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 女神のくちづけ <1>  医学実習生:桐生聡志

あの時・・・俺は確かに女神がくちづけるのを見た。
その優しいキスに、彼女の愛の深さと果たしてきた役割の大きさを知った気がした・・・
あのキスを受ける資格があるのはこの世にただひとりだけ・・・

それが俺ではなかったことが哀しくて・・・



医学実習生として初めて登院するその日、雨の降る中を、俺はなぜかこんな日に下ろしてし
まった新しい靴の汚れを気にしながら、康南(斗南)大学病院の門をくぐった。
新たな門出には、相応しくない空模様でも、その時の俺には何の感慨もなく、ただ淡々と流
れていく日常の中のほんの一片に過ぎないこととしか捉えてはいなかった。

ただ、ひとつだけ思っていたのは、とうとうあの「入江直樹」との対面を果たせるという思いだけ・・・
高校に入った時から、ずっと俺にまとわりついていた過去の天才の影・・・その実体をやっと
射程圏内に捉えたという思いだけが、俺の足を前へと運んでいた。


「君達は、これから数ヶ月間、この康南大学病院の実習生として、優秀な先輩医師からたくさ
んのことを学んでください。大学の講義をこなしながらの実習は大変だとは思いますが、誰も
が通ってきた道です。これを乗り越えたあとには、君達はきっと大きく成長しているでしょう。
そしていずれは、医学の進歩に大いに役立つ立派な医者にれるよう精一杯の努力をしてくだ
さい。」
院長が、俺を含めた数人の実習生にむかって訓示を述べている。
俺たちは、真新しい白衣に身を包んで、その話を聞いていた。

「やあ、桐生聡志君だね・・・」
訓示のあと、院長が俺に親しげな笑みを浮かべながら歩み寄って来た。
「あの小さかったサトシくんが、もうこんなに立派になったとは、私も年を感じるよ・・・」
医者である父親と同期だというこの院長は、自分よりも遥かに背の高い俺を見上げて目を細
めていた。


俺は両親が医者という家庭に生まれ、中学校までは忙しい両親から離れて祖母の元で育った。
そして、中学校の卒業を機に両親の元へ戻り、父親の母校である康南(斗南)高校へ入学した。
俺は、小さい頃から成績はいつもトップで、小中学校ではどちらでも創立以来の天才といわ
れていた。
そして、もちろん高校にもトップの成績で入学し、入学式では新入生代表として壇上に立ち挨
拶をした。
その舞台から降りたときに、俺は初めてあの名前を耳にする・・・

『まるで、イリエナオキ2世って感じだな・・・』

どこから聞こえたのか、俺は新入生や先生方が座っている椅子の間を歩きながら、声の主を
探した。もちろん、ざわつく会場の中で、ほんの一瞬聞こえただけの声の主を見つけることは
不可能ではあったが、なぜか、その日から俺の頭には、「イリエナオキ」という名前が、ずっと刻
みついて離れなくなっていた。

高校に入っても、俺には向かうところ敵などいなかった。
成績もスポーツも常にトップ・・・相も変わらず、回りは俺を天才ともてはやした。
だからと言って、俺にしてみれば、それは何の苦もなく成し得るあたり前のことであって、特別
な感慨など持ちはしなかった。勉強に対しても、何か大きな目的があるわけでもなく、ただその
時その時を、淡々とこなしながら毎日が流れていった。

言い寄ってくる女もたくさんいた・・・でも、女になど興味はなかった。
しつこい女は、言葉の刃で遠ざけた。
いつも俺の回りは独特な空気に包まれていて、誰の干渉も受けず、何よりも俺自身がそれを
心地よく感じていた。

ただ、あの頃の俺は気付いていなかった。

何かに夢中になって時間を忘れることもなく・・・
思い通りに行かないことに地団駄を踏む思いもなく・・・
夢を実現するために必死に努力をすることもなく・・・
誰かを好きになって胸を焦がすこともなかったことに・・・
そして、ただ淡々と過ぎていく日々の中で、親の仕事だからという理由だけで、俺の前に敷
かれたレールは、自然と医学の道へと続いていただけのことだった。

しかし、入学式で耳にした「イリエナオキ」という名前は、すぐに「入江直樹」となって、俺にま
とわりつくようになる。
初めての定期試験で、何の苦もなく満点でトップを取った俺に、担任の教師が言った。
「まさか、あの”入江直樹”がこの世にもう一人いるなんて思いもしなかったわ・・・」

―入江直樹っていったい、誰なんだ?

俺は、俺が似ているという、その男に次第に興味が湧いてきた。
以前、入江直樹の担任だったという教師から、いろいろと聞き出し、その男が今の俺と同じよ
うに天才と呼ばれていたことを知った。
さらに俺の風貌や、言動も、どことなくその男に似ているのだと教師は言った。
そして、運の悪いことに、その男も医学の道をめざし、その時点で上の康南大学医学部の学
生であることも・・・

―この学校にいる限り、俺はずっと「入江直樹2世」と言われ続けるのか・・・

たまたま、俺の方があとから生まれたというだけで、その男のコピーのように言われることに、
俺は生まれて初めての強い憤りと、プライドを傷つけられる感覚を味わった。

俺は俺であって、他の誰でもない・・・
そんな気持ちを抱きながら、俺は自然と決心していた。

どうせ同じ医者になるのなら、いつかその入江直樹を越えてみせる・・・と。

医学の道に進むことにも大した意義はなく、将来への展望も夢もなかった俺にとっては、それ
がいつの間にか自分を奮い立たせる唯一の理由になっていた。

いつか奴と対峙してみたい・・・ずっとそう思いながら大学に入っても、入江直樹本人と出会う
チャンスはなかなか巡って来なかった。
だから、俺は大学の4回生になってすぐに康南大学病院への実習を申し込んだ。
それはもちろん、すでに一年前に研修医となっているはずの入江直樹と会うために・・・


実習の初日、院長からの訓示が終わると、俺はすぐに入江直樹を探した。
実習先も、彼と同じ第3外科を希望し、医局での挨拶も済ませたのに、そこに入江直樹の姿は
なかった。
しかし、実習に入って半日もしない内に、どこにいても俺はナース達の熱い視線の的になって
いるのを感じていた。
実習生仲間にひやかされながら、さりげなく耳を澄ませば、やはり聞こえてくるのは同じセリフ・・・

『やっぱり入江直樹2世なんて言われるだけあって、かっこいいわね・・・』
『彼もすごい天才らしいわよ・・・』
『確かに雰囲気も似てるわよね・・・』
『性格も似てたら、誘ってもきっとダメよね・・・』

しかし、ざわざわと耳を通り過ぎていく、あまりに聞きなれた噂話にいい加減うんざりとした頃、
不意に耳に飛び込んできた大きな声が、俺を振り向かせた。

「あれのどこが似てるのよーー!入江君の方がずっとハンサムだし、背は高いし、だいたい
入江君はあんな風に誰彼かまわず睨みつけたりしないわよ!」
そのセリフは、いつも聞こえてくるものとは、正反対の言葉・・・

「ちょ、ちょっと・・・あんた、声が大きいわよ!」

声が聞こえて来たとおぼしき廊下の角を覗き込むと、口を塞がれた一人のナースを取り囲こ
むようにして数人のナースがいた。
俺は、あまりにも露骨に俺が入江直樹に似ていることを否定しされたことが妙に気になり、声
の主を尋ねた。
「今、でかい声で何か言ってたのは、誰ですか?」

すると、自然とナース達の輪が解けて、真ん中で押さえつけられていたナースが、息を荒げ
ながら俺を睨みつけた。

「あなたですか?」
俺は、あらためて真ん中に立っているナースに尋ねた。

「そ、そうだけど、それが何か?」
ナースは、鼻っ柱の強さを示すように、少しあごを上げ気味にして挑むように言った。

「俺って、そんなに目つき悪いですか?」
俺は、彼女の剣幕に、苦笑いを浮かべながら尋ねた。


「別に・・・気を悪くしたなら、ごめんなさい・・・ただ、みんながあんまり入江君に似てる似てる
っていうから、ついムキになっちゃって・・・だって、あなた全然似てないもん・・・」
そのナースは口を尖らせながら、ブツブツとつぶやくように答えた。
すると、隣にいた別のナースが、助け舟を出すように俺に向かって言った。
「今日から実習に来た桐生先生ですよね?すいませんね・・・入江先生って、この子の旦那
さまなんですよ。それで、実習生の方が若くていいなんて言ってからかったものだから、怒っ
ちゃっただけなんです。この子、入江先生にゾッコンなんで・・・」

「えっ?・・・入江先生の奥さん?・・・」
俺が、驚いて絶句しているうちに、そこにいたナース達は逃げるようにバラバラと散っていって
しまった。
もちろん、入江直樹の妻だといったそのナースも、助け舟を出したナースに腕を掴まれて俺に
頭を下げながら背中を向けた・・・

「待ってくれ・・・あんた名前は?」
俺は、咄嗟にそのナースに名前を聞いていた。
振り向いたナースは、答えた・・・「入江琴子」

それが彼女との出会いだった・・・

俺が入江直樹に似ているということを激しく否定したことと、なによりも入江直樹の妻だという
ことが俺が彼女に興味を抱いた最初のきっかけだった。

俺は、ふと去っていく彼女の背中に向かって、もうひとつ質問を投げかけてみた。
「入江先生には、どこに行けば会えるかな?・・・」

すると、彼女は振り返って答えた。
「入江君は、ずっと手術室だよ・・・たぶん、そのあとはICU・・・優秀なお医者さまだからね!」
彼女は少し自慢げに言い放つと、そのまま前を向いて去って行った。

―入江琴子・・・

俺は、なぜかこの名前を何度も頭の中で繰り返しながら、彼女の背中を見送った。


こうして慌しいままに俺の実習の初日は、あっという間に終っていった。
だがここへ来た一番の目的である、入江直樹との対面は、まだ果たせていない。

―入江直樹・・・早く俺の前に姿を現せ・・・


                                              つづく


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