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 天才の弱点 <3>  心理カウンセラー:一条紗江子

今夜の病棟はやけに静かだった。

いつもなら、頻繁に聞こえてくるナースコールも、母親を求めてぐずる子供の泣き声も今
夜ばかりは、誰に遠慮しているのか、まるで聞こえてこない。
時折響いてくる、廊下をあるくナースたちの足音と、短く会話する声がかろうじて人の気配
を感じさせてくれていた。

私は、今日のカルテの整理を終えて壁に掛けられた時計を見上げた。
「もう9時か・・・」
私はわけもなくため息を付きながら、つぶやいた。

―入江先生は、どうしただろう・・・?

あれからすでに6時間が過ぎているが、これといって何も情報は入って来なかった。
私は、スプリングコートを腕にかけ、バッグを持つと部屋の明かりを消して廊下に出た。
消灯時間を過ぎた病棟の、常夜灯だけになった薄暗い廊下をエレベーターに向かう。

救急の処置室の前で、立ち尽くしていた入江直樹の悲痛な顔が頭から離れない。
彼はあの時、カーテンの向こうに何を見ていたのだろう・・・

エレベーターが1階に着き、誰もいなくなったロビーを横切って行くと、前から毛布を抱えた
桔梗幹が歩いてくるところに出くわした。

「あら、一条先生、今帰りですか?」
「ええ、桔梗君は夜勤?」
「はい・・・っていうか、琴子の代わりです」
桔梗幹は、切ない笑みを浮かべて言った。

「琴子さんの様子はどうなのかしら?・・・意識は戻った?」
私の問いに、桔梗幹は首を横に振るだけで答えた。

「そう・・・入江先生はどうしてるのかしら?」
私は、救急の病棟へと続く廊下へ視線を投げながら尋ねた。

「入江先生は、ICUで琴子に付き添っています。さっき入江ママたちが帰って行って、でも
直樹さんはこのまま帰らないみたいだから、毛布でも持って行ってあげようと思って・・・」
桔梗幹は、手に持っている毛布を持ち上げて私に見せながら言った。

「さすが気が利くのね・・・ところであれって、入江先生のお母様なんでしょう?・・・すごか
ったわね・・・」
私は、入江琴子がまだ処置室にいる間にやって来た入江直樹の家族たちのことを思い浮
かべた。

処置室のカーテンが開いて、ICUに移すためストレッチャーに乗せられて出てきた入江琴
子の姿を見て泣き崩れた母親・・・
「お兄ちゃんは何のために医者になったの?・・・琴子ちゃんを、琴子ちゃんを助けて・・・」
そう叫ぶ母親が、入江琴子でなく、入江直樹の母親だということに驚かされた。
そして、その母親の横で入江琴子を心配そうに見下ろす二人の父親と弟。

「琴子さんって・・・本当に家族に愛されているのね・・・あのお母様の姿にはちょっと感動す
ら覚えたわ」
私が感慨深くつぶやくと、桔梗幹も大きく頷いた。

「あの入江ママの琴子への愛情は、本当の母親以上だと思うわ・・・まず間違いなく実の息
子の直樹さんより琴子を愛してるわね・・・あの後も、自分が付き添うって聞かないママを
直樹さんが一喝して、やっとさっき帰ったところなのよ」

「そう・・・じゃあ、今入江先生は琴子さんに付いて一人なのね?・・・あんなに辛そうにして
て一人で大丈夫かしら・・・」
私は、再び処置室の前に立っていた入江直樹の姿を思い出しながら言った。

「えっ?・・・一条先生、何言ってるんですか?入江先生は、琴子があんなになっても全然
動揺なんてしてる感じじゃなかったじゃいですか?・・・とても冷静に西垣先生のお話も聞い
ていたし、うるさいからってママを怒鳴りつけて追いかえしちゃうし・・・」
桔梗幹は、夫であることよりも医者であることを優先させているように見える入江直樹に憤
りを感じているようだった。

「そう・・・桔梗君にはそう見えるんだ?」
私は、苦笑いを浮かべて桔梗幹を見上げた。

「えっ?・・・一条先生にはそう見えないんですか?」
桔梗幹が不思議そうな顔で私を見る。
しかし、私は彼の問いには答えず、逆に手にしてる毛布を指差しながら聞いた。
「ねえ、桔梗君・・・その毛布、私に持って行かせてくれない?」

「えっ?・・・ええ、いいですけど・・・」
少し不満げに答える桔梗幹から、半ば強引に毛布を受け取ると、私はある思いを胸に秘め
てICUへと続く廊下を歩いて行った。


『ICU』と白い文字で書かれた大きなガラスの入ったドアを開けて、私は集中治療室の中に
入っていった。
ナースステーションに寄って、訪問の理由を告げると、ナースが快く入江琴子の部屋を教
えてくれた。
ガラス張りで中がよく見えるようになっているいくつかの部屋のひとつに、入江直樹が座っ
ている姿が見えて私はそっと近寄っていった。

うつむき加減の入江直樹は、胸の前で腕を組んだ姿でベッドの脇に座っている。
私は、ノックもせずにそっとドアを開けて、中に入っていった。

「入江先生?」
私は、小さな声で彼に呼びかけた。
ゆっくりと顔を上げた入江直樹は、別段驚いた風もなく「一条先生ですか・・・」と小さくつぶ
やくと、口元の端をほんの少し上げて私に向かって微笑んだ。

「これ、毛布を持って来たわ・・・琴子さんの様子はどう?」
私は、毛布を部屋の隅の置かれた椅子の上に乗せると、ベッドを覗き込みながら聞いた。

入江琴子は、たくさんの管や計器を付けられて痛々しくベッドに横たわっていた。
今日の昼に、元気いっぱいの彼女と話したことがまるでずっと前のことのように感じられた。

「命に別状はありません、右肩と左の太ももに裂傷を負いましたが、西垣先生が綺麗に縫合
してくれましたから、問題はないですね・・・あとは意識が戻れば、もう大丈夫です」
入江直樹は、普段と変わりなく淡々と私に説明をすると、もう一度私を見上げて微笑んで見
せた・・・取り付く島もないとは、こういうことを言うのだろう・・・
これでは、桔梗幹が不満に思うのも無理ないことだと思った。
しかし、私は最初に入江琴子の急を知った時の、彼の変化を見ていた・・・処置室の前に立
っている彼の虚ろな表情を見ていた・・・あの時感じた彼の姿こそが、彼の本来の姿だと私
は確信していた。

「そう・・・それなら良かった。入江先生、お疲れみたいですから少し琴子さんの横で眠った
方がいかもしれませんね・・・それじゃ、私はこれで帰ります。どうぞお大事に・・・」
私は、彼の様子が気にはなったが、それ以上深く問い詰めることも出来ず、あきらめて部屋
を出ようとドアに手をかけた。

その時、ふいに彼が言った言葉が私を引き止めた。

「一条先生?・・・オレをカウンセリングしてみませんか?」

思いもかけない言葉に振り向くと、入江直樹は妻の顔をじっとみつめたまま眉間に皺を寄せ、
心電図モニターの明かりの中に痛々しい横顔を浮かび上がらせている。

―入江直樹は、私に救いを求めているの?・・・

私は、体の向きを変えると腕を組んでドアに寄りかかった。
「話してみて・・・」
不思議な感慨をかみ締めながら、私は静かに彼に話を促した。

「オレは医者なのにこいつに何もしてやれなかったことが悔しくて・・・こいつの命に別状がな
いとわかっているのに、なんだか胸の中に何かがつかえているようで・・・」
入江直樹は、妻から目を逸らさずに言った。

「そう思っているの?・・・かなり重症ね・・・」
私は首を振りながら、ため息交じりに彼に告げた。

「えっ?・・・」
私の言葉が意外だったのか、入江直樹が声をあげた。

「今のあなたに必要なのは、自分が医者だということを忘れることと、琴子さんの手を握っ
てあげること・・・そして、出来ればあなたのお母様のように琴子さんを思って涙を流すこ
とかしら・・・」
私の言葉に、入江直樹が大きく目を見開いた。

「そ、そんなこと!できるわけが・・・」 「どうして?」
入江直樹がいいかけた言葉を遮って、私は聞いた。

「だったら、なぜあなたは私に救いを求めたの?今自分が言ったことが本心じゃないってこ
とを自分でもよくわかっているくせに・・・だって、あなたは自分が医者だといいながら、そうし
て琴子さんに触ることも出来なくて、涙を流すことも出来なくて、それでも苦しくて、そこで石
のように動けないでいるんでしょう?」
私は、少し声を荒げてたたみ掛けるように言った。

入江直樹は、虚ろな瞳で一点を見つめたまま、私の言葉をかみ締めているように見えた。
「琴子さんが頭を打ったと聞いて、あなたはどこまで考えたのかしら?・・・琴子さんの死?
人間っていうものはね、何か強いストレスのかかることが起きた時、必ず最悪の状態を想像
するものなの。そうすることで、本当にそうなった時に”ああ、やっぱり思った通りだった”って
自分を納得させるためにね・・・あなたはどうだったのかしら?」
私は、ここまで言うと彼の様子を伺った。


酸素マスクを付けた入江琴子の規則正しい呼吸音と、計器類の電子音だけが響く病室を、
息苦しいほどに長い沈黙が支配し始めていた。

そして、私が入江直樹に放った言葉を後悔し始めた時、静寂を破って彼が語り始めた。

力一杯に拳を握りしめて・・・
ささやくように・・・
かみしめるように・・・

そして、入江琴子を愛おしむように・・・


                                             つづく




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