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 天才の弱点 <Final>  心理カウンセラー:一条紗江子

「桔梗がオレを呼びに来た時、一瞬頭の中が真っ白になった・・・」
入江直樹は、放心したように話し始めた。

「廊下を走りながら、まるで砂漠の砂の上を走っているように、足が重くてなかなか琴子
のところへ着かないような気がした・・・処置室に着いて、医者や看護士に囲まれている
琴子を見た瞬間に、あいつを誰にも触らせたくないと思った・・・正直に言って、オレはあ
の時処置室の前に立っていたときのことをあまりよく覚えていないんです・・・
あの時、オレはいったい何を考えていたのか・・・気がついた時には、オフクロが琴子に
すがって泣いていたんだ・・・」

―彼女が、この人の弱点か・・・

鴨狩啓太がどこまで入江直樹の心理をわかってそう言ったのかはわからないが、今彼
を見ていて私は、その言葉に納得していた。

どんなことでも頭で考えて答えを出してきた彼が、入江琴子のことだけは心で捉えてい
ることがわかる。
彼女の存在そのものが、彼の心なのかもしれない・・・

「あなたは、琴子さんを失うかもしれないという恐怖を、医者なのに何もしてやれなかった
という後悔とすりかえていただけなのよ・・・愛情は心で感じるものでしょう?だからすりか
えた感情をどんなに頭で考えて消化しようとしても心の中の苦しみや悲しみは消えないわ」
私は、入江直樹の手を取って、ベッドの上の入江琴子の手を握らせた。

「入江先生?・・・今目の前にいるのは患者ではなく、あなたの最愛の人でしょう?」
私の言葉に、入江直樹が顔をあげて私を見つめた・・・
私は、彼に大きく頷いて見せた。
すると彼は、入江琴子に視線を戻すと、ゆっくりと彼女の頬に自分の頬を押し付けてその
顔を抱きしめた。

再び顔を上げた入江直樹の頬に、涙が光っているように見えたのは私の目の錯覚だった
のか・・・しかし、彼女を切なげに見つめる彼の横顔が、あの時処置室の前に立っていた
彼の姿と重なって見えた。

そう・・・あの時、彼は無意識の中で彼女を抱きしめていたんだ。
最愛の人の命を・・・

きっと、入江琴子が目覚めるのも時間の問題だろう・・・

私は、もう役目は終ったと判断して、そっとICUを後にした。
病院の出口へ続く長い廊下を歩きながら、私は肩の辺りから急に力が抜けていくのを感
じていた。
私は自分では気付かずにひどい緊張感の中で彼と会話してたらしい・・・
ふと、わけもなく笑いが込み上げて、次の瞬間には涙が溢れそうになった。

あんなにも濃くて深い愛情を、私は今までに見たことがない・・・
どうしてあの二人は出会ったのだろう?・・・どうして出会えたのだろう?
きっと、どちらかが欠けたなら、どちらも生きてはいられないのではないだろうか?

私には、そんな重い恋は出来ないと思いながら、あの入江直樹の愛情を一心に注がれ
ている入江琴子を羨ましく思っている自分も否定できなかった。



それは、病院のエントランスに植えられたつつじが満開を迎えたある日のこと・・・

私は、いつもと変わりなく出勤し、いつものように『不在』の札を『在室中』になおすと昨夜
の報告を聞こうと、ナースステーションを覗いた。
すると、カウンターのある手前のスペースには誰も見当たらないのに、奥の部屋から賑
やかな笑い声が聞こえてきた。

「あら、一条先生おはようございます」
ちょうど、奥から顔を出した桔梗幹が私を見つけて出てきた。

「どうしたの?今日は朝から随分とにぎやかね・・・」
私は、奥の部屋の入り口を覗くようにしながら聞いた。

「今日から、琴子が復帰してきたんですよ!」
桔梗幹が、嬉しそうに答える。

「えっ?琴子さんが?・・・そうか、あれからもう3週間もたったのね・・・でも、どうして外科
のナースステーションなの?」
私の疑問に、桔梗幹は後ろを気にしながら、急に声を低くして答えた。

「まったく、信じられないでしょう?琴子が抜けた穴を埋めた小児科のナースが、今の担
当を離れられないからって、結局外科での復帰になったんですよーー!また入江先生
のいる外科に戻ってくるなんて、琴子って転んでもただでは起きない奴ですよね〜!」
桔梗幹の話に、私が思わず吹き出していると、当の入江琴子が顔を出した。

「わあ、一条先生いろいろご心配をおかけしました・・・今日から無事に復帰できることに
なりましたので、またよろしくおねがいします」
入江琴子は、そう言って頭を下げると満面の笑みで私を見た。

私の脳裏に、3週間前のICUでの出来事が蘇る・・・

「まったく、そのまま専業主婦にでもなっちゃえばよかったのよ」
桔梗幹が笑いながら嫌味を言う。

「もう、幹ちゃんったら私がそういうのに向いてないの知ってるでしょう?」
入江琴子が言い返す。

「あら〜ナースにも向いてないと思うけど・・・」
桔梗幹も切り返す。

「でもね、自宅療養してる間、入江君ったらすごくやさしかったんだ・・・右手が使えない
時はご飯も食べさせてくれたし、着替えも手伝ってくれたし・・・」
うっとりと話し出した入江琴子を、桔梗幹があきれた顔で見つめている。

二人の掛け合いを笑いながら聞いていると、婦長が現れて二人を睨みながら言った。
「ほらほら、もうすぐ教授回診の時間でしょ?みなさん、ちゃんと担当の部署につきなさい」

「やったー、やっと入江君の白衣姿が見れる・・・」
入江琴子が感慨深げに言っているのを、誰もが呆れ顔で見ていた。

ナース達がざわつき出すのはいうまでもない・・・
私はそれを潮に自分の部屋に引き上げた。

相変わらずな外の騒ぎに苦笑しながら、今日のスケジュールをチェックしていると、ドア
がノックされ、思いもかけず入江直樹が入ってきた。

「あら、入江先生おはようございます・・・奥様の職場復帰おめでとうございます。すっか
り元気そうで私も安心しました」
私の言葉に、入江直樹は照れたように苦笑しながら私に頭を下げた。

「ありがとうございます・・・一条先生にはいろいろとお世話になりました。それで、一条先
生にちょっと確認したいことがあって、今日はお邪魔しました」
入江直樹にしては珍しく奥歯にもののはさまったような言い方をしているのが気になる・・・

「確認したいことって・・・?」
私の問いに、ひとつ咳払いをしてから入江直樹は意外なことを言った。
「カウンセラーの守秘義務についてです」

「守秘義務?」
私は、しばらく考えてから、入江直樹の真意を感じ取って思わず笑いながら答えた。
「わかりました・・・あの時、入江先生は私の患者だったんですものね?もちろん、守秘義
務は守りますよ。あの時のことは、絶対に琴子さんや他の人には話しませんから安心し
てください」

「助かります」
入江直樹は、真面目な顔で頭を下げた。

「本当に、彼女はあなたの弱点なのね・・・」
私は、部屋を出て行こうとする入江直樹の背中にポツリとつぶやいた。

「えっ?」
振り向いた入江直樹に向かって「なんでもないわ」と私が首を横に振ると、彼は首を傾げ
ながら部屋を出て行った。

彼は気付いているのだろうか・・・自分にとって、妻の入江琴子がどれ程大きな存在かと
いうことを・・・
いつもは、鉄壁の仮面を被って誰にも心を開かない彼が、入江琴子にだけは心を隠す
ことが出来ないらしい。
それは、それだけ彼女が彼の心の奥のさらに奥まで入り込んで、彼を愛しているからに
違いない。

―あの時ことを、琴子さんに話したら入江先生はどうするかしら?

私は、向かうところ敵なしの天才入江直樹の、まさに弱点を握ったという思いにふと笑い
が込み上げた。
すると、入江直樹と入れ替わるように、今度は桔梗幹がドアを開けて入ってきた。

「一条先生、今日のカウンセリングのお手伝いは、私がすることになりましたのでよろしく
お願いします」
桔梗幹が私にウィンクしてみせる。
「あら、桔梗君がサポートしてくれると、患者さんの気持ちもやわらぐからいいわ・・・」

ところが、桔梗幹は私の話など耳に入っていないかのように、ドアの方を気にしながら私
に聞いた。
「ねえ、一条先生?今、入江先生がいたでしょ?」
「ええ・・・」
「私、前から一度聞いてみたかったんですけど、あの琴子が怪我をした日、一条先生った
ら私から毛布を奪ってICUに行ったでしょ?・・・あの時、だいぶ長い間琴子の部屋から出
てこなかったってICUのナースから聞いたんですけど、いったい何を話していたんですか?」
桔梗幹は、興味津々といった面持ちで、私に顔を近づけてきた。

「それは、いくら幹ちゃんでも話せないわ」
私は、カルテをめくりながら素っ気なく答えた。

「ええ〜教えてくださいよ〜ねえ、もしかして入江直樹の深層心理に迫っちゃったとか?」
桔梗幹は、さらに私を攻め立てる。

「さあ?どうかしら?・・・それより、ちゃんとカウンセリングの準備をしてちょうだい!」
「ねえ〜入江先生の心の中には何が入ってたんですか?・・・気になるー!」

私の言葉にもひるむことなく食らい付いて来る桔梗幹に、半ばあきれながら私は含み笑い
を浮かべて答えた。
「入江先生の心の中?」

「うんうん」と、桔梗幹が頷きながら私ににじり寄る。

「彼の心の中にはね・・・隙間なくいっぱいに入江琴子が入っていたわ」
私は、桔梗幹の顔をまっすぐに見上げてキッパリと言った。

「えっ?」
桔梗幹が驚きの声をあげ、呆然と私を見下ろしている・・・

「幹ちゃんだって、本当はわかってるんでしょ?あの二人がすごーく愛し合ってるってこと!
まあ、幹ちゃんじゃ絶対に叶わないから、さっさとあきらめてまっとうな恋をさがすのね・・・」
私は笑いながらカルテを持って立ち上がると、唖然としている桔梗幹の背中をポンポンと叩
いて部屋を出た。


私には、あんな重い恋は出来ない・・・人より人の気持ちがわかってしまうからこそ、人の気
持ちには敏感に生きてきた。
自分が愛している人でも、その心に一点でも暗い染みを見つけてしまったら、もう恐くてそれ
以上踏み込んでいくことはできなくなってしまう・・・
だから、今までのめり込むような恋をしたことはなかった。

でも、ふと思う。

入江直樹の、あの何層にも重なった心の壁を突き破ってその中に入り込んだ入江琴子のよ
うに、真っ直ぐに私に向かってきてくれる人が現れたら・・・

―私も、彼が彼女を愛するように、人を愛せるかしら?・・・

「ちょっと、一条先生待ってくださいよー!私はあきらめませんからね〜」
桔梗幹の声が追いかけてくるのを適当にあしらいながら、私は自分の未来に思いを馳せていた。


あの二人のように、お互いを何よりも大切だと思えるような恋がしたいと思いながら・・・


                                             END


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