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 愛妻弁当とかくれんぼ


―これは、異常事態だ・・・

オレは、医局のオレのデスクの上に置かれた弁当箱を見下ろして、そう思った。

「おっ?入江、愛妻弁当か?・・・」
一緒にICUから戻ってきた先輩医師が、オレの肩を叩きながら冷かすように言って行く。
オレは、その言葉に曖昧な笑みを返しながら、弁当箱の下に差し込まれたメモを引き抜いた。

<しっかり食べてがんばってね!  愛する妻より>

ご丁寧に、キスマークまで書かれたそのメモを見ながら、オレはなぜかいつものように笑え
ずにいた。

―琴子のやつ・・・なに考えてんだ?


ここ数日のオレの忙しさが、まるであの骨折前の頃のようだったのは確かだ。
難しい手術の連続、それに伴う治療や、カルテの整理に追われ、一昨日からは病院に泊り
込んでそれに対応していた。

今夜も泊まりになると、琴子にメールしたのが夜の7時頃だっただろうか・・・
もう家に帰っていた琴子からは、「わかった」とただひと言返事が返ってきただけだった。
その時も、多少はおかしいと思いながらも、患者の術後の経過を見るためにICUに詰めてい
て、深く考える余裕などはなかった。

オレは一昨日から家に帰っていないんだ・・・それなのに、琴子がオレの顔も見ずに、弁当だ
けを置いて帰ってしまうなんて、今まででは絶対に考えられないことだ。

そういえば、今日は病院で琴子の顔を見ただろうかと考えた。
オレは、弁当を食べながら、今朝仮眠室で目覚めてから、今までの記憶をたどって行った。
朝の、教授回診の時に、ナースステーションの中から手を振る琴子の姿が浮かんだ。

―あとは?・・・

その後は、午前中は外来、午後は昼食もそこそこに手術室で、その後はICUと医局の往復・・・
ただ、こんなことは日常茶飯事のことで、今日だけのことではない。
琴子はいつだって、そんな分刻みのようなオレのスケージュールの合間を縫うように、必ず
どこからか現れて、うるさいほどにまとわり付いていたのに・・・

どんなに考えても、朝以来琴子の顔を見ていないことに、オレはあらためて気づいていた。

―やっぱり、これは異常事態だ。

しかし、そう気付けば、琴子が何を考えているかなどはある程度想像できた。
大方、オレが骨折した時のことを思い出して、勝手に盛り上がって我慢しているんだろう・・・

―まったく、やることが極端なんだよな・・・

オレは、琴子にメールをしてやろうとポケットから携帯電話を取り出した。
しかし、それを阻むようにデスクの電話が鳴り出し、結局メールを打つ暇もなく、ICUへ呼び
戻されてしまった。


翌朝、仮眠室で目覚めたのは、朝の6時。
朦朧としながら、顔を洗って、まずはICUの患者の様子を見に行く。
しかし、オレの頭の中には、目覚めた時からずっと琴子の顔が浮かんでいた。
昨夜のことで、なぜか琴子のことが気になって仕方がなかった。

オレは、ICUへ向かいながら、ふと琴子の病棟のナースステーションに立ち寄った。
この時間に、琴子がいるはずはないと思いながら、無意識の内に足がそちらを向いていた。
何人かの顔見知りのナース達に挨拶をしながら、オレはさりげなく琴子が今日は9時に出
勤することを確認して、急いでICUへと向かった。

朝の9時が過ぎ、オレは時計を気にしながら、まずは午前中に行われる手術の準備をした。
その最中も何度か医局や病棟を往復しているのに、なぜか琴子の姿を見ることはなかった。
そして、そのまま手術室に入り、やっと医局へ戻れたのは夕方近くになっていた。
壁の時計を見ると、間もなく4時になるというところ・・・このままでは、今夜も泊まりになるか
もしれないと思いながら、オレは意を決して琴子が勤務している病棟へと向かった。

長く真っ直ぐな廊下を歩きながら、オレは苦笑していた。
普段は、意味もなくまとわり付いている琴子を、わずらわしいと思うこともあるのに、オレは
今こうして琴子の顔を見に行こうとしている。

―ん?・・・もしかしたら、これは新手のあいつの作戦か?

そんな考えさえ浮かぶほど、みごとにオレのココロを掴んで離さないのは、昨夜の弁当の
一件だ。
もしも、オレに気を使ってあんな行動をとったのだとしたら、それは逆効果だったということ
になるだろう。
逆に、これが琴子の作戦なのだとしたら、効果はてき面だったというこになる。

いずれにしても、この気持ちは琴子の顔を見るまではおさまりそうもない。
オレは、あまり疲れた様子は見せないようにと、少し背筋を伸ばしながら、ナースステーシ
ョンを覗いた。

「あら、入江先生・・・どうされました?」
ナースステーションの中から、看護師長がオレを見つけて声をかけて来た。

「いや・・・琴子はどこにいますか?」
オレは、照れた顔にならないように、無理に真顔をつくって師長に聞いた。

「ああ・・・琴子さんは、これから手術を受ける患者さんを手術室に送って、たった今出発し
たところなんです・・・そうですね、向こうでの申し送りとかもありますから、しばらくは戻っ
てこないと思いますが・・・」
師長は、申し訳なさそうに答えた。

これから、手術室の方まで足を伸ばして琴子を探しにいっている時間はない。
一度ずれたタイミングというのは、なかなか元にはもどらないものなのかもしれないと思い
ながら、オレは師長に頭をさげて、ナースステーションをあとにした。


医局へと戻りながら、オレは、今のこの状況が琴子の作戦であってほしいと密かに思って
いた。
作戦ならば、今のこの状況はある程度琴子自身が作り出したものなのだから、きっと我慢
もできるだろう。
しかし、もし余計な気を使ったばかりに生まれた偶然ならば、ずっとオレに会っていない琴
子はそろそろ限界なんじゃないかと思えて、急に心配になってきた・・・それはもちろん、琴
子の状態だけではない、そんな琴子に世話をされる患者に対してもということだ・・・


オレ達は、確実に同じ建物の中にいるのに、なぜか会えずにいる。
そうなると、何が何でも会いたくなる・・・人間の心理とはそういうものだ。
オレは、今日は絶対に家に帰ろうと、強く決心していた。

―琴子・・・どこにいるんだよ。かくれんぼは、もうおしまいにしよう・・・

オレは、ふと思いついて、あたりを見回して誰もいないのを確かめると、携帯を取り出して
琴子にメールを打った。

<帰る前に、必ずオレを探して会いに来い!!!>

―ビックリマークを3つもつけてやった・・・

これで、琴子はなんの遠慮もなく、オレを探して回るだろう・・・
何をするにも、こっちの方が一枚上手なんだと、オレは、思わずほくそ笑んだ。
琴子がオレに会いたいのを我慢していることだけが全てじゃないことを、琴子はいまだに
わかっていないらしい・・・

―オレが、お前の顔を見たいと思ってるかもしれないってこと、考えないのか?・・・


オレは、今にも、その角から琴子が顔を出すのではないかと、期待しながら廊下を歩いてい
った。
そして、オレの脳裏には、その時すでに、半べそをかきながら「会いたかった」と抱きついてく
る琴子の姿がくっきりと浮かんでいた。


                                              END




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