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 密かな幸せのひととき


私は、時々入江君のオフィスにこっそり忍び込む・・・

それは、入江君が外来で診療中の時、手術中の時、私が仕事で入江君がお休みの時・・・
今も、入江君は手術中だから、見つかる心配はない・・・

ハートのキーチェーンのついた鍵を鍵穴に差し込むと、なぜかいつも胸がドキドキする。
それは、高校の頃、意味も無くA組の教室の前を行ったり来たりしていた時の気持ちと似て
いるような気がする。

そこは、いつも入江君の気配があるのに、決して私には手の届かない世界の入り口・・・
どこか神聖で、近寄りがたくて、それでいて温かくて、とても愛おしい場所。

―家の私たちの部屋とは、またちょっと違うのよね・・・

私は、ひとりでクスクスと笑いながら、デスクの前の椅子に腰掛ける。
まず最初に、部屋の中をぐるりと見回してみる、きちんと整理された部屋は、どこにも手を触
れるなと言われているようで、私はホコリひとつ立てないように慎重に行動する。

この部屋の鍵を渡された時、まるで入江君が一人暮らしをしていたマンションの鍵を貰ったか
のように嬉しかったけど、彼氏の部屋へ行って、甲斐甲斐しく部屋を掃除してあげるなんてい
うシチュエーションは、私には一生無縁なことなんだと、ここへ来るたびに思い知らされる・・・

次にそっと引き出しを開けてみる・・・

いつ見ても同じように並べられている、私が入江君に贈ったものの数々・・・
これがここにあることが今でも信じられない気もするけど、これを手にとって眺めながら、思い出
に浸るのがこの部屋へ来る一番の楽しみ・・・
こうして私はこのオフィスで、密かな幸せのひと時を過ごす。

初めて書いたラブレター・・・
これを書いた時、これを渡した時、受け取ってもらえなかった時、次々に浮かんでくる思い出
のシーンが今ここに座っている私の全ての原点・・・
これを手に取るたびに、入江君に私のことを知ってもらいたくて、私の思いを伝えたくて、ただ
ただ一生懸命だったあの頃の私が蘇る。

入江君が、私の名前を「相原琴子」だって覚えてくれればよかった。
会えば「おはよう」って、気軽に挨拶できるようになれればよかった。
そう、そして時々私に向かって微笑んでくれればよかった。

あの頃の入江君は、本当にイジワルだったけど、いつの間にか私を「琴子」って呼んでくれるよ
うになり、「おはよう」と言えば、不機嫌そうな声でも「おはよう」と答えてくれるようになった。
なかなか笑顔を見せてはくれなかったけど、ひとつ屋根の下に暮らしていられるだけで幸せだ
った。

今でも、手を繋いで街を歩いたり、公園のベンチに並んで座ったり、そんな恋人らしいことは何
もしてくれない入江君だけど、ギュッと抱きしめてくれた時や優しいキスをくれる時に確かに入
江君の「愛してる」を感じることができる・・・
入江君は、私の想いを受け止めてくれて、私を好きになってくれて、私を愛していると言ってく
れた。

もう、結婚して何年たつのかな・・・
それでも、私はいつまでたっても、こんなに入江君が大好きで、入江君と一緒にいる時が何より
も一番幸せで、あの頃のときめきとか、切なさとかの全部が、今でもこんなに胸の中で息づいて
いる・・・


―はぁ〜幸せ・・・


散々物思いに耽ったあと、ふと目を上げると、ソファの上に入江君の白衣が無造作に掛けられ
ているのが目に入った。
私は椅子から立ち上がると、ソファの前へ行って、その白衣を持ち上げた。
皺になるから、たたんで置いてあげようと思いながら、ふと手を止める。

「こんなのたたんで置いたら、勘のいい入江君のことだから、私がここに入り込んでいたのがば
れちゃうじゃない!」

私は、我ながら鋭いことに気がついたと満足しながら、ふざけてその白衣を羽織ってみた。
指の先までしっかりと手を伸ばしても、爪の先も覗かない長い袖に思わず笑いが込み上げる。

私と結婚した今でも、入江君が女の子達にとても人気があることは知っている。
でも、この部屋に自由に出入りできたり、増してやこんな風に入江君の白衣を着てみることが
できるのは、この世で私だけなんだと思うと、それだけで心がフワフワとした幸せで満たされる・・・

「さあ、そろそろ出ないと、入江君の手術が終る時間になっちゃう・・・」

私は、誰もいないのをいいことに、ひとり声に出してつぶやきながら、思いとは逆にソファに腰掛
けていた。羽織った白衣の前を重ね合わせて、ほんの少しのつもりで目を閉じる。

入江君に片思いをして、たくさん涙を流してきた。
本当に辛いこともあって、何度もあきらめようとも思ったけど、冷たい表情や、きつい言葉の裏
側で、本当はいつも私のことを思ってくれていたことが、嬉しかった。

思えば、片思いの頃からずっと思い描いていた私の夢は、ちゃんと叶っているんだよね・・・
私、入江君に愛されてるんだよね・・・
これからも、ずっと一緒にいられるよね・・・
ずっと、ずっと・・・幸せは続いて行くんだよね・・・


―入江君、大好き・・・


私は、幸せな気持ちと、ちょっと消毒薬の匂いのする入江君の白衣に包まれていつの間にか眠
ってしまっていたらしい・・・

「おい、琴子!」
遠くで入江君が私を呼んでいる気がした。

「おい、起きろよ、琴子!」
今度はやけに近くで、聞こえた。

―えっ?・・・夢じゃないの?

恐る恐る目を開けると、呆れ顔の入江君が私を見下ろしていた。

―うそ!私ったら眠っちゃってたの?

私は、あまりの驚きに、身動きひとつできずにいた。

「白衣返してくれ・・・」
怒られると思って、固く目を閉じていた私の耳に、なぜか入江君の声はとても優しかった。
白衣の襟に入江君の手がかかる・・・
そして、思いもかけず入江君の唇が私の唇に押し当てられた・・・

―これは、夢のつづき?・・・

でも、キスはとてもリアルで、これが夢の中のこととは思えなかった。
それは、つまり私の密かな楽しみが、とうとう入江君にばれてしまったことを意味する・・・

私は入江君のキスに身を任せながら、朦朧とする頭で考えていた。

これで、もしこの部屋の鍵を取り上げられちゃったら、どうしよう・・・・
それは、絶対にイヤ!・・・・・と。


                                                 END




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