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 オレ達の一番大切な日

「入江君?・・・まだ帰らないの?」
大学の図書室で、レポートを書いていたオレの後ろで琴子の声がした。

「ああ、まだかかりそうだから、お前先に帰れよ」
オレは、レポートから目を離さずに答える。


11月に入って、家の中がにわかに騒々しくなっていた。
オレと琴子の結婚記念日が近づいてきていたからだ。
家に帰れば、早々と結婚記念日の準備を始めたオフクロと琴子の勢いに巻き込まれ、
とても勉強などできたものじゃない。
だから今日だけは、琴子がどんなにわがままを言おうともこの席を立つ気はなかった。


「うーん・・・あのね、今日ちょっと一緒に行ってほしいところがあるんだけど、終るまで
待ってたらダメ?」
意味ありげな琴子の言葉に、オレはやっと頭を上げると振り向いた。


「どこいくんだよ?・・・オレ、今日中にこれ仕上げちゃいたいんだ。頼むから今日だけは
放っておいてくれ・・・」
オレは、突き放すように素っ気なく答えた。


「だって今日は・・・」
琴子が少し強い調子で言いかけた言葉を、途中で飲み込んでうつむく。


「えっ?」
オレは、歯切れ悪く黙り込んだ琴子の顔を覗き込んだ。


「ううん、やっぱりいい!・・・ごめんね、邪魔して。じゃあ、先に帰るね」
しばらく考え込んでいた琴子は、急に顔を上げると無理に作ったような笑顔を見せて背
中を向けた。
オレは、あまりに引き際のいい琴子に、いつにない違和感を覚えて、図書室の出口へ向
かう琴子の後姿をずっと目で追っていた。すると、ドアを押しかけた琴子が急に振り返り、
オレのところに戻ってくると、手に持っていた傘を差し出した。
「はい、雨が降るといけないからこれ置いてくね・・・」


「えっ?雨?・・・お前は?」


「今はまだ降ってないから大丈夫・・・じゃあ、家で待ってるね。がんばって!」
今日の天気予報は、雨だとは言っていなかったような気がした。
そして、やはり琴子の顔に浮かんだのは、貼り付けたような笑顔・・・その寂しげな表情
に、オレはなんだか大きな忘れ物をしているような焦燥感にかられて、琴子の消えたド
アを眺めていた。

オレは結局、図書室が閉まる時間までレポートを書き続け、家に帰り着いた時にはすで
に夕食の時間をだいぶ過ぎていた。玄関を入って、下駄箱をあけると琴子がいつも家の
中で履いているスリッパが入っていることに気がついてオレは首をかしげた。


―あいつ、いないのか?


不審に思いながら「ただいま」と声をかけると、チビと一緒に裕樹が顔を出した。
「おかえり・・・あれ?お兄ちゃん、琴子と一緒じゃなかったの?」


「えっ?琴子と?・・・あいつ、まだ帰ってきてないのか?」
夕方の図書室でのやりとりが蘇り、琴子が言っていた行きたかった場所が今さらなが
ら気になった。


「違うよ。普通に帰ってきて、一緒に飯も食ったよ・・・でも、ついさっき、お兄ちゃんが
遅いからそこまで迎えに行ってくるって出て行ったんだよ。行き違いになっちゃったの
かな・・・なんだか今夜の琴子はちょっと変だったし、ぼーっとしてどこか違う所にでも
いっちゃったかな」
裕樹が、半分からかい気味に半分心配そうに言った。


「変だったって、どんな風に?」
オレは裕樹に聞いた。


「うん、なんかぶつぶつ言ってたよな・・・一年前がどうのこうのとか、入江君と二人で
過ごしたかったとか言ってたな、だからいつも二人でいるだろって言ったら、そうだよ
ね、幸せだよねなんていいながら、笑ってたけどね」


オレは、裕樹の話と、夕方の琴子の様子を合わせて考えながら、一旦自分の部屋へ
上がった。
夕方の図書室で感じた何か忘れ物をしたような感覚が、再び胸に広がっていった。


オレは、携帯電話を取り出すと琴子の番号に電話をかけた。
ところがオレの耳に響いてきた呼び出し音と一緒に、部屋の中でバイブレーションが
空気を振るわせた。


―あの、バカ!携帯を忘れてるじゃないか。


なんだかオレは、得体の知れない不安に駆られて部屋を出ようとドアのノブに手をか
けた。その時、ふとドアの横にかけられたカレンダーに目が止まった。


11月のカレンダー・・・あれこれと予定が書き込まれた中に、ひときわ大きな赤いハート
マークが12日と21日の日付を囲んでいた。
12日はオレの誕生日、21日は結婚記念日・・・ところが、もっと上の日付にも小さなハ
ートマークがついていることにオレはその時初めて気がついた。


―これは、今日だ。


そして、はっと気づいた。
琴子が渡した傘、行きたかった場所・・・オレと二人きりで過ごしたかった今日・・・


―そうか、確かに今日はオレたちにとって、特別な日だ。あいつ、なんでちゃんと言わない!


オレは、気づくと同時に階段を駆け下りて、家を飛び出していた。
まったく、女ってのはどうしてそんなに記念日が大切なんだ・・・大したことじゃないのに
大騒ぎして、忘れてたこっちはものすごく悪いことをしたような気になるじゃないか。
オレは、ココロの中で悪態をつきながら、あのファミレスへ向かって走っていた。


そう・・・まるで一年前のあの日と同じように・・・


走りながらオレのココロは、今日を忘れていた罪悪感でいっぱいになった。
カレンダーに付けられた琴子のサインを見落としていたことが悔やまれた。

急に雨が降り出した・・・オレは空を仰ぎながら笑いが込み上げた。


―どうやら神様は琴子の味方らしい・・・これじゃあいつの思う壺だ。


結局、琴子が置いていってくれた傘は役にたたなかった。

オレはファミレスの見える角に差し掛かると、一旦立ち止まって様子を伺った。
まるで、あの日と同じように琴子は傘をさして立っていた。
オレは、ほっと胸をなでおろすと、あえてゆっくりと歩きながら、琴子に近づいていった。
オレに気づいた琴子の瞳が大きく見開かれるのが、遠目にもはっきりとわかった。


「来てくれたの?」
驚きを隠せない大きな瞳でオレを見つめながら琴子が言う。



「バカ!なんであの時ちゃんと言わなかったんだよ!」
オレは、ずぶ濡れになった髪をかきあげながらいきなり琴子を怒鳴りつけていた。


「だって・・・」


「だって、なんだよ!」


「ちゃんと言って、それでも行けないって言われたら立ち直れないって思ったんだもん。」
琴子は、頬を膨らませてオレを見上げた。


「だからって、言わなきゃわからないことだってあるだろ!」
オレは、自分が今日を忘れていたことなど棚に上げて、さらに声を荒げた。

「うん、ごめんね・・・でも入江君が勉強忙しいのわかってるし、私が思うほど入江君には
大切な日じゃないかなと思って・・・でもね、私にとってはどんな記念日よりも一番大切な
日なの・・・だって、入江君が私を好きだって言ってくれた日だから・・・本当は二人で来た
かったから一度はあきらめたんだけど、どうしても一年前と同じ日にここに立ちたくて、ひ
とりで来ちゃった。」
琴子は、照れたように言うと、舌を出して肩をすくめた。

「なんで、オレには大切な日じゃないなんて決め付けるんだよ」
オレは、琴子から目を逸らすとつぶやいた。


「だって入江君は、こういうの・・・」
オレは、琴子の言葉を遮ると、その肩を引き寄せて力一杯抱きしめていた。

一年前の感情が、一瞬にしてオレのココロに蘇っていた。
琴子に早くオレの気持ちを伝えたくて。
琴子の本当の気持ちを確かめたくて。
琴子を抱きしめたくて。
琴子にKissしたくて。
必死で走り続けたあの夜のことが、ひとつひとつ思い出された。
そして、今ではあの日以上に琴子を愛していることも・・・


「オレにとっても、大切な日に決まってるだろ・・・」
オレは、琴子を抱きしめたまま耳元にそっと囁いた。


「う、うん!」
琴子が、オレの腕の中で力強くうなづく。


思い出したよ・・・
まるで奇跡のように琴子を見つけたあの瞬間を。
琴子を取り戻したと実感したあの時を。
やっと素直になれた自分のことを。
ずぶ濡れになりながら重ねた唇のぬくもりを。
そして、ずっと一緒にいたいと思ったあの気持ちを・・・

いつの間にか雨は上がっていた。
オレは、琴子を胸から離すと、その頬を流れる雨なのか涙なのかわからない幾筋もの雫
を手のひらで拭った。
琴子もオレの髪を伝わる雨の雫を指で払い、見上げたその瞳がオレの目をはにかむよう
に覗き込んでいた。

「大好きだからね、入江君」

「ああ、わかってるさ・・・」


オレは、琴子の瞳に吸い寄せられるように唇を重ねた・・・
あの日、琴子が「二回目」とつぶやいた本当は三回目だったKissから何度となく交わした
Kissなのに、あの日とそっくりなシチュエーションのせいか今夜はやけにドキドキと胸が
高鳴った。

家に戻ると、突然飛び出したオレと、琴子を心配してオフクロがリビングで待っていた。
そして、まるであの日と同じようにずぶ濡れで戻ったオレ達を見て、ひどく興奮していた。
もちろん、そのあと喜びにテンションのあがったオフクロがビデオカメラを取りに走った
ことは言うまでもない。


その夜、オレは琴子を両の腕に抱きしめて眠った。
結局オレは、「ごめん」も「好きだ」も言えずにいたのに、琴子はとても幸せそうな顔で静
かな寝息を立てていた。

―どんな記念日よりも大切な日か・・・


あまりに琴子らしい一言が、オレのココロに焼きついていた。
オレも、もう忘れないよ・・・あの日がなかったらこうしてお前を抱いて眠ることもなかった
のだから。


「大好きだよ・・・琴子」

オレは琴子の閉じた瞼に小さく囁くと、その額に頬を押し当てながら目を閉じた・・・



                                         END



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