≪Menu
 オレの生きがい


「入江く〜ん!こっちこっち!!」
琴子が、手を振っているのが見えて、オレは足を速めた。

今日は、二人とも夕方に仕事が上がれるということで、久しぶりに一緒に帰って琴子の買
い物に付き合ってやることになっていた。
オレの仕事も、前にも増して忙しくなり、なかなか琴子にかまってやる暇もない・・・
正直、まっすぐ家に帰って休みたいところだが、ここのところの忙しさで、すでに2回も琴子
との約束をすっぽかしていた。
だから、3回目の正直とばかりに、張り切っている琴子を見ていると、さすがのオレでも何
も言うことは出来なかった。

「入江君、早く行こう!・・・買い物はすぐに済ますから、そしたら家に帰ってゆっくり休もう
ね・・・」
琴子は、満面の笑みを浮かべて、オレの手を取ると楽しげに歩き出した。
本当なら、あれこれとプランを考えて、オレを連れまわしたいはずなのに、琴子はどうやら
オレの体に気を使ってくれているらしい・・・

オレは、琴子の嬉しそうな顔に、とても癒された気がして、今日はしっかりと付き合ってやろ
うと心に決めていた。

しかし、オレが左手を琴子の肩に回したちょうどその瞬間に、オレの胸のポケットで携帯電
話が振動し始めた。

―きっと、病院からの呼び出した・・・

オレは、琴子の顔を横目で見ながら、電話に出ることを躊躇していた。
この電話に出てしまったら、きっとまた琴子を一人で帰すことになる。
前の約束の時も、その前の約束の時も、これからという時に無情な携帯電話の振動が、琴
子の表情を曇らせたのは言うまでもない・・・

―気がつかなかったことにすればいい・・・琴子に付き合った後で電話をかければいい・・・

一向に止まる気配のない携帯電話の振動を胸に感じながら、オレは悪魔のささやきを聞い
ていた。
すると、それまで機嫌よく前を向いて歩いていた琴子が、ふいに立ち止まってオレの顔を見
ると、ポケットから電話を引き抜いて着信ボタンを押した。

「はい、入江直樹の携帯です・・・はい、私は妻の琴子です・・・はい、今かわりますね・・・」

呆気にとられているオレに向かって、琴子が笑みを浮かべて電話を差し出す。
「はい、入江君。すぐに病院に戻って欲しいって・・・私は大丈夫だから、心配しないで・・・」

オレは、琴子から携帯を受け取ると、受話口を耳にあてた。
「はい、入江です・・・えっ?緊急オペですか?・・・はい、わかりました。すぐに戻ります」

オレは、電話を切ってポケットにしまうと、琴子へ振り返った。
すると、意外にも琴子は笑顔のままで、オレを見つめていた。
「こ、琴子?・・・」
オレは、戸惑いながら琴子に声をかけた。

「もう〜大丈夫だってば〜いつものことじゃない!もう慣れっこだよ。私は大丈夫だから、入
江君はここから戻って!私はひとりで買い物して、帰るから心配しないでね・・・」
琴子は、平然とした顔でそう言うと、にっこり笑って小さく手を振った。

結局、最後まで琴子は笑顔を浮かべたまま、オレを見送った。
オレは、胸にちくちくする痛みを感じたまま、琴子に背を向けて歩き出した。
角を曲がる時に振り返ると、夕暮れの中で、茜色に染まる琴子の背中が小さく見えた・・・
オレはほんのしばらく立ち止まって、なんだか寂しげなその背中を見つめた後、意を決して
琴子の後姿を振り切った。


容態の急変した患者への手術は4時間に及び、なんとか成功はしたもののまだ予断を許さ
ない状態だった。
そこで、手術をしたスタッフは、それぞれに病院内で待機するということになり、オレは自分
のオフィスにいると声をかけてICUを出た。

すでに10時を回った病院の廊下を歩きながら、オレは夕方別れた琴子のことが気になって
いた。
いつになく物分りのいい琴子の態度が、逆にオレの不安にさせていた。

―今夜も帰れそうにないからな・・・

オレは、とにかく早く琴子に連絡をしようと思い、常夜灯だけの薄暗い廊下を足早にオフィス
に向かっていた。

オフィスのドアの前に立つと、ポケットから出した鍵を鍵穴に差し込んで左へ回す・・・
しかし、回し切った鍵からは何の手ごたえもなく、オレは不審に思いながらそっとドアノブを
まわしてみた。すると、ドアはあっけなく開いて、部屋の中には明かりが灯っている・・・

―琴子だな・・・

オレは、瞬間的にそう思い、探るように覗き込みながらオフィスの中に入っていった。


デスクのパソコンの前に、弁当箱が置かれているのが見えた。
そして、当の琴子は自分で作った抱き枕を抱えた格好で、ソファの上で静かな寝息を立て
ていた・・・

オレは、ふっと気が緩むのを感じながら、琴子が眠るソファの前に跪いた。

琴子の顔にかかった髪を、指でよけてやりながら、その寝顔をじっとみつめる。
オレは、この寝顔がどれ程疲れたココロと体を癒してくれるかを知っている・・・

オレは、このまま琴子の寝顔を見つめていたい誘惑に駆られながらも、やはり早く起こし
て家に帰さなければいけないと思い直して、琴子の体を揺さぶった。

「琴子?・・・起きろよ、琴子!」
「う、うーん、あっ、入江君、終ったの?・・・私ったら、ほんのちょっと横になるつもりで、結
局眠っちゃったんだ・・・」
寝ぼけ眼を擦りながら、琴子がオレの顔を見る。

「オレ、今夜も帰れそうにないんだ・・・タクシー呼んでやるから、お前は帰れ・・・」
オレは、琴子の髪を撫でながら、努めて優しく声をかけた。

琴子は、オレの言葉を聞きくと、ふいにうつむいて何かを考えているようだった。
オレは、そんな琴子の顔を覗き込みながら、念を押すように「なっ?」と声をかけた。
すると、急に琴子がオレの首に両腕を回して抱きついてきた。
心なしか、体が震えているように感じるのは、もしかしたら泣いているのか・・・

「もういやだ・・・」

その声は小さく、それでいて深い響きを持ってオレの耳に飛び込んできた。

―えっ?

オレが、驚いて琴子の体を離そうとすると、琴子はさらに腕に力を込めてオレの首を抱きし
める・・・

「もういやだ・・・どうして入江君はお医者様になったの?・・・いつも忙しくて、いつも家にい
なくて、私はいつも寂しくて、でも我慢して・・・入江君はいつも疲れてて、それでもたくさん
の患者さんが入江君を待ってて、私は何も助けてあげられなくて、どうしていいかわからな
くて・・・」

肩越しに聞こえる琴子の言葉が、オレのココロに沁み込んでいく。
オレは、ただ琴子の背中を撫でながら、琴子が言うにまかせていた。
夕方の物分りのいい琴子より、こうやって駄々をこねている琴子の方が、ずっと琴子らし
い・・・
めちゃくちゃに並べられた言葉が、そのまま今の琴子の複雑な気持ち・・・オレのそばに
いたくて、オレの体が心配で、特に、オレのために何もできないと思い込んでいるところが
一番琴子らしいとオレには思えた。

「そんなこと言うなら、なんで夕方はあんなに物分りよくオレと別れたんだよ・・・」
オレは、琴子の耳元でからかうように言った。
もちろん、琴子の答えなどわかりきっている・・・全てはオレのため・・・

―そんなこと、オレは望んでいないのに・・・

「だって、そうしなきゃ入江君が行きづらいかなと思ったから・・・」
琴子は、オレの思った通りの答えを返す。
オレは、琴子を抱きしめたまま、顔が見えないのをいいことに思わず笑ってしまっていた。

「それで?・・・結局はここへ来て、オレの仮眠用のソファを占拠して文句言ってるのかよ」
オレは、そういいながら笑った顔を元に戻せなくなっていた。

すると、琴子が「ごめん」と言いながら弾かれたようにオレから離れると、勢いよくソファか
ら立ち上がった。
オレは、我慢できなくなって吹き出しながら琴子の顔を見た。

「入江君、ごめんね・・・結局こうやっていつも入江君を困らせて・・・」

―別に困ってねーけど。

「お医者さまは、入江君の生きがいなのに、変なこと言ってごめん・・・」

―えっ?・・・オレの生きがい?・・・

「お、お弁当食べてね・・・私、帰る・・・」

琴子は、おろおろしながらバッグを掴むと、ドアに向かって歩き始めた。
目の前を通り過ぎていく琴子をじっと見つめる・・・そしてオレは、琴子が完全にオレに背中
を向けた瞬間に、その腕を掴んで引き戻した。
足のもつれた琴子を庇いながら、ソファに倒れこむ・・・
オレは、そのまま琴子の上に覆いかぶさると、その唇に唇を重ねていた。

「バカだな・・・いつも言ってるだろ?・・・お前は、お前らしくそのままでいればいいって・・・
変な気を使うなよ」
オレは、琴子の額に自分の額を押し付けながら、諭すようにつぶやいた。

琴子は、何も言わずにただ何度も頷いている・・・
オレは、無性に琴子が愛しくて、このまま帰したくないと思い始めていた。

「なあ、このままここに泊まって行っちゃえよ・・・」
オレは、琴子を抱きしめたまま、そっと囁いた。

「入江くんったら、何言ってるの?ここは病院だよ!そんな不謹慎なこと!!」
琴子が、目を丸くしてオレの顔を見る。

「じゃあ、こんなことしてるのは不謹慎じゃないのかよ・・・」
オレは、にやりと笑ってそういいながら、もう一度琴子の唇に深いキスをした。

照れたように顔を赤らめた琴子が、オレの首に腕を絡ませてくる。
オレは、しばらくの間、琴子の頭を胸の上に抱いたまま、ソファから天井を見上げていた。

手術の疲れも吹き飛び、そこがどこかということさえ忘れてしまうほど、オレはその時に
浸っていた。

オレが、どうして医者になったかと聞いた琴子・・・
医者がオレの生きがいだといった琴子・・・

―お前、本当に何もわかってないんだな・・・

オレは込み上げる笑いを堪えながら、腕の中の琴子の髪を撫でていた。


琴子がオレの人生に与えた影響は計り知れない・・・
その無鉄砲な性格と、一途な想いだけで、オレは浄化されて、変化していった・・・
オレに誰かのために生きることの意味を教えてくれた。

それなのに、いつまでたっても、自分のことを足手まといだと思っている琴子に、琴子の
存在そのものが、まさにオレの生きている意味なのだとわからせるにはどうしたらいいん
だろう?
そして、琴子こそがこのオレを医学の道へと導いたのだということも・・・

ふと、横を見ると、琴子は、薄っすらと微笑みを浮かべたまま、再び静かな寝息をたてて
いた。

―これで、もう帰せなくなっちゃったな・・・

オレは、琴子の頬に唇を押し当ててからそっとつぶやいた。
「お前は、すごい勘違いしてることに気付いてないんだな・・・オレの生きがいは、お前なの
に・・・いい加減、わかってくれよ・・・」


静寂に包まれたオフィスに、壁に掛けられた時計の針の音だけが規則正しいリズムを奏
でている。
オレは、やっぱり不謹慎かなと思いながらも、結局そのまま琴子を抱きしめていた。

今夜は、オレ達の邪魔をする携帯が、このまま朝まで鳴らないことを強く祈りながら・・・


                                              END




Menu