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 女神のくちづけ <2>  医学実習生:桐生聡志

実習2日目・・・いつになく早くに目覚めた俺は、そのまま早くに家を出た。
いつもと環境が変わったとはいえ自分が緊張しているとは思えない・・・とすれば、やはり入江
直樹との対面が叶わなかったことへのジレンマが、何か俺を急き立てているように感じられた。

病院に入ると、受付の時間にはまだ間があるというのに、すでに外来に訪れた患者が、ロビー
の椅子に腰掛けて窓口が開くのを待っていた。
静まり返った廊下を歩いて、第3外科の医局の前に立つ。
当然誰もいないと思いながら、ノックもせずにドアを開けると、以外にも部屋の奥から「誰?」と
いう声が聞こえてきた。

声の出所を探して俺が部屋の中を見回していると、カルテや資料を入れた棚の向こう側から、
もう一度同じ声が聞こえてきた。
「こっちだよ・・・見慣れない顔だな・・・実習生か?」

俺は、ある予感を感じながら、声の導いた方へ顔を向けて「そうです」と答えた。

「随分早いな・・・まだ誰も来てないぜ・・・」
白衣を着ていながら下はデニムといういでたちのその医師は、棚の間から出てくると手に持っ
たファイルをめくりながら、俺の横をすり抜けて医局を出て行こうとした。
その時、俺はその医師の白衣に付けられた名札を見た・・・「第3外科 研修医 入江直樹」と、
その名札には書いてあった。

何の心の準備もないままの唐突な対面。
俺は、一瞬身動きすらできずに、背後に遠のいていく彼の足音を聞いていた。

「あ、あの・・・」
俺は、咄嗟に彼を呼び止めた。
なんとか体を捻って振り向くと、入江直樹も同じようにこちらを振り向いて俺のことを見ている。
しかし、声はかけたものの、掛ける言葉を何も用意していなかった俺に向かって、入江直樹
は、無表情なまま「急いでるんだ」と言って、そのまま去って行った。

俺は、入江直樹の背中が廊下の角を曲がるまで見送ると、次の瞬間それまでずっと息を止
めていたかのように、大きく息を吐き出した。

―俺としたことが・・・

あれ程までに望んでいた入江直樹との初めての対面がこんなものなのかと思いながら、まる
で奴の目に射すくめられたように動けなかった自分に、生まれて初めて舌打ちをしたくなるよう
な感覚を味わっていた。

しかし、それから後は、相変わらず忙しそうにしているとはいえ、同じ病院、同じ医局にいるの
だから、入江直樹を見かける回数は増えていった。
しかし、何か会話をするチャンスは巡ってこないまま、あっという間に数日が過ぎていった。

そんなある時・・・

俺達実習生が医局の隅のテーブルに集まって、指導医である医局長から院内についての説
明を受けていると、あまり医局にいることのない入江直樹が部屋に入って来たことがあった。
しかし、入江直樹は、奴の指導医にあたる西垣医師にひと言ふた言何かを言うと、すぐに二人
揃って医局を出て行った。
その姿を、ずっと目で追っていた俺に向かって、目の前に座っていた医局長が言った。
「やっぱり、入江2世なんて言われるだけあって、あいつのことが気になるか?」

俺の顔を覗き込むようにしている医局長に向かって、俺は「いえ、別に・・・」と短く言葉を返した。
すると、医局長は入江直樹と西垣医師が消えたドアへと視線を投げながら、誰にともなく話し
始めた。

「今、西垣チームは、難しい心臓弁膜症の患者を担当していてね、ここ数日はICUに詰めてて
家にも帰れないでいるんじゃないかな・・・君達も、まだちゃんと挨拶もできないだろう?」

うなづく俺達に、医局長はさらに話を続けた。
つい、1ヶ月前に入江直樹が離島の研修先から戻ってきて以来、西垣チームが次々と難しい
症例をこなし、それを全て成功に導いていること。
その全てに、まだ研修医1年目の入江直樹の力が大きく関わっていること。
だからこそ、西垣医師は入江直樹を手元から離さず、何から何まで入江直樹の意見を聞きな
がら進めていること。
そして、まだ研修医ということで自ら執刀はできないものの、入江直樹は常に助手として手術
室に入り、執刀医の横で、的確な指示をしているということ。

そして、医局長は不意に俺の目を見つながら言った。
「おい桐生。お前は入江2世なんだから、何年か後には、あいつみたいになってるのかもしれな
いな・・・あの入江は無愛想な奴だけど、医療に対する情熱には並々ならぬものがあると、私は
見ているんだ。」

―情熱?・・・

医局長の話を聞きながら、なぜか「情熱」というそのひと言が俺の心に引っかかった。
そして、医局長はひとりごとのようにつぶやいた。
「あの入江なら、何をしても成功しそうなものなのに、あえてこの道を選んだのには、きっと普
通の人間が考えるのとは違うそれなりの理由があったんだろうな・・・私ならIQ200なんて頭
を持っていたら、きっと医者にはならないで、もっと楽して稼げる道を探してるよ・・・」

その瞬間、医局長は俺達実習生の視線を感じたのか、照れたように苦笑いを浮かべた。
「おっと、不謹慎なことを言ったな。続けるぞ・・・」

この時、俺は、心の中で何かが目覚めたのを確かに感じていた・・・それは、たとえるなら小さ
な黒い点・・・
しかし、俺はそれがいずれ俺の人生を根底からくつがえす予兆だったとも気付かずに、今の
入江直樹の姿を知ったことで、さらに彼に対するさまざまな想いを強めていった。


入江直樹と、直接対峙する機会はなかなか巡ってこないとはいえ、実習初日に俺に強い印象
を残した妻、入江琴子はなぜか事あるごとに俺の前に現れた。

そして、ただ単に天才が選んだ相手だからという理由だけで、聡明な女性をイメージしていた
俺の考えは、2度目に会った時点で、すでにもろくも崩れ去っていた。

本当に看護師の資格を持っているのかと疑いたくなるようなその行動は、いつも整然と事を運
んできた俺にしてみれば、ある意味新鮮な驚きと興味を抱かせるには十分だった。

「琴子さん!・・・あなたは、何度言ったらわかるの?・・・もう、半年も経つのに、患者さんをま
ともに検査室にも送っていけないんじゃ困ります。それから、512号室の点滴交換を忘れてい
ましたね。それから、515号室の患者さんは食事制限の指示が出ていたのに、あなた普通食
を渡したでしょ?まったく、入江先生が戻ってくる前はあんなにがんばってたのに、最近また気
が緩んでますよ!」

「す、すみません・・・」

実習に来てわずか数日の間にも、ナースステーションの前を通る時に同じようなやり取りを何
度か耳にした。実際に、指導医について患者の間を回っているときにも、入江琴子のドジ振り
を何度も目にした。

そのたびに、なぜか俺は笑いが込み上げてくるの堪えなくてはならず、睨んでくる入江琴子の
視線をさりげなくかわしながら、次はいったいどんなドジを踏むのかと期待している自分も感じ
ていた。

「ねえ、ちょっと!・・・どうしていつも笑うの?」

ある時、指導医に付いて回診を終えた俺が、医局へ戻ろうとした時に、不意に彼女から声がか
かった。敵意むき出しのその言い方に、ずっと積もり積もったものへの怒りが感じられた。

「あんたか・・・」
俺は、指導医を先に行かせるとゆっくりと振り返って、さも今相手がわかったかのように仁王立
ちになっている入江琴子を見た。

「いつか言ってやろうと思ってたのよ!・・・桐生くんって、全然入江君には似てないって思って
たけど、そういうイジワルな感じが、高校の頃の入江君を思い出させるわ!」
入江琴子は、鼻息も荒く言い放った。

「あんたの入江先生がどんな高校生だったかなんて興味ねえけど、あれだけ目の前でドジや
られたら、あきれるのを通り越して、もう笑わずにはいられないだろう?・・・正直に言って、あん
たなんで看護師なんかになったんだよ?・・・絶対に向いてないと思うぜ」
俺は、薄笑いを浮かべながら応戦した・・・ただ、こんな風に女相手に饒舌な物言いをしている
自分を不思議に思いながら・・・

「よ、余計なお世話よ!・・・これでも一生懸命やってるんだから、そういう言い方ってホント頭く
るのよね・・・それに、あなた私よりずっと年下でしょ?生意気なのよ!」
入江琴子は、さらに声を上ずらせて文句を言っている。

「この際、年齢なんて関係ないんじゃないかな・・・だいたい、あんたが年上だなんてこれっぽ
っちも感じないぜ。それに、悪いけどあんたが今日踏んだドジだけだって、俺なら難なくこなせ
るけどね・・・ずっと年下だけど!」

「ん〜〜もう〜〜!」
入江琴子は、とうとう何も言い返せなくなったのか、大股で俺の前までやってくると、近くで見れ
ばやけに大きくてまつげの長い瞳で俺を見上げた。

「ねえ、桐生君?・・・君、彼女いないでしょ?絶対にいるわけないよね?私だったら願い下げよ!
・・・そんな性格悪くちゃ、これからだって彼女なんかできないわよ!ふんっ!」
あまりに見当違いな物言いに、再び笑いが込み上げる。

「俺に彼女がいるかなんて、あんたには関係ないだろ?・・・それに間違ったって、あんたみたい
な女を彼女になんかしないさ・・・俺は、頭の悪い女は嫌いなんだ」
俺は、入江琴子を真上から見るように見下ろしながら言った。
しかし、それまで顔を真っ赤にして怒っていた入江琴子は、「えっ?・・・」と短く声を発したまま、
俺の顔をマジマジと見上げて、表情を和らげた。

「な、なんだよ・・・急に・・・」
俺は、不意な彼女の変化に面食らいながら言った。

「今のセリフ・・・入江君にもおんなじこと言われたことがある・・・」
入江琴子は、そう言いながら急に遠い目をして、昔に思いを馳せているようだった。

「はあ?・・・どのセリフだよ?・・・どれを取ったって、キレイな思い出になるような言葉じゃない
けどな・・・」
俺は、半ば呆れながら言った。

「まあね、エヘヘ・・・でも、やっぱり入江君に似てるって言われてるだけあって、なんだか言う
ことも似てる気がしてきた・・・」
入江琴子は、まるでつき物が落ちたように急に穏やかな表情をしながら言った。
そして、俺の答えを待っている風もなく「でも・・・」と言葉を繋いだ。

「でも・・・嫌だったでしょ?」
入江琴子は、俺の顔を覗き込むようにして言った。

「何が?・・・あんたに文句言われたことか?」
俺は、あえて彼女から視線をそらして聞き返した。

「違うよ・・・ずっと入江君2世って言われてきたこと・・・きっと、嫌な思いをいっぱいしてきたん
じゃないかなって思って・・・だって、ちゃんと自分の名前を覚えてくれるんじゃなくて、誰かの
2世だなんて言われるのなんて、私だったらきっと嫌だろうなって思うもん・・・」

「えっ?・・・」
俺は、絶句したまま入江琴子をじっと見つめた。
それは、あまりにも想定外の不意打ちだった・・・入江琴子の、憐れむような優しい声色が、心
の隙間に沁み込んで、胸の奥に仕舞い込んでいた何かを浮かび上がらせるような気がした。

今まで、こんな風に言われたことがあっただろうか?

俺は確かに小さい頃から天才と言われ続け、高校に入ってからは入江直樹2世と言われ続け
てきた。
しかし、その言葉は他人からすれば、決して俺を中傷するためのものではなく、むしろ賛辞に
近い意味の言葉であったから、誰もがなんの躊躇もなく俺のことをそう呼んでいたし、俺もあえ
て拒絶はしなかった。

―でも、本当は俺は嫌だった・・・そうさ、だからここまで来たんだ。

でも、俺の本当の気持ちをわかろうとする奴はいなかった・・・たとえわかったとしても、人より優
れているということだけで、全てが帳消しにされてしまうようなことでしかなかったに違いない。

「あれ?・・・私また見当違いなこと言っちゃった?」
入江琴子が申し訳なさそうな表情を浮かべて、黙りこんでしまった俺の顔を覗き込む。
俺は、何とも形容しがたい気持ちに、努めて冷静を装いながら彼女から視線を逸らした。
すると、何気なく腕時計を見た彼女が「ああ〜〜!」と大きな声を上げた。

「な、何だよ!」
俺は、驚いた勢いでやっと言葉を発することが出来た。

「いけない!また点滴交換を忘れちゃうところだった!・・・すぐ行かないと、また師長に怒られ
ちゃう!それじゃ、桐生君またね・・・もう今度は笑わないでよ!これでも一生懸命やってるん
だから!!」
そういうが早いか、入江琴子は長い廊下を走り出した。
俺は思わず吹き出しながら、しばらく彼女の背中を見送っていた。
そっと胸に手を当てると、なぜか心臓の鼓動がドキドキと感じられた・・・それは今までに感じた
ことのない不思議な感覚だった。

―あの女、いったい何者なんだ?・・・

俺は、すこし自嘲気味に笑いながら、入江琴子が去って行った方向に背中を向けようとした。
その時、廊下の先から再び入江琴子の声が聞こえた気がして、俺は何気なく振り返った。

廊下の先に、入江琴子と入江直樹が向き合っていた。

だいぶ離れているので、何を話しているのかは聞こえない・・・しかし、入江直樹の腕を掴ん
で弾むような笑顔を見せている入江琴子に、相変わらず冷めた表情の入江直樹が何か言っ
ている。

思えば、それが入江夫妻が一緒にいるところを見た最初だった。

俺はなぜかその場を立ち去ることが出来ずに、二人を見つめていた。
すると、入江直樹は入江琴子と離れる間際、彼女の頭を撫でながら顔を近づけた。
そして、俺はその後の入江直樹の表情に思わず驚いて目を見張った・・・

そう・・・奴は、それ以上ないと思えるほどの優しい微笑みで入江琴子を見つめた。

それまで、短い期間とはいえ、どんな状況においても一度も奴の笑顔を見たことはなかった。
その入江直樹が、誰が見ているともわからない廊下でありながら、その冷めた表情を崩して、
彼女には微笑みかけている・・・
それは、つまり奴は、彼女に対してはいつもそうだということに他ならない。

もう一度胸に手を当ててみた・・・心なしか、さっきよりも鼓動が大きくなっているような気がした。
俺は、無意識に拳を握りしめた瞬間に、何かの呪縛から解かれたように二人に背を向けて歩
き始めた。


その時、俺は気付いていた。
俺自身も、あまり笑わないはずなのに、女なんてずっと避けてきたはずなのに、なぜか入江
琴子の前では、何の抵抗もなく笑っていたことを・・・

そして、長い廊下を医局に向かって歩きながら、頭の中で何度も同じ光景を反芻していた。

<私だったらきっと嫌だろうなって思うもん・・・>

そう言ったときの、入江琴子のあの優しい声色と、その表情を・・・


                                          つづく


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