸っている時にな
って、オレは体を震えさせるほどの恐怖と、地の底から湧きあがってくる様な緊張を感じ
ていた。
今さら、研修医が指導医の許可なしに手術を行ったことでの咎めなどに恐れを抱いてい
るわけではない。
ただ、人の命を救うということの崇高さと重圧・・・そして、それを乗り越えられた深い安堵
が、オレから生気を奪って何かに寄りかかっていなければ立ってもいられない有様だった・・・

そんな時に、オレを探して琴子が駆け寄ってきた。

「入江君?・・・患者さんの容態、安定したよ・・・」
「そうか・・・」
「うん、手術が成功して本当に良かった」
琴子がホッとしたようにつぶやき、嬉しそうな笑顔を浮かべてオレをみつめた。

琴子が、オレを賞賛する言葉を口にする・・・
オレの励ましがなかったら、きっと恐くなってあの手術から逃げ出していただろうと・・・

<誰にでもミスはある、オレの言うとおりにしていれば間違いはない・・・>
手術の最中に、緊張からミスを犯した琴子にオレが掛けた言葉が脳裏に蘇った。

「私、あれから全然怖くなくなったんだよ・・・」
そう言って、微笑んだ琴子の顔を見ながら、オレは不意に体中から力が抜けていくのを
感じていた。

琴子の素直な笑顔と何気ない言葉は、良くも悪くも、時にオレの中の本当の自分を呼び
起こす。
あの時、動揺する琴子を励ますことで、本当はオレ自信が冷静でいられたのだと気付い
た瞬間、寄りかかっていた柵を滑りながら、体が崩れ落ちていくのを止められなかった。

「どうしたの?・・・」
琴子が、突然床に座り込んだオレに寄り添いながら聞いた。

「オレは怖かったよ・・・」
堪えきれずに口をついて出た言葉・・・オレの肩に手を当てて「大丈夫?」と聞く琴子の声
も心なしか震えているように聞こえた。

「あんな重症患者、初めてだったからな・・・」
オレは、搬送されて来たときの患者の様子を思い浮かべて、顔をゆがめながら答えた。

「驚いた・・・」
琴子がつぶやく。
思わず琴子の顔を覗き込むと、その表情には今のオレの様子に戸惑いを隠せない気持
ちがありありと浮かんでいた。

「何に驚いたんだ?・・・」
オレは、ふと笑みを浮かべながらたずねた。

「入江君みたいなすごい人でも、怖いことなんてあるんだね・・・」
琴子の唇が思った通りの答えを返す・・・
この言葉は、琴子がオレに寄せる絶大なる信頼の裏返し。
そんな琴子の気持ちを裏切ることなく、今日の手術が無事に終ってよかった。
そして何よりも、オレのこの手で、ひとつの尊い命を救えたことに深い感慨を覚えていた。

「医者になって、良かったよ」
素直な気持ちが言葉になってこぼれ落ちる。

「うん、患者さんが助かって、本当に良かったね・・・」
琴子が、やっと安心したようにつぶやいた。

そっとオレの腕を掴んで寄り添った琴子の香りと、肩に伝わる琴子の鼓動がオレを振り
向かせる。
オレを見上げた琴子が、はにかんだ微笑みを浮かべながらオレの唇に短いキスをした。

それは、まるで今夜オレを取り巻いた全てのことにピリオドを打つような、優しいキス。
琴子だけが、オレに力を与え、オレを癒す。
たとえ、どれ程の感謝や労いの言葉を並べられても、この一瞬のキスに勝るものはない・・・

オレと琴子はしばらくの間、そこが病院のフロアだということも忘れて、互いの身を寄せ合
っていた。


病棟の見回りをするという琴子と別れて、ICUに戻ったオレに実習生のひとりが声を掛
けて来た。
「あの入江先生?桐生と会いませんでしたか?」

「桐生?・・・いや、会わなかったけど、どうかしたのか?」
振り向いたオレがよほど嫌悪感をあらわにした顔をしていたのか、その実習生はひるみ
ながら引きつった顔でオレを見ている。
桐生という名前を聞いてたとたん、今夜のことですっかり忘れていたラウンジでの光景が
不意に脳裏に蘇っていた。

「いえ、手術が終っても入江先生がなかなかここに来なかったので、桐生が探してくる
といって出て行ったまま戻ってこないんです」
実習生は、しどろもどろでそう言うと、「どこ行っちゃったんだろうな・・・」とつぶやきながら
自分の仕事に戻っていった。

―オレを探しに?・・・

オレは、担当の患者を一通り診たあと、そっとICUを抜け出した。
かすかな胸騒ぎを感じながら、薄暗い廊下を歩いていると、昼間は患者や見舞い客が
利用する待合室のベンチに、人影があるのを見つけた。

―桐生聡志?・・・

身じろぎもせず座っているその顔を、窓から差し込む月明かりが微かに照らして、その
表情を伺うことが出来る。
悲哀とも苦渋とも取れるその表情に、オレはそれ以上桐生に近づくことをやめて、きびす
を返した。

―桐生は、オレと琴子が一緒にいるところを見たのかもしれない・・・

その考えは、確信に近かった。

なぜ、オレはこんなにも桐生のことが気になるのか・・・
それは、ただ単にあいつが琴子を好きなのかも知れないというだけのことではないような
気がしていた。

―そう・・・あいつは確かにオレに似ているんだ。

だからこそ、桐生があの時、オレが琴子にしか見せない姿を見ていたのなら、琴子がオ
レにとってどんな存在なのかもあいつには理解できたはずだ。

オレは、ICUの扉に手を掛けながら、もしかしたら、もう一度あいつと対峙することになる
かもしれないと思い、今来た廊下を振り返った。


そして、その時オレの脳裏にはある考えが浮かんでいた。
もし・・・桐生が本当にオレと琴子が寄り添っているところを見たのだとしたら・・・

それはもう、桐生にとっても、琴子が運命を変える存在だったということに他ならない。
オレがそうだったように、桐生も琴子との出会いによって、進むべき道をみつけることに
なるのかもしれないと・・・

―それなら、オレはただ見ているしかないじゃないか!

オレは、どこか納得できない気持ちを抱えながら、それでもその考えを打消しはしなか
った。
なぜなら、その運命の持つ力を、一番身に沁みて知っているのがオレだから・・・

オレは、これからの全てを見守る覚悟を決めなくてはいけないかもしれないと思いなが
ら、ICUへと戻った。


偶然はどこにもなく、さだめられた必然が作り出す不思議をあらためて感じながら・・・


                                         つづく


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