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 僕の誤算

僕は、イライラしながら携帯電話を見つめると、あからさまに大きなため息をひとつついた。

「なによ、裕樹くんったら朝から大きなため息なんかついちゃって」
琴子が、僕の前に座っているお兄ちゃんにコーヒーを注いでやりながら言う。
寝ぐせのついたままの髪の毛とパジャマ姿のところを見ると、今日は仕事が休みなのか・・・

「別に・・・お前には関係ないよ」
僕は、素っ気なく答える。

「お前じゃなくて、お義姉さんでしょー?」
琴子が、口を尖らせて僕に抗議する。

―まったく、空気の読めない奴・・・

僕は、不機嫌な顔のまま琴子を一瞥すると、何も答えずに知らんぷりを決め込んだ。

「何よーその顔は!・・・携帯電話なんか見ちゃって、どうせ好美ちゃんから連絡が来なくて
イライラしてるんでしょう?」
琴子は、ニヤリと笑いながら言い放った。

―えっ?・・・

僕は、思わず琴子の顔を見た。
どうして、僕のイライラの原因を、琴子がいとも簡単に言い当てるんだ?

「お前、何か知ってるのか?」
僕は、ちょっとせっかちに聞いてしまっていた・・・「しまった!」と思った時には、すでにあと
の祭り・・・

お兄ちゃんの顔をちらりと見れば、新聞を読みながら、心なしか笑っているようにも見える。
それはもう、琴子が聞いたことを、肯定しているようなもので、僕の態度を見て、琴子は我
が意を得たりとテーブルの上に乗り出してきた。

「ねえねえ、どうして好美ちゃんにあんなこと言ったの?」
琴子は、全てお見通しといったように、いきなり核心をついてきた。

「ぼ、僕が、好美に何を言ったっていうんだ」
僕は、思わずのけぞりながら聞き返した。

「<今日から、試験勉強が忙しいんだ、しばらく会えないし、連絡もとらない>って、言った
でしょ?好美ちゃんに!」
僕の声を真似ているつもりなのか、わざと低い声を作って琴子は言った。

「お、おい!なんでそれを・・・まったく、好美のやつ・・・」
僕は、明らかに赤面している顔を伏せながら、苦々しい気持ちでつぶやいた。
琴子が教育実習で僕の中学に来た時から、琴子と好美がとても仲が良いことはもちろん
知っている・・・
琴子のおかげで、僕と好美が付き合うことになったというのも、認めたくはないが、よくわ
かっている・・・でも、だからと言って、なんでも話していいってわけじゃないだろう!

「あら、裕樹ったら好美ちゃんにそんなこと言ったの?」
キッチンに立っていた母さんまでもがわざわざ顔を出して、僕を責めるような目で見ている。

そうさ、言ったさ・・・
あれは、好美と長い時間チャットをしていた翌日のことだった。
その日に、数学のテストがあることは知っていたが、チャットで好美の話が終らず、そのま
ま予習もそこそこに眠ってしまった僕は、いつもなら軽く満点を取れるテストで、ちょっとした
ミスをしてしまっていた。
数日後に戻ってきた95点の答案用紙を見て、思いのほか自尊心を傷つけられた僕は、定
期試験の範囲が発表された5日前に好美に言ったんだ。

『今日から、試験勉強に集中したんだ。しばらく会わないし、出来ればメールやチャットも勘
弁してくれな・・・』
僕の言葉に、好美は一瞬泣きそうな顔になりながらも、しっかりとした声で「わかった」と答え
て、笑顔すら浮かべていたんだ・・・

でも、試験さえ終れば、またいつものように会えるし、連絡だって取れるんだから別に大丈
夫だと思っていた。
いや、それよりも僕が、こんな風に好美から何も言ってこないことを、イライラしながら考え
ることになるとは、誤算もいいところだった。

僕は、これ以上あれこれ言われるのを避けるため、あわてて残っていたコーヒーを飲み干す
と、カバンを持って立ち上がった。
すると、それまでずっとダンマリを決め込んでいたお兄ちゃんが、「オレも、一緒に出るよ」と言
って席を立った。

「おい、琴子・・・オレ、今夜は病院に泊まりになると思うから、夜は待ってなくていいぞ」

玄関で靴を履いていると、お兄ちゃんが琴子に声をかけているのが聞こえてきた。

「ええ〜〜!また泊まりなの?・・・夜、ひとりなのはいやだな・・・」
琴子が、甘えたような声で言っている。

「仕方ないだろう?・・・」
お兄ちゃんの答えは、いつものごとく素っ気ない。

「じゃあ、今夜はお弁当作って持って行ってあげる〜!」
琴子が急にはしゃいだような声で言った。

「病院の食堂で何か食べるから、いらないよ」
多少、怒気を含んだ言い方で、お兄ちゃんが琴子の言ったことを制した。
しかし、琴子はまったく引き下がる気配もなく、「持って行きたい!」と駄々をこねる。

―また始まった・・・

僕は、ため息をついてその様子を伺っていた。
すると、「持って行きたい」「いらない」といった問答を繰り返しながら、だんだんと声が近づ
いてきて、二人の姿が玄関に現れた。

「だって・・・」
琴子が、お兄ちゃんのシャツの端を掴んだまま、上目遣いにお兄ちゃんを見上げた。

「だって、何だよ・・・」
お兄ちゃんは、琴子がシャツを掴んでいるのもお構いなしに、下駄箱から靴を出して下に置
いた。

「だって、私は今日はお休みなんだよ・・・そしたら、もうこれで明日、私が病院に行くまで会
えないってことでしょう?もしかしたら、入江君は夜勤明けで私が行くよりも先に帰っちゃうか
もしれないじゃない・・・そしたら、明日の夜まで会えないじゃない!」
琴子は、一気にまくし立てると、無理やりお兄ちゃんを自分の方に向かせて、瞬きもせずに
大きな瞳で見上げてお兄ちゃんの答えを待っている。

その瞬間、お兄ちゃんが大きなため息をついた・・・

―この勝負、またお兄ちゃんの負けだな・・・

僕は、込み上げる笑いをなんとか堪えながら、お兄ちゃんと琴子の顔を交互に見ていた。

「好きにしろ!」
お兄ちゃんはそう言って、琴子が掴んでいるシャツの端を、無理やり引き離すと、笑ってい
る僕をひと睨みして先に玄関を出ていった。

僕が、そっと琴子の顔を振り返ると、琴子は満面の笑みを浮かべてお兄ちゃんに手を振っ
ている。
そして、その笑顔のまま僕の顔を見ると、「好美ちゃん、会いたいって泣いてたよ」とひと言
言って、弾むように家の中へ消えていった。

―なんだよ、あいつ!

僕は、呆気に取られながら、もう随分と先に行ってしまったお兄ちゃんの背中を追いかけて
家を飛び出した。

僕は、ポケットに入れた手で、携帯電話を握りしめながら考えていた。
琴子が言った通りのことを、好美に言ったのが5日前、それからピタリと好美からの連絡が
来なくなった。
メールくらいしてきてもいいのにと思ったのが、3日前・・・そして今朝、僕は自分が言ったこ
とを棚に上げて、何も言ってこない好美に腹を立てていた。

―もし、これが琴子だったら、もうとっくの昔に会いに来てるんだろうな・・・

僕は、たった今目の前で展開されたお兄ちゃんと琴子の問答を思い返して、思わず笑った。

「何がおかしいんだよ・・・」
それまで、何も言わずに隣を歩いていたお兄ちゃんが、ふいに言った。

「別に・・・」
僕は、顔をなんとか真顔に戻しながら答えた。

「お前さ・・・ちゃんと彼女に会いに行ってやった方がいいぞ」
お兄ちゃんが、前を見たままポツリとつぶやいた。

「えっ?・・・」
僕は、正直に言って、自分の耳を疑った・・・あのお兄ちゃんが、僕に好美に会いに行けと
言ったんだ・・・
琴子と出合ってから、お兄ちゃんがとても変わったことは、いつもすぐそばで二人を見てき
た僕が一番よく知っている。
今朝の二人の問答だって、最終的にお兄ちゃんが折れているように見せかけて、本当は
お兄ちゃんがそれを楽しんでいることだって僕にはわかっている。

でも、琴子と医学のこと以外には、相変わらず何事にも無関心なお兄ちゃんが、僕と好美
のことを気にして言葉をかけてくるなんてことは、今までにはなかったことだ・・・

「そ、そんなこと言ったって、お兄ちゃんは今の僕みたいな経験はしたことがないだろう?
・・・あの琴子が何日も会いにも来ない、何も言って来ないなんてこと・・・」
僕は、勢いに任せて、お兄ちゃんに否定的な物言いをした。
すると、お兄ちゃんは以外にもとても優しい顔で僕を見ると、「オレにだってあるよ」と答えた。

「じゃ、じゃあ聞くけど、そういう時お兄ちゃんはどうしたのさ?・・・まさか、会いに行ったなん
て言わないだろうね・・・」
僕は、少し引きつった笑いを浮かべながら、挑むようにお兄ちゃんに聞いた。

「バカだな・・・会いに行ったに決まってるじゃないか・・・」

「えっ?・・・」

僕は、お兄ちゃんの顔を見ながら、完全に言葉を失っていた。
お兄ちゃんは、本当にこれ以上ないと思えるほどの優しい表情を浮かべて、遠くを見ながら
何かを思い出しているようだった。

「それに、そんなに何日もオレに会わなかったら、あいつがどんな状態になるか、お前だっ
て知ってるだろ?・・・先手必勝だよ」
お兄ちゃんは、そう言うと、僕を見てニヤリと笑った。

「先手必勝って・・・」

「琴子は、ああやって人の気もお構いなしに自分の気持ちをぶつけてくる奴だからまだいい
でも、お前の彼女はどうなんだ?お前に言われたことを、しっかりと守って寂しいのを我慢
している子だったら、お前ってホントいやな彼氏だよな・・・お前だって会いたいくせに、向こ
うが何も言って来ないって怒ってるんだから・・・」
お兄ちゃんは、そう言うと、まるで僕に考える時間を与えるように、プツリと何も言わなくなった。

そして、一緒に乗っていたバスを、お兄ちゃんの方が先に下りる時になって、ひとこと、まる
で諭すように僕に言って行った。
「琴子と好美ちゃんは違うぞ」


お兄ちゃんと別れたあとも、僕は毒気にあたったように、呆然としながらずっとお兄ちゃん
との会話を頭の中で反芻していた。
まさか、お兄ちゃんから恋のことで”アドバイス”を受けることになるとは、思わなかった・・・

僕は、今さらながらお兄ちゃんと琴子の、いったいどこを見てきたのだろうという思いに駆
られていた。
お兄ちゃんが、琴子を本当に心から愛していることは、よくわかっているつもりだった。
でも、今日僕は、本当の意味でお兄ちゃんの愛の大きさを思い知らされた気がしていた。

確かに、最初は迷惑がっていたんだ・・・それが、いつからかお兄ちゃんも琴子のことを好
きになっていた。
そして今は、あの、ただ真っ直ぐで一途なだけが取り得みたいな琴子の想いを、全部受け
止めて、さらに琴子の気持ちの襞までもしっかりと理解して包み込んでいるお兄ちゃんに、
僕はあらためて包容力という言葉の意味を知った気がしていた。

そして、バスを降りる間際にお兄ちゃんが言った言葉・・・
『琴子と好美ちゃんは違うぞ』

もしかしたら僕は、好美が琴子のようにすぐに会いたいと言ってくるだろうと思っていたの
かもしれない・・・
お兄ちゃんの言葉から、ふとそんな思いが頭をよぎった。

そして、好美が琴子のように、こちらの気持ちもお構いなしに会いたいと駄々をこねてきて、
僕がそれに渋々答えてやるという図式が、あまりにも簡単に頭の中に浮かび上がってきた。
僕はやっぱり心の奥底でそんな打算的な思いがあってこそのあのセリフだったのだと確信
していた。

―好美が、琴子のようにできるわけないのに・・・

僕は、今までの好美との付き合いの中で、どこか物足りなさを感じていた原因を、今知った
気がした。
それは、本当は絶対に認めたくはないことだけど、もちろん本人にも絶対に言えないこと
だけど、僕はどうやら好美に琴子のようであって欲しいという願望があったのかもしれないと・・・

まだ恋が何かも知らない頃から、僕はずっとお兄ちゃんと琴子を見てきた。
あの誰にも心を許さなかったお兄ちゃんが、琴子の前でだけ感情をあらわにしていること
が不思議でならなかった。
琴子が、お兄ちゃんへの叶わぬ想いに、何度も涙を流しているところを見たこともあった。
結婚してからも、お兄ちゃんがあえて冷たく琴子を突き放しながらも、琴子の精神的成長
を願っていたことも知っていた。
そして、二人のちょっとした仕草や言葉に、深い愛情が込められていることを、羨ましいと思っ
たことも何度もあった・・・


僕は、どこを通ってきたのかもわからない程、深く考えながら歩いていたらしい・・・気付けば、
いつのまにか学校の門の前に立っていた。

定期試験が始まるのは明後日・・・
でも、もうそんなことは気にならなくなっていた。

僕は携帯電話を取り出すとメールの画面を開いて、素早く好美へメールを打った。

<会いたい。今日の放課後、そっちの学校の校門で待ってる>

僕は、迷うことなく送信ボタンを押すと、始業10分前のチャイムが鳴る校舎へと入っていった。
お兄ちゃん夫婦への憧れは、確かにある・・・いつか誰かと結婚した時、お互いをあんな風に
想い合えたらきっと幸せになれるだろうと・・・

―でも、好美は琴子じゃないんだ・・・

僕の勝手な思い上がりと思い違いで、好美に寂しい思いをさせたことを今さらながらに後悔し
ていた。

―まだまだ、僕はお兄ちゃんには、追いつけないな・・・

でも僕は、いつかお兄ちゃんのように、誰かの・・・いや、好美の想いを全部受け止めて、すっぽ
りと包んでやれるような、そんな男になるんだと、心に強く誓っていた・・・


                                                 END




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