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 女神のくちづけ 〜直樹Version〜  <Final>  

「やっぱり、俺はあんたの2世なんてまっぴらだ。だから、絶対にあんたを越えてみせる」
屋上のドアに手をかけたオレを追いかけてきた桐生の言葉・・・

「やれるもんならやってみな・・・」
オレは、思わずドアのノブをギュッと握りしめながら振り向かずに答えると、そのまま桐生
を残して屋上をあとにした。

巡回中だったからと唐突に琴子が去ってしまい、2人きりにされた屋上で展開した出来事
を思い起こしながら、オレはゆっくりと階段を降りていった。

<この世に天才のお医者さんが二人になるんだね・・・入江君一人だけの時より二倍の
患者さんが助かるんだよ・・・なんだかすごく素敵よね・・・>
琴子の言葉は、桐生の迷う心を貫いた。
そんな桐生の姿を、オレは不思議な感慨を持って見つめていた。
桐生の顔が、驚きから憧憬とも尊敬とも取れる表情へと変化していく様を見つめながら、
オレは、まるで過去に戻って、自分が琴子の言葉によって目覚めた瞬間を見ているような
錯覚に陥っていた。

桐生はあの琴子の言葉で、完全に自分の進むべき道とその意味を見つけた。
琴子の言葉によって・・・琴子の言葉だから・・・それが気に入らなかった。

不意に、金之助の顔が浮かんだ。

―わかってるよ・・・こういうのを嫉妬っていうんだろ?

オレは、ニヤついた金之助の顔を頭から追い払いながら、心の中でつぶやいた。

そうさ、わかってる。
そして、あの桐生はそんなオレの気持ちを見抜いて、挑発するように言った。
<ははーん、つまり、あんたが医者になった動機も彼女の言葉だったってわけか?・・・>

人間とは、本当のことを言われた時ほど腹を立てるもの・・・
その桐生の言葉は、まさに図星だったという他ない。

琴子が関わらなければ、おそらく名前すら覚えることのなかった相手、琴子から聞かされ
なければ、知る必要さえなかった桐生の素性・・・そして、琴子のことを桐生が憎からず思
わなければ、乱されることのなかったこのやっかいな感情・・・

そんな思いが、奴の言葉で一気に噴き出した。
<お前が琴子の言葉で医学に対して本気になったのなら、きっと琴子も喜ぶだろう・・・
でも・・・許してやるのはそこまでだ・・・>

あの時奴に放った言葉は、オレの人生の中で、理性で抑えられたかった数少ない言葉の
ひとつになるだろう。

―オレとしたことが、ムキになりすぎたかな・・・

オレは、思わず苦笑すると、階段の踊り場から屋上のドアを見上げた。



あれから数日・・・
いよいよ桐生たち実習生が、この病院での実習を終える日がやって来た。

あの日から、桐生がどうやって琴子の言葉を消化し、自分の気持ちに決着をつけたのか、
そんなことはオレには興味はない。
しかし、あれから今日までの間、奴はあきらかにそれまでとは違った表情を見せ、時に、
オレをからかうように、琴子の隣にいることもあった。

そして、今オレはあの日と同じ屋上へ続く階段を上がっている。
後ろからは、何も知らずに嬉しそうについてくる琴子の足音が聞こえている。

つい今しがた、桐生は医局にいたオレを捕まえて自分の想いを語った。

大学へは戻らずにアメリカへ行くと言い、もう一度医学を学びなおして、優秀な医師にな
ると・・・
桐生は、結局最後まで琴子のことはひと言も口にせず、オレのことを先輩と呼び、大切な
ことに気付かせてくれたことに感謝していると言った。

そして・・・最後に桐生が言った言葉が、今、こうしてオレを突き動かしている。

<俺、どうせ天才に生まれるなら、あんたに生まれたかったよ・・・>

それは、全てを受け入れてそれまでの殻を脱ぎ捨てた桐生の、わずかに残った過去への
告白・・・だから、オレは何かしてやらずにはいられなかった。
その微かな過去をも捨て去るきっかけを与えてやることが、オレが桐生にしてやれるただ
ひとつのことのように思えてならなかった。

全てを断ち切って、入江2世ではなく桐生自身の未来を生きていくために・・・

「琴子?・・・桐生たち、今日で実習が終わりだって知ってたか?」
オレは、階段を上がりながら琴子にたずねた。

「うん、知っているよ・・・だからほとんどの実習生の人たちには挨拶をしたんだけど、なぜか
桐生君だけには会えなかったの・・・あちこちの先生方への挨拶とか最後の引継ぎとか言っ
て、いつも医局でも病棟でもすれ違いばかりだったみたい・・・本当はちゃんとさよならを言い
たかったんだけどね・・・」
琴子は、規則正しいリズムで階段を上りながら、残念そうに答えた。

「ねえ、それよりもどうして屋上に行くの?・・・何があるの?」
琴子が不思議そうに聞く。

「行けばわかるよ・・・」
オレは、前を見たまま短く答えた。


屋上に続くドアを開けると、暮れかかった空が遮るもののない景色の中で、鮮やかな夕焼
けに染まっていた。

オレは、屋上の柵に近づきながら腕時計を見た・・・PM5:20。
今日実習生達が、合言葉のように言っていた言葉が蘇る。
「打ち上げ、5:30に正門の前に集合だぞ」

オレは、正門が見下ろせる柵に近づきながら、琴子に言った。
「桐生・・・大学に戻らずにアメリカへ行くらしいぞ・・・」

「えっ?・・・」
琴子が絶句する。
そして、しばらくオレの顔をマジマジと見ていた琴子がおもむろに言った。
「それって、もしかしたらお医者さんを辞めちゃうってこと?・・・」

「その反対さ・・・優秀な医者になるために、アメリカの大学へ行くそうだ。」
オレは、いつになく真剣な顔で聞き返す琴子に、微笑みながら答えた。

「そ、そう・・・それなら、よかった。それに、アメリカとかへ行った方が、入江君2世なんて
言われずに済むもんね・・・」
琴子がほっとしたように小さなため息をついて、茜に染まる空を眩しげに見上げた。

「ね、ねえ、入江君?・・・もしかしてそれを言うために屋上へ来たの?・・・なんか他にあ
るんだよね?・・・」
琴子が、いぶかしげにオレの顔を見たとき、下の正門のあたりからざわざわと人のあつ
まる気配がしてきて、オレはそっと柵の隙間からその様子を見下ろした。

―桐生聡志・・・オレからの餞別だ・・・

「おい、琴子。下を見てみろよ・・・あいつに、ちゃんとさよならしたかったんだろ?」
オレは、琴子の腕を引いて柵の前に立たせると、数歩下がって様子を見ていた。

「あっ、桐生君がいる。なんだ〜そういうことだったの?さすが入江君、何でもお見通しな
んだね・・・」
琴子が感心したように、オレに笑顔を向ける。
そして、柵から身を乗り出すようにして、桐生を呼んだ琴子の声は、ぎりぎりのところで奴
を振り返らせた。

「桐生くーん!アメリカに行っちゃうんだってー?・・・がんばってね〜それで、きっと素敵
なドクターになって帰って来てね〜!!」
琴子の大きな声は、桐生のみならず正門の前に集まっていた全ての実習生達の注目の
的になった。
そして、オレが琴子の隣に並んで下を見下ろした時、桐生が一歩前へ出て、オレ達に向か
って力一杯手を振っているのが見えた。

「ねえ、あんな桐生君見るの初めてだね・・・」
琴子が、小声でオレに言う。

オレは、琴子に微笑みだけを返すと、遠ざかっていく実習生達の背中をしばらく眺めて
いた。

「はあ、良かった。私、桐生君にあれこれ余計なこと言っちゃったかなって思ってたから
最後にちゃんとお別れが言えて本当に良かった・・・入江君、ありがとうね」
琴子が、柵から振り返るとオレを見上げて微笑んだ。

<俺、どうせ天才に生まれるなら、あんたに生まれたかったよ・・・>

オレは、琴子の笑顔を見下ろしながら、不意に込み上げてきた感情に思わず琴子を抱き
しめた。

「ど、どうしたの?入江君?・・・ねえ、入江君?」
琴子が戸惑った声で、オレを呼ぶ。

オレは、力一杯琴子を抱きしめながら、つぶやいた。
「オレは、オレに生まれてきて良かったよ・・・」

「えっ?・・・どういう意味?」

「いいから、少しじっとしてろよ・・・」

「えっ?えっ?・・・ねえ、入江君ってば・・・」

そう・・・最後に桐生聡志は、オレ達にむかって懸命に手を振りながら笑っていた。
それは、最後に残った未練さえも払拭して、全てを吹っ切った笑顔に見えた。

―これでよかったんだ・・・

日の暮れた屋上に、気の早い月が光を落とし、オレと琴子を照らして、ひとつの長い影を
作っている。
オレだけでは飽き足らず、もう一人の天才の運命をも変えた張本人は、オレの腕の中で、
やっと力を抜いて大人しくなった。


やがて、二人の天才医師が、たくさんの人の命を救う。
そんな未来の最初の一頁を、その笑顔が飾っているということにも気付かずに・・・


                                             END


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