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 オレのナイチンゲール

―参ったな・・・

オレは、ベッドの中で固く両腕を組んで、思わず顔をしかめた。
もう何年もの間忘れていた感覚が、全身を覆っていた。

―そういえば、夕方飲んだコーヒーがやけに苦く感じたっけ・・・

歯が震えてくるほどの悪寒、頭と喉の痛み、そして何よりも鉛のように重い体・・・これは
完璧に風邪の症状だった。

オレは、なんとか頭を巡らせてベッドサイドの時計を見た・・・AM1:10
薬を飲まなくては、どうしようもない・・・
オレは、隣で寝ている琴子を起こそうと、組んだ腕を無理やり解いて手を伸ばした。
しかし、震える手をどこまで滑らせても琴子の体に触れない・・・

―琴子、いないのか?・・・

オレは、熱でぼんやりとした思考の中で、急に不安を覚えて、重い頭を持ち上げて部屋を
見回した。
そんな時だった・・・ふいに部屋のドアが開いて、廊下の明かりがオレの顔を照らした。
あまりの眩しさに目を閉じていると、オレの頭がそっと持ち上げられ、その下に素早く氷枕
が差し込まれた。
次に、オレの手首を持って脈を取り、やわらかな手のひらが額にあてられて、琴子の小さ
なため息が聞こえた。
ベッドの横で、琴子が立ち上がる気配がした・・・オレの首元まで毛布を持ち上げると、外
に出ている手を取って毛布の中に戻そうとするところで、オレは思わず琴子の手首を掴んだ。

「入江君?起こしちゃった?・・・」
琴子が心配そうにオレの顔を覗き込む。

「もう、だいぶ前から目は覚めてたんだ・・・お前の献身ぶりにちょっと感動してた・・・」
オレは、熱で浮かされた口でやけに素直な気持ちを言っていた。

「寝ようとしたら、入江君が震えてたからビックリしちゃって・・・入江君でも風邪ひいたり
するんだね・・・」
琴子は今にも泣きそうな顔をしながら、オレの額を撫でた。
「そうだ!薬持ってきてたんだった・・・飲むでしょ?」
琴子は、ベッドサイドに置かれた薬と水の入ったグラスを指差した。

「ああ、飲むよ・・・このままじゃ、明日の診療に差し支える・・・」
琴子に支えられながら、なんとか体を起こして薬を受け取る。

「ダメだよ。明日は病院は休まなきゃ・・・風邪ひいてるお医者さまじゃ、患者さんも困る
でしょ?」
琴子が、眉間に皺をよせてオレを諭す。

オレは、曖昧な笑みを浮かべながら、薬を飲み下すと、崩れるようにベッドに横たわった。

「琴子?・・・悪いけどお前、あっちのソファで寝てくれよ・・・こままじゃ、それこそお前に
風邪が移っちゃうからな・・・」

しかし、琴子はオレの言葉に強く首を振ると、床に座り込んでオレの手を握りながら言った。
「大丈夫だよ!こうしてずっと付いててあげるから、入江君は早く眠って。薬を飲んだか
らじきに熱もさがるよ・・・ねっ!」

オレは、気だるいせいもあって、それ以上琴子に抵抗する気もなれず、目を閉じた。

薬が効き始めるまでの間だったのか、オレはうつらうつらと夢と現の堺を彷徨っていた。
何かに追いかけられて必死で逃げ回る夢や、底のない穴に落ちていく夢を見ては、驚い
て目を覚ました。
激しく動悸する胸に手を押し当てながら横を見ると、必ず目の前に琴子の顔があり、そ
の手はしっかりとオレの手を握っていた。

時には、オレの頭の横で寝息をたてて眠っていたり、また時には、乾いたタオルでオレ
の汗ばんだ額を拭いてくれていたり・・・
そしてオレは、そんな琴子を見ると、不思議と安心してもう一度目を閉じることが出来た。

―今夜ばかりは、お前がナイチンゲールに見えるよ・・・

そして、徐々に下がって行く熱に体も楽になり、オレはいつの間には深い眠りの中に落ち
ていた。



翌朝、オレは琴子の献身的な看病のかいあってか、普段と変わりないようにすっきりと目
を覚ますことができた。
体を起こすと、昨夜のナイチンゲールは疲れ切って眠っていて、少し揺すったくらいでは
起きそうもない・・・

オレは、琴子をそのまま起こさずに部屋を出ると、乾いた喉を潤すためにパジャマのまま
階下へと降りて行った。
すると、オフクロとオヤジが電話を持ってオロオロとしている。
オレが顔を出すと、オフクロが「お兄ちゃん!」と叫びながら飛んできてオレを引っ張って
キッチンへと連れて行った。

オレは、キッチンに一歩入ったところで、驚いて目を見開いた。
水浸しの床・・・戸棚という戸棚の扉は全て開け放たれ、中の物が散乱したキッチンはひ
どいありさまだった。

「ねえ、お兄ちゃん!どうしてキッチンだけがこんななんだと思う?泥棒かしら?今パパと
警察を呼ぼうかどうしようか相談していたのよ!」

オレは、まず水を一杯飲んだ。
そして、堪えきれずに笑い出した。
昨夜の琴子の慌てぶりが目に見えるようで、とにかくおかしくてたまなかった。
オレの前では、あんなにも完璧にナース然としていたのに、本当はかなり動揺して、慌て
ていたんだろうと、今さらながら思えて胸が熱くなった。


―その方がよっぽど琴子らしい・・・

オフクロが、驚いてオレの顔を見ている・・・オレは、たまらずに言った。
「オフクロ、警察なんて呼ばなくても大丈夫だよ・・・たぶん、このキッチンから無くなって
いるのは、氷枕とグラスくらいなもんさ」

オレの大笑いを聞きつけて、電話を持ったままのオヤジがキッチンに飛んで来た。
そして、きょとんとした顔でオレを見ているオフクロと、笑いの止まらないオレの顔を交互に
見て不思議そうに首をかしげていた。

「琴子の仕業だよ・・・」
オレは、まだ湧きあがってくる笑いをなんとかこらえながら昨夜のことを話して聞かせた。

「まあ、お兄ちゃんが熱?・・・琴子ちゃんが看病?・・・きゃあきゃあなんて素敵なの〜!」
オフクロは、オレの話を聞いてひとりで盛り上がって喜んでいる。
オレの体の具合などまったく気にしていないようすで、もっぱら琴子の献身ぶりに胸をとき
めかせているようだ。


「それで?我が家のナイチンゲールはどうしたのかな?」
オヤジが、そう言って階段の方を見たときに、バタバタとスリッパの音を響かせて当の琴
子が駆け降りてきた。

「い、入江君!熱は?・・・寝てなくて大丈夫なの?」
琴子は食つかんばかりの勢いで、オレの額を触った。
オレは、その手を掴んで下ろすと、「大丈夫だよ」と微笑んで見せた。

「琴子ちゃんのお陰でお兄ちゃんは、たった一晩で熱も下がったのよ〜愛の力ね・・・」
オフクロの歯の浮くような褒め言葉に、琴子ははにかんで顔を赤らめている。

―まったく・・・ただ単にオレの体が丈夫だからだと思うけどな・・・

「それにしても琴子・・・まるで泥棒が入ったみたいなこのキッチンを見てみろよ・・・」
オレは、呆れ顔で琴子に言った。

「えっ?・・・」
琴子は、オレに言われて今初めて気づいたように、キッチンをぐるりと見回して蒼ざめて
いる。

「いいから、いいから・・・とにかく二人とも着替えてらっしゃい」
オフクロの言葉に、うなだれた琴子を連れてオレはキッチンから出た。


「入江君、ホントに大丈夫なの?」
琴子がもう一度聞く。

「大丈夫だよ」
オレは、答える・・・しかし、どうしても心配なのか、琴子がふいにオレの顔を両手で挟んで
引き寄せると、オレの額に自分の額を押し付けて来た。

―ん?・・・こいつ熱いな・・・

「あれ?・・・入江君のおでこ、随分と冷たいね・・・」
琴子が、オレの頬を両手で挟んだまま、不思議そうに言う。

オレは、思わず琴子の額に手を当てた。
「お、お前の方が熱があるんじゃないか?」

「えっ?あれ?・・・今度は私が風邪ひいちゃったかな・・・」
そういうが早いか、琴子がヘナヘナと床に座り込んだ。

「お、おい琴子!しっかりしろよ・・・」



・・・結局、昨夜の看病でしっかりと風邪をもらった琴子が、今度は氷枕を当ててベッドに
寝ることになった。
オレは、迷わず病院を休み、琴子の看病をすることにした。

「私はひとりで大丈夫だから、入江君は病院に行って!」
琴子は、そう言った。

もちろん、今までのオレならオフクロにでも琴子を任せて病院へ行ったかもしれない・・・
でも、今日ばかりはオレが琴子に付いていてやりたい・・・赤い顔をして、荒い息をしてい
る琴子を見ながらそう思った。


昨夜、オレは身をもって知ることが出来たんだ。
医者よりも、薬よりも、何よりも愛する者の手のぬくもりが、どれ程病人の不安な気持ち
を取り除いてくれるかを・・・

オレにとって琴子の手がそうであったように、きっと琴子にとってもオレの手がそうである
にちがいない・・・だから今日は、ずっとそばにいてやると、そう決めたんだ。

「結局、入江君に迷惑かけちゃった・・・ごめんね・・・」
琴子が、熱に浮かされた顔でつぶやく。

「そんなこと気にしないで、少し眠れよ・・・ただでさえ寝不足だろ」
オレは、まるで昨夜の反対のように、ベッドの脇にあぐらをかいて座りながら、寝ている琴
子の髪を撫でていた。

ふいに琴子が身震いをして、体を縮めた。
「寒いのか?・・・」
オレが聞くと、琴子が力なく頷く。

オレはふと思いついて、毛布をめくると琴子の湧きに体を横たえた。
そして、戸惑い顔の琴子を引き寄せて抱きしめた。

「い、入江君・・・そんなことしたらまた風邪が移っちゃうよ・・・」

「バカ!オレが移した風邪だろ、少なくともオレはもうかからないよ!お前、本当にナース
かよ」


しばらくすると、昨夜のナイチンゲールは、少し苦しげな呼吸を繰り返しながらオレの腕の
中で眠りに落ちた。
オレがこうしていれば、きっと恐い夢を見ることも無い・・・
そして、次に目が覚めるころには薬も効いて、きっと随分と楽になっているはずだ。


―そういえば、オレだってまだ病み上がりなんだよな・・・


そして、まるで火の玉を抱いているかのように熱い琴子を抱きしめながら、いつの間にか
オレも眠りの中に引き込まれていた・・・



                                                    END




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