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 私の愛する者たち・・・ 〜天才の弱点・外伝〜  <Final>  

それは、一睡もできなかった明け方のこと・・・
部屋のドアがノックされて、携帯電話を持った裕樹が入ってきた。

「琴子が目を覚ましたって、今お兄ちゃんからメールが来たよ・・・まだ意識が戻っただけで話
しはしてないみたいだけど、とりあえず安心してってさ・・・」
裕樹は、携帯の画面を私とパパに見せながら、ほっとしたような笑顔を見せた。

パパが私の肩を抱いて、そっと腕を擦ってくれた。
私は、両手で顔を覆って込み上げてくる嗚咽を堪えることなく泣きつづけた。

―琴子ちゃん、私の可愛い琴子ちゃん気がついたのね・・・ホントに本当に良かった。

私は、琴子ちゃんの入院に必要なものを準備しながら、2人の部屋の幸せそうな結婚写真を
見つめるだけで溢れてくる涙を何度もぬぐった。

―こんなに、こんなにも心配なのに・・・

「付き添いなんていらない。迷惑だから帰ってくれ!」

昨夜、お兄ちゃんに言われた言葉が蘇る。
元々、歯に衣着せぬ物言いで、相手を圧倒するところはあるけれど、少なくとも私に対して、
あんな口のきき方をする子ではなかった。

―なによ、偉そうに!

私は、琴子ちゃんの一大事だというのに、しっかりと白衣を着こんで、あくまでも医者然とした
態度を崩そうとしなかったお兄ちゃんに、自分の息子ながら初めての不信感を抱きながら家
に戻った。
なんだかんだと言いながらも、お兄ちゃんにとって琴子ちゃんは一番大切な人だと思っていた
のに、少しも取り乱したところも見せずに最後まで冷静だったお兄ちゃんは、本当に私の息子
の直樹なのかしら・・・



「ママ、まだ早すぎるんじゃないか?・・・」
「そうだよ、またお兄ちゃんに怒られるよ・・・」

私は、パパや裕樹の心配する言葉にも耳を傾けることなくひとり病院へ向かった。
ただ、ただ居てもたっても居られなかった・・・

―だって、あたりまえでしょう?・・・琴子ちゃんが大けがをしたのよ!

私は、外来の受付に並ぶ患者さんたちの列を横目で見ながら、総合案内と書かれた受付に
向かった。
まだ面会時間には早すぎる時間・・・まずはお兄ちゃんに取り次いでもらおうと思い、外科の
医局の場所を聞いてエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターのドアが開いて、一歩足を踏み入れたフロアは、思ったよりも静まり返っていて、
ナースステーションを覗き込んでも、みんな出払っているのかお兄ちゃんの事を聞けるような
人影は見えなかった。

私は、医局を探して廊下を歩いて行った。すると、通り過ぎようとしたドアが不意に開いて、中
から出てきた女性医師がカルテを抱えて私が来た方向へ廊下を歩いて行った。
私は、一瞬その医師に声を掛けようかと振り向いたが、急ぎ足の後ろ姿に結局そのまま先へ
と歩きはじめた。ところが、あたりを見回しながら歩いている私の背後から不意に声が掛った。
「あの・・・確か、入江先生のお母様ですよね?・・・」

「えっ?・・・」
驚いて振り向くと、目の前に先程の女性医師が微笑みながら立っていた。
「え、ええ、そうですけど・・・あなたは?」

「私は、入江先生の同僚で一条と言います。入江先生をお探しでしたら、ここにはいませんよ」

「あの・・・じゃあ、どこに?」
私の問いかけに、一条と名乗ったその女性医師は、はっとするような親しげな微笑みを浮か
べながら答えた。
「琴子さんに付いて、ずっとICUにいます」

「えっ?・・・琴子ちゃんのところに?」
私は、驚いて聞き返した。

「そんなに驚かれて、意外でしたか?・・・」
一条医師は、なぜか楽しげな口調で私に尋ねた。

「い、いえ、おにい・・・いえ、直樹は医者ですから、当たり前ですよね・・・」
私は、なぜか言葉に詰まりながら曖昧な微笑みを返した。

「いいえ、違いますよ・・・入江先生は、今朝医局長に3日間の休暇届けを出しました・・・だか
らたぶん・・・今は琴子さんの夫として、彼女のそばにいるんだと思いますけど」
一条医師は、背の高い体を少しかがめるようにして私の顔を覗き込むと、真っ直ぐな視線を
向けて答えた。

「えっ?・・・夫として?」
私は、一条医師が”夫”という言葉に微かに力を込めて言ったように感じて思わず聞き返した。
しかし、一条医師はそれには答えず、やはり親しげな笑みを浮かべたまま携帯電話を取り出
しながら言った。
「どうぞお母様もICUに行ってください。私がご案内したいんですけど、これから仕事がありま
すので、今誰かに案内させますね・・・ICUには私から連絡しておきますのでご安心ください」
一条医師は、携帯電話を見せながらナースステーションの奥に入っていくと、ナースをひとり
連れて来て私を託した。

―なんだか、不思議な人・・・

私は、私に向ってひとつ会釈をして颯爽と去っていく一条医師の背中を見送りながら心の中
でつぶやいた。

私は、一緒に歩きだしたナースに尋ねた。
「今の女医さんは、何の先生?」

「はい、一条先生は心理カウンセラーです・・・」

―心理カウンセラー?・・・なるほどね・・・

初対面とはいえ、どうやら私を知っているらしい彼女のあの親しげでいてこちらの気持ちを見
抜いているような視線の意味がその時やっとわかった気がしていた。



ICUと白抜きされたガラスの自動ドアを入ると、思ったよりもたくさんのドクターやナースがせ
わしなく行き来し、漂う空気さえドアの外とは違い緊迫しているように感じられた。
計器の電子音と器具の触れ合う音が耳の中で混ざり合って、言い知れぬ不安が胸こみ上げ
て来る・・・

取り次いでくれたナースが、琴子ちゃんの病室を指さして教えてくれた。
ガラスでぐるりと囲んだような病室に、今はブラインドが下りて中の様子は伺い知れなかった。
私は付き添ってくれたナースと、ICUのナースにお礼を言って病室へ向かった。

私は、スライド式のドアをノックするとそっとドアを引いた。
ベッドひとつと、ほんの少しのスペースしかない狭い部屋を覗き込むと、そこには私の想像を
遥かに越えた痛々しい姿で横たわる琴子ちゃんが眠っていた。
私は、込み上げてくる嗚咽をなんとか飲み込み、涙をぬぐった・・・

しかし、その時の私を一番驚かせたのはお兄ちゃんだった・・・

ドアが開いて私の姿を見つけたとたんに、昨夜のように怒鳴りながら追い返されるのではな
いかと思って身構えていた私は、目の前のお兄ちゃんの姿に拍子ぬけしながら部屋の中に
入って行った。

お兄ちゃんは、ベッドの横の椅子に腰かけた格好でベッドの脇に頭をあずけて眠っていた。
私は、荷物を置こうとして見回した部屋の隅に毛布があるのを見つけて、お兄ちゃんの背中
にそっとかけてやった。
お兄ちゃんの手が、点滴の管のついた琴子ちゃんの手をしっかりと握っていた。

―そうよ・・・お兄ちゃんは、何より琴子ちゃんが大事でしょう?

2人の繋がれた手を見ていると再び涙が込み上げた。
私は、隅の椅子に腰かけるとしばらく2人の姿を見つめていた。

「こ、琴子・・・」

不意に、お兄ちゃんの声がした。
見ると、ベッドに乗せていた頭を勢いよくあげてお兄ちゃんは目を覚まし、腰を浮かして琴子ち
ゃんの顔を覗き込んだ。
ベッドの傍らに置かれた機械の画面を覗き込み、琴子ちゃんの脈をとり、ほっとした顔をして
椅子に腰かけた時、やっと私に気づいて大きく目を見開いた。

「オフクロ・・・いつから来てたんだ?」
「ついさっきよ・・・朝裕樹から琴子ちゃんの意識が戻ったって聞いていてもたってもいられな
くて・・・今日は昨日みたいに追い帰そうったって簡単には帰りませんからね!」
私は、無表情に私を見ているお兄ちゃんを牽制するつもりで、少し勢い込んで言った。
しかし、お兄ちゃんは私のそんな剣幕には一向にひるみもせず、ただあきれたように鼻で笑う
と眠る琴子ちゃんに視線を移して愛おしげにその髪を撫で始めた。

「琴子ちゃん、意識は戻ったんでしょう?・・・それで、どうなの?本当に大丈夫なの?・・・」
私は、恐る恐るお兄ちゃんに聞いた。

「午後にもう一度検査してそれではっきりする。でも、数値も安定してるし意識もしっかりしてる
からまず大丈夫だと思うよ」
お兄ちゃんの口から洩れる言葉に、私は心から安堵のため息を吐き出した。

私は、不思議に思っていた・・・
今、目の前にいるお兄ちゃんからは昨夜の取りつく島のない冷徹な医師としての雰囲気は微
塵も感じられなかった。
今穏やかな顔をして、眠りつづける琴子ちゃんを見つめているお兄ちゃんを見ていると、昨夜
の横暴な物言いを責める気持ちさえなくなって来る・・・
そして、私の望んでいた2人の姿がそこにあるような気持ちになって来る・・・

「お兄ちゃん?・・・3日間の休暇を取ったって聞いたけど本当?」
私は、それでも何か確かめたくて、ふと一条医師に聞いたことを尋ねてみた。
すると、お兄ちゃんは少し驚いた顔をして私を見ると言った。
「なんでそんなこと知ってるんだ?」

「ここへ来る前に、外科の医局を探していて一条っていう女の先生に会ったのよ・・・彼女が
親切にここへ来られるように手配してくれたんだけど、その時に聞いたの」
私の返答に、お兄ちゃんは「そうか」と一言言ったきり、すぐにまた琴子ちゃんの顔を視線を戻
してしまった。

「ねえ、お兄ちゃん?・・・休暇を取ったのは琴子ちゃんの看病に専念するためよね?」
私は、いつもそうだけど決して自分の気持ちを言葉にしないお兄ちゃんに、今回ばかりははっ
きり答えさせたいと思って尋ねた。
すると、呆気ないほど簡単にお兄ちゃんが答えた。
「そうだよ」

「そうよね、そうでなくっちゃ。こんな姿の琴子ちゃんを見ていたら仕事なんてしてられないわ
よね」
私は、驚きながらも半信半疑な気持ちでさらに聞いた。

「そうだよ」

―えっ?・・・お兄ちゃん、いったいどうしたの?

「心配で心配で、片時も離れていたくないわよね・・・」
私はさらに食い下がってみる。

「ああ、そうだよ」

「お、お兄ちゃん?・・・本当にそう思ってるの?」
私は、とうとう身を乗り出しながら言うと、お兄ちゃんの顔を覗き込んだ。

「思ってるよ・・・だから、今ここにいるんだろ!」
お兄ちゃんは、私の顔を睨みつけるとうんざりした顔で答えた。

「いったい何があったの?・・・まるでお兄ちゃんじゃないみたい・・・」
私は、本当に信じられない気持でつぶやいた。
その時、ふと一条医師が”夫として”と言った言葉の意味がわかった気がした。
たとえ白衣は着ていても、今ここにいるお兄ちゃんは、”入江先生”ではないということだった。

「何にもねえよ・・・あんまりうるさくすると昨日みたいに帰ってもらうぞ!」
とうとう、お兄ちゃんの我慢も限界に達したらしい・・・

あまりに嬉しくて、少しいい気になりすぎた私を、お兄ちゃんが一喝した瞬間、琴子ちゃんの
首が左右に揺れてゆっくりとその目が開いた。

「琴子!」「琴子ちゃん!」
お兄ちゃんが、琴子ちゃんの顔を覗き込みながら呼ぶ。すると、琴子ちゃんは微かに笑顔を
見せてお兄ちゃんをしっかりと見つめ返した。
琴子ちゃんの唇が動き、何か言おうとしているのを見てお兄ちゃんが酸素マスクを外す。
お兄ちゃんが琴子ちゃんの口元に耳を寄せる・・・そしてその震える唇が囁いた言葉は、部屋
の張りつめた空気を伝わって私の耳にも届いた。

「入江君・・・ごめんね・・・」

お兄ちゃんは、琴子ちゃんの顔を真上から見下ろして首を横に振ると、微笑みながらその額
にそっとくちづけた。

「オレがずっとそばにいるから安心しろ・・・」
お兄ちゃんの言葉に琴子ちゃんが頷き、私はその姿にこらえ切れずに涙を流した。

「琴子?・・・ほらオフクロも来てるぞ・・・」
お兄ちゃんが場所をあけて、私を琴子ちゃんの前に導いた。

「琴子ちゃん!!本当に無事でよかった。ママはもう心配で心配で・・・」



・・・数十分後、私は病院を後にしていた。

結局、あまりに泣いてうるさい私は、またお兄ちゃんの逆鱗に触れ帰宅を余儀なくされた。
それでも、昨夜のような憤りはまったくなく、休暇の明けたお兄ちゃんから琴子ちゃんの看病
をバトンタッチするまで、せめて美味しいものでも作って来ようと私は素直に病室を後にした。

病室を出る時、お兄ちゃんが私を呼び止めて言った言葉・・・
「心配かけて悪かった・・・もう大丈夫だから・・・」

その言葉の意味するところは、決して琴子ちゃんの怪我のことだけでなく、お兄ちゃん自身の
気持ちのことも含まれているように私には思えた。
昨夜、意識の戻らない琴子ちゃんの傍らで、お兄ちゃんの心に何が起こったのか・・・
でも、私は私の問いかけにすべて「そうだよ」と答えたお兄ちゃんを信じたいと思っていた。

琴子ちゃんの愛情が、お兄ちゃんの心を育ててくれた・・・私はそう思っている。
だって、琴子ちゃんを愛してお兄ちゃんは本当に変わったから・・・

―それにしても、お兄ちゃんが琴子ちゃんのおでこにキスした場面は感動的だったわ・・・

今度お見舞いに行く時は、お兄ちゃんの着替えと琴子ちゃんの大好物とカメラを絶対忘れな
いようにと、私は胸に書き留めた。


「琴子ちゃん、早く元気になってね・・・お兄ちゃんがあんなに心配してるんだから・・・」

私は、頬を撫でていく風に想いを託すように声に出してつぶやいた。
まだ日も高い時刻・・・泣き過ぎた目にはやけに眩しい空を見上げながら・・・



                                         END


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