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 女神のくちづけ 〜直樹Version〜  <5>  

「おい、入江。規則に意味がないなんて、軽々しく言うなよ・・・俺は、寿命が何年も縮まっ
たぜ・・・なんだか知らないけど、かみさんと師長に感謝するんだな、始末書だけで済んで
本当に良かったよ・・・ん?・・・入江?・・・おい、入江!!」

査問会議が終って、医局へ戻る途中、オレは前を歩く西垣医師からそっと離れると、オレ
を探す西垣医師の声を背中に聞きながら、屋上へ続く階段を上がっていった。
誰にも邪魔されないところで、少し気持ちを整理したかった。

途中、ポケットから携帯を出して、琴子にメールをする。 <始末書で済んだよ>
すると、すぐに返事が返って来た。 <今どこにいるの?>
オレも、すぐに返事を返す。 <心配するな>

しかし、間髪入れずにまた返事が来る。 
<そんなのムリだよ。心配で心配で、今すぐに入江君の顔を見ないと、また仕事でミスし
ちゃうよ!>

―あいつ、オレを脅してるつもりか?・・・

オレは、あたりに誰もいないのをいいことに声を立てて笑いながら、屋上の柵に寄りかかっ
て目を閉じた。

自分のしたことが間違っていたとは思わない、それでも病院という大きな組織の中の一人
として、何らかの責任は取らなければならないだろうと覚悟はしていた。
しかし、あの重症患者を前にして、規則などにしばられて目を背けるくらいなら、あの場で
首を切られてもオレは患者を助ける道を選んだだろう・・・

だからこそ、オレは査問会議の席で、結果よりも既存の決まりごとに固執する体制に無性
に腹が立って、院長や教授達を怒らせるような強気な発言を繰り返した。
本当なら、心から医者になってよかったと思うことが出来た昨夜の気持ちを思えば、素直に
謝る方が得策だったのかもしれない・・・でも、オレにはそれができなかった。
あの時、もし琴子や師長があらわれなかったら、オレは院長達を説得できたのだろうか。

オレは、会議室に飛び込んできた時の琴子の姿を思い浮かべた・・・なんとかオレを庇おう
とした、琴子の必死な顔が浮かんで胸が熱くなって目を開けた。
オレは、無意識に携帯を目の高さまで持ち上げると、待ち受け画面の琴子の顔を見つめた。
そして、もう一度琴子へのメール作成の画面を開くと、<屋上>とだけ打って送信した。


少し強めの風が、オレの白衣をひるがえしながら屋上を吹き抜けていく・・・
メールをして、ほんの数分で背後の扉が開く音が聞こえた。
オレは、背中を向けたまま、琴子の声を待っていた。

「入江君!」
駆け寄ってくる足音と一緒に、弾むような琴子の声が聞こえて、オレは振り返った。
しかし、満面の笑みを浮かべた琴子を見つめたとたん、オレは琴子の後ろにもう一人の人
影を見つけて目を向けた。

扉の前に桐生聡志が立っていた。

「何か用か?・・・」
オレは、いやが上にも昨夜の薄暗い待合室に座っていた奴の姿を思い出し、あからさまに
嫌悪感をあらわにした顔で声をかけた。

「あんたに、どうしても言いたいことがあって・・・」
そう言った桐生の思いつめた表情が、これから起こる何かをオレに予感させた。

オレは、琴子だけが気付かない張り詰めた空気の中で、”その時”を待った。
もし、オレ達の間にさだめられた必然が存在するのなら、それは今この時しかないと思えた。

そして、さりげなく残酷な琴子の言葉が、あっけなく”その時”を呼び寄せた・・・

「昨夜の入江君、ホントに立派だったんだよ・・・桐生君にも見せてあげたかったな・・・入
江君2世なんだからきっと勉強になったよ・・・ねっ!入江君!」
琴子が、オレと桐生の顔を交互に見ながら言った屈託のない言葉に、貼り付けたような笑
顔を浮かべながらみるみる桐生の表情が変わっていく。

「お、俺は・・・」
苦しげに言葉を発した桐生に、琴子が驚いて顔を向ける。

「俺は、入江先生のようにはなれない・・・本当は医者なんて・・・」

搾り出すような桐生の言葉に奴の迷いが手に取るようにわかる。
そしてオレは、琴子の横顔をじっと見つめながら心の中で叫んでいた。

―何も言うな!

”その時”を止めたかったわけじゃない・・・ただ、昨夜胸に刻んだ覚悟も、有望な医者の卵
の将来も、琴子の無垢な思いさえ、その瞬間だけは、目の前から消え去っていた。
かろうじてそれが声にならなかったのは、オレより先に琴子がきっぱりと桐生の言葉を否定
したからだった。
「そんなことない!」
琴子の思いのほか語気の強い言葉に、桐生が目を見開いて黙り込む・・・。
オレは、思わず苦笑いを浮かべながら琴子と桐生に背中を向けた。

ここから先は、琴子の独壇場だ・・・オレにだって止めることはできない。

「そんなことないよ桐生君!・・・桐生君にだって出来るよ!絶対に出来る!・・・だって、桐
生君も天才だもん!そりゃあ、心からお医者さんになりたいわけじゃないのかもしれないけ
ど、せっかくここまでお医者さんになる勉強してきて、もったいないよね・・・ねえ、桐生君?
天才の能力は、たくさんの困っている人のために使わなきゃいけないんだよ・・・桐生君な
らきっとどんなお医者さんにでもなれるよ!そうしたら、この世に天才のお医者さんが二人
になるんだね・・・入江君一人だけの時より二倍の患者さんが助かるんだよ・・・なんだかす
ごく素敵よね・・・」

琴子の言葉は、心地よい音楽を聴いているのようにオレの耳に流れ込んでくる。
その言葉の懐かしい響きは、学生だった頃の自分を思い出させ、あのファミレスのテーブ
ルでオレに医学の道へ進むきっかけをくれた時の琴子を蘇らせた。

―天才の医者が二人になるか・・・

あまりにも琴子らしい発想と、あの頃も今も変わらない琴子の純粋な気持ちは、今目の前
にいる、もう一人の天才の心も大きく揺さぶっているようだった。

誰が何をしていようと、お構いなしだったのに、琴子の行動だけは気になった。
誰が何を言っても聞く耳さえ持たなかったのに、琴子の言葉だけは不思議と耳に残った。
その理由は、簡単だ・・・「好きだったから」

そして、おそらく桐生も、その単純明快な理由の元に琴子の言葉を聞いて迷いを解こうとし
ている。

―気に入らないな・・・

オレは心の中でつぶやいた・・・

今、琴子が言った言葉が、もし桐生の背中を押したのだとしたら、いつか桐生が自分が医
師になった原点を思い出すときには、必ず今日の琴子の言葉と姿を思い出すのだろう。

・・・オレのように。

―お前の言葉で目覚めるのは、オレだけでいいじゃないか・・・

琴子から初めて桐生のことを聞かされた夜に思ったことが再び脳裏に蘇る。
あの時感じた予感は、本当に当たっていたのだとつくづく感じる。


そしてオレは、目の前の琴子に曖昧な微笑みを返しながら、あらためて琴子の与える力
の大きさをかみしめていた・・・


                                        つづく


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