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 弟へ・・・


「琴子と好美ちゃんは違うぞ」
オレは、バスのドアが閉まる間際、裕樹に向かって忠告した。
面食らった顔をした裕樹が、動き出したバスの窓からずっとオレを目で追っていた。

―Good luck!

オレは、走り去ったバスに向かって、小さくつぶやくと病院へと続く道を歩き始めた。



あれは昨日の夕方のこと・・・
病院から帰宅して、家の前まで来ると門扉越しに家の中を覗いている女の子の後姿が見えた。
康南(斗南)高校とは違う制服を着たその後姿には見覚えがあった。

「好美ちゃん?・・・」
オレは、できるだけ彼女を驚かさないように、そっと声をかけた。
しかし、そんな気を使う必要などまったくなかったと思えるほどに、彼女は短く悲鳴に似た声
を発しながら飛び上がるようにこちらを振り向いた。

「あっ、ゆ、裕樹君のお兄さん・・・」
彼女は、オレを見てなぜか少しホッとしたような表情を浮かべて、胸に手を当てながら大きな
深呼吸をひとつした。

「どうしたの、こんなところで・・・裕樹?それとも琴子?・・・」
オレは、彼女が会いに来た相手に取り次いでやろうと、門を開けながら尋ねた。

すると、彼女は思いがけず大きくかぶりを振って「いいえ、いいんです」と、答えてオレに背を
向けた。

「えっ?・・・お、おい、好美ちゃん!」
オレは、取り付く島もなく歩き出した彼女に、慌てて声をかけた・・・しかし、彼女は振り返りも
せずまるで逃げるように去っていく。

そんな彼女の背中を、オレは不審に思いながらしばらく見送っていた。
すると、だいぶ小さくなった彼女の後姿が、唐突に止まり、慌てたようにこちらを振り向いた。
そして、門の前にまだオレが立っていることを確認すると、走ってこちらへ戻ってきた。

「あ、あの・・・お兄さん?・・・今日、私がここにいたこと、裕樹君には言わないでください・・・
お願いします」
彼女は息を切らせながらオレにそう訴えると、オレの返事も待たずに再び背中を向けた。
その時、オレは咄嗟に彼女の腕を掴んでいた。
なぜだか、引き止めなければいけないような気がしたから・・・

不意のことに驚いて振り向いた彼女は、目に涙をいっぱいに溜めて、戸惑いの表情を浮かべ
ていた。
オレは、出きるだけ優しい微笑みを作って、彼女に聞いた。
「裕樹と何かあったの?」

しかし、彼女は瞬きをした瞳から、大粒の涙を頬に零して、ただ首を横に振るだけだった。
そして、オレはそれ以上何も聞けず、そっと掴んでいた手を離すと、彼女は再び背中を向け
て走り去って行った。

オレは、まだ馬祖から帰って来たばかりの頃に、同じような光景を見たことを思い出していた。
あの時も、オレが仕事から帰って玄関を開けた瞬間に、彼女が泣きながら飛び出して来たんだ。
そして、その原因は裕樹の棘のある言葉だったと、後から聞かされた・・・

きっと、昨日の彼女の涙も、裕樹が原因に違いない・・・オレは、そう確信して家の中に入って
いった。
しかし、オレは夕方の出来事を裕樹にはもちろん、琴子にも話さないでいた。
それは、昨日の彼女の泣き顔が、さまざまな場面で見た琴子の泣き顔を思い出させたから・・・
そして、その泣き顔は、なぜか大学に通い始めた頃の琴子の顔ばかりだった。

あの頃のオレは、本当に琴子をよく泣かせていた。
きっと、オレが目にしたその泣き顔の、おそらく何倍もの涙を琴子は流していたに違いない・・・
だから、昨日の出来事を琴子に話さなかったのは、オレのあの頃への後ろめたさだったように
も思う。

しかし、だからと言って、昨日の出来事は裕樹と彼女の問題で、オレが口をはさむことではな
いと、その時は思っていた・・・

今朝、朝食の食卓につくと、何度も携帯電話を見てはイライラとしている裕樹が目に付いた。
そして、琴子の誘導尋問にみごとに引っかかった裕樹を見て、昨日の好美ちゃんの涙の原因
がはっきりした時、オレの脳裏には、ある思い出がくっきりと蘇ってきた。

あれは、琴子がほんの一時期、あの頃住んでいた家を出て行った頃のこと・・・
ずっと目障りだった奴が出て行って、清々したと思っていたはずなのに、オレはほんの数日琴
子の顔を見なかっただけで、自分から会いに行ったことがあったことを。
もちろん、琴子自身は、オレが自分に会いに来たなどという意識はない・・・増してや、あの頃の
オレには、本当は自分が琴子に会いたがっているということすら、わかってはいなかった・・・
あの時は、ただほんの気まぐれでテニス部の練習に参加したつもりだった・・・でも、本当は琴
子の顔が見たかったのだと思ったのは、ずっと後になってのことだった。

それでも、久しぶりにオレと顔を合わせた琴子の嬉しそうな顔は、不機嫌を装って琴子を見つ
めるオレのココロに深く刻まれていた。

その後も、同じような場面はたくさんある・・・自分から突き放しておいて、結局我慢できなくなる
のは本当はオレだったということ・・・
そして、そんな時の琴子の嬉しそうな顔が、どれ程オレを幸せな気持ちにしてくれただろう・・・

オレは、琴子の攻撃をかわして席をたった裕樹を見て、咄嗟に一緒に席を立った。
なぜか、裕樹にもオレと同じ幸せを味合わせてやりたくなった。
一度知ってしまうと、きっと病み付きになるこの幸せを・・・

オレは、病院へ続く道を歩きながら、ふと緩んでくる口元を手で隠しながら、バスの窓越しに見
えた裕樹の顔を思い浮かべた。

―きっとあいつのことだ・・・何かを感じてくれているにちがいない。

オレと琴子のこれまでを、小さい頃からずっと見てきた裕樹だから、せめて自分の恋には素直
に誠実に向き合って欲しいと思う。
それは、ほんの少し先に、人を愛することの意味を知った者としての願い。


裕樹には、決してオレのような遠回りをせずに・・・
そして、彼女がもう二度とあんな辛い涙を流さなくて済むように・・・


                                                 END




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