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 天才の弱点 <2>  心理カウンセラー:一条紗江子

その日、空は雲ひとつない青空が広がり、誰もが思わず外へ出てみたくなるような穏や
かな春の日だった。

私は、病院内のラウンジで昼食を済ませ、自分の部屋へ戻るため足早に廊下を歩いて
いた。

「一条先生!」
ちょうど小児病棟のナースステーションの前を通り過ぎようとした時、ふいに誰かに呼び
止められた。振り向くと、入江琴子が笑顔で私に手招きをしている。

「入江さん、何?・・・私急いでるのよ。そう、それこそこれからあなたの旦那さまにカウン
セリングの報告をしなくちゃならないの」
私は、ナースステーションの壁に掛けられた時計を見ながら答えた。
入江直樹との約束は午後1時・・・あと5分もない。

「わあ、それはごめんなさい・・・510号室の大ちゃんのことなんですけど、今日はとても
お天気が良くていい日なので2時頃から元気な子供達だけを集めて、少し日向ぼっこを
しようってことになってるんですけど、大ちゃんも外に出して大丈夫でしょうか?」
入江琴子は、上目遣いに私を見ながら返事を待っている。

「大ちゃんか・・・」
私はしばし考え込んだ。

入江琴子が言ってる患者は、二週間ほど前に交通事故で運ばれてきた5歳の少年だ。
怪我は、足の骨折と全身のあちこちに軽い打撲がある程度だったが、事故で味わった
恐怖を少しでも和らげるために私が何度かカウンセリングを行っていた。

「大ちゃん自身は、外に出たがっているの?」
私が、確認のために聞くと入江琴子は「はい」と答えた。

「そう・・・それなら、大丈夫だと思うわ。もう数日で退院でしょう?少し外の音にも慣れて
いた方がいいと思うし・・・2時からって言ったわよね?・・・入江先生との打ち合わせが終
ったら、私も見に行くわ」
私は、何度も時計を見上げながら答えた。

「はい、わかりました。お忙しいのに呼び止めちゃってすみません・・・一条先生、入江君
と一緒に仕事できていいですね〜!最近、病棟が離れちゃってあんまり入江君の白衣
姿見てなくて・・・あっ、ごめんなさい。入江君によろしく!」
入江琴子は、ぺこりと頭を下げると背中を向けた。

―あれが、入江直樹の奥さんか・・・

私は、弾むように510号室へと向かう入江琴子の後姿を、苦笑しながら見送った。
看護士の鴨狩啓太が、彼女が入江直樹の弱点だと言った言葉が思い出された。
しかし、どう見ても入江直樹にとって、彼女がそれ程の影響力を持っているようには思
えなかった。


約束の時間に5分ほど遅れて、私が部屋に戻ると入江直樹は、カウンセリング用のソ
ファに腰を下ろして待っていた。
私は、遅れたことを謝ると、今朝行われたカウンセリングについて彼に説明し、今後の
治療について綿密に打ち合わせをした。
そして、次のカウンセリングの予定を決めて、一通りの話し合いは終った。

私は、彼がカルテや書類をまとめている隙に、部屋の隅に置かれたポットでコーヒーを
入れて彼の前に差し出した。
「お疲れ様です。コーヒーくらい飲んでいってください。私もじきに外へ出ている小児病
棟の子たちの様子を見に行かなくてはならないので、長くお引止めはしませんから・・・」

最初は面食らった顔をしていた入江直樹も素直に「いただきます」と言って、コーヒーカ
ップを口に運んだ。

「そういえば、さっきここに戻ってくるのが遅れたのは、あなたの奥さんに呼び止められ
たからなんですよ・・・事故で入院してる男の子ために一生懸命みたいですね・・・入江
君によろしく!って言ってたわ。面白い奥さんね」
私は、少しうつむき加減にコーヒーを飲んでいる入江直樹をこっそりと観察しながら言
った・・・妻の話を振られて彼がどんな反応をするか見てみたかった。
すると、彼は意外にもふっと口元だけを動かして微笑んだ。
そして私がその顔にはっと息を飲んだ瞬間に彼が顔を上げた。

「一条先生は、オレをカウンセリングしたいんですか?」
彼は、真っ直ぐに私の目を見て言った・・・私は一瞬その目に射すくめられたようになって
何も言えなくなった。
しかし、すぐに我に返ると同じように彼を見つめて微笑んで見せた。
私にも心理カウンセラーとしてのプライドがある・・・人のペースに飲まれることは何より嫌
いだった。

「そんなつもりはありませんよ・・・気に触ることを言ったのならごめんなさい。あなたには
小手先の技は通用しないみたいだから、率直にいいますけど、正直入江先生の深層心理
にとても興味があるわ。ただ、それは心理カウンセラーとしての興味の範囲ですけど・・・」
私は、あえて恋愛感情などがないことを含めた言い方をした。

「オレは、別に他の誰とも変わらないと思いますがね・・・」
彼は、首をかしげながら答えた。

「その内、機会があったら試しにカウンセリングさせてください・・・その鉄壁の仮面の下を
見て見たいわ」
私は、努めて軽い調子で言うと笑って見せた。

「鉄壁の仮面ってなんですか?人をロボットかサイボーグのようにいうんですね」
彼も、少し打ち解けたようにジョークを言って笑った。

「あら、2時過ぎちゃったわ・・・大ちゃんの様子を見に行かなくちゃ」
私は、思いのほか時間が過ぎていたことに驚いて立ち上がった。

「それじゃ、オレもこれで失礼します」
彼も私につられて立ち上がった。


その時だった。


彼のポケットの中で、携帯電話が振動している音が聞こえてきた。
それは私も持っている医師への連絡用のPHSだった。

そして、彼がポケットから電話を取り出し、まさに着信ボタンを押そうとした瞬間に、部屋
のドアが激しく開いて桔梗幹が飛び込んできた。

「桔梗君!どうしたの?」
驚く私のことなど無視して部屋の中を見回した桔梗幹は、ソファの前で電話に出ようとし
ている入江直樹を見つけて駆け寄った。

「いた!入江先生!琴子が大変なの!」
桔梗幹は、そう叫ぶと入江直樹の両腕を掴んで激しく揺さぶった。
すると、入江直樹は手に持った携帯電話を振動させたまま、桔梗幹の顔を凝視している。

「琴子が・・・琴子が・・・子供を助けようとして階段から転落したのよ!今、救急の初療室
に運んで西垣先生が処置しているわ・・・とにかく、急いで早く!」

その時、まるでスローモーションのように、入江直樹の手から携帯電話が床に落ちた・・・
そして次の瞬間、入江直樹は、桔梗幹を押しのけるようにして部屋を飛び出して行った。

私は、つい今まで彼が立っていた場所まで行くと、足元で振動し続けている携帯電話を
拾い上げて着信ボタンを押した。
「もしもし?」

「入江先生ですか?」
電話の向こうの声が言った。

「いいえ、違います・・・でもこれは入江先生の携帯です」
そして、私は電話の向こうの同僚医師から、半ば強引に事情を聞き出すと部屋を出た。
私は、入江琴子が処置を受けている救命救急のフロアへ向かいながら、入江直樹の
携帯電話が鳴り始めてからの一連の出来事を思い出していた。

私は、あの時確かに見た・・・

それまで、その場にいた入江直樹とは、まったく別人の彼が立っているのを・・・
その直前に、彼自身が笑い飛ばしていた”鉄壁の仮面”が、まさにはがれる瞬間を・・・

妻が怪我したことを知った夫ならば、誰もがそうであろうと思える反応なのだから、あた
り前のことなのかもしれない。
しかし、いつでも”あたり前のこと”がことごとく当てはまらない入江直樹からは想像もで
きない姿だった。

そして、それはある種の衝撃をもって、私の脳裏に焼きついていた。
私は、このことがきっかけで、これまで入江直樹に対して抱いていた疑問に答えが出る
かもしれないと期待している自分に気付いて苦笑した。

―因果な仕事よね・・・


エレベーターのドアが開いて、救急のフロアに着くと、いつも以上に医師やナース達が集
まっていることに驚いた。
そこここに数人で固まりながら、誰もが初療室とかかれた部屋に注目しているのがわかる。

私は、初療室のすぐ横に桔梗幹と鴨狩啓太を見つけた。
立っている人の間を縫うように二人に近づいて行くと、私の耳にナース達の囁きが飛び込
んできた。


「入江先生すごいわよね・・・」
「普通、自分の奥さんの手術なんて見れないわよ」
「最初は自分でやるって言ったのよ」
「やっぱり天才は違うのね」

―えっ?処置を見てる?・・・

ナース達の話に驚いて探すと、確かに入江直樹は初療室の前にかけられたカーテンの隙
間から、腕を組んで中を見ていた。
しかし、私はその入江直樹の姿を見て愕然とした。

「一条先生!こっちこっち!」
桔梗幹が、私に手招きをしている。

「桔梗君、琴子さんの様子はどうなの?」
私は、入江直樹から目を離さずに聞いた。

「よくわからないの・・・怪我はたいしたことないみたいなんだけど、頭を強く打って意識がな
いって聞いたわ。まったく琴子ったらドジなんだから・・・」
桔梗幹は、おろおろしながら言った。

「桔梗君?入江先生、自分で琴子さんの処置をするって言ったの?」
私は、ナース達が言っていたことを桔梗幹に聞いた。

「ええ、そうなの!でも、家族には無理だって西垣先生に止められて、それであんなところ
で見てるのよ・・・普通の人だったら、絶対に見れないわよね・・・琴子があんなことになって
も、冷静に見ていられるなんて、やっぱり夫であるまえに医者なのかしら・・・ちょっとショッ
クだわ」
桔梗幹は、震える声で答えた。

―違うわ・・・

私には、今の入江直樹が、桔梗幹が言っているような状態だとは、決して思えなかった。
無表情にただ一点をみつめている瞳は、初療室の中の様子など見てはいない・・・
全身から発せられる慟哭に、見ている私まで苦しくなってくるのに・・・

―他の人にはわからないのかしら?・・・

私には、彼が今そこに立っていられることすら不思議に思えた。



”入江直樹の弱点って何だと思う?”
”琴子だな・・・”

鴨狩啓太が言った言葉が、あらためて頭の中に浮かんだ。
そして、この時私は初めてこの言葉を肯定する気持ちになっていた・・・


                                                つづく


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