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 幸せな偶然 〜「密かな幸せのひととき」アンサーストーリー〜


「入江先生は、こちら?・・・」
手術を終えて、医局で引継ぎをしているオレに声がかかった。
見ると、ドアを細く開けて、心理カウンセラーの一条紗江子が頭だけを出して部屋の中を見回
している。

「ここですよ、一条先生・・・」
オレは、話をしていた同僚医師に、持っていたカルテを渡してドアの前まで歩いていった。

「あっ、いたいた・・・入江先生、今お忙しいですか?」
一条紗江子は、ほっとした顔をしながら聞いた。

「今丁度、引継ぎが終ったところですよ・・・何か用ですか?」
オレは、一条紗江子を外科の医局へ招き入れながら聞いた。

「ええ、入江先生も担当している田村さんのカウンセリングを私がすることになって、治療経
過を見たいんですけど、カルテは入江先生が持ってるって聞いたものですから・・・」
一条紗江子は、なぜかとても親しげにオレを見上げながら笑顔を浮かべている。

「ああ、田村さんのカルテはオフィスだな・・・今、白衣を取りに戻ろうと思ってたんで、カウン
セリングルームへ持って行きますよ」
オレは、引継ぎをした同僚医師に軽く手を挙げて合図を送ると、医局のドアを開けて廊下へ
出ながら言った。

「あら、わざわざ持ってきてもらうのは悪いから、一緒に行って頂いて来るわ・・・それに・・・」
一条紗江子は、オレと並んで歩きながら、含みを込めるようにして言いよどんだ。

「それに、なんですか?」
オレは、一条紗江子の言い方に少し嫌な予感がして、眉根をあげながら聞き返した。

「入江先生のオフィスって、なかなか中に入れてもらえないって、ナース達が言っていたから、
ちょっと興味があって・・・私が行っても、やっぱりドアの前で待たされるのかしら・・・」
一条紗江子は、オレを試すように、笑みを浮かべた顔を向けた。

オレは、正直に言って、この心理カウンセラーが苦手だ。
職業柄か、常に微笑みを絶やさず、誰に対しても優しくやわらかな物腰は、オレから見れば、
どこかとらえどころがなく気がつけば、いつも彼女のペースにはまっていることが多いのが、
彼女が苦手な一番の理由だ。
その切れ長の目に捉えられれば、たちまち心の奥底までも見透かされているような気がして
しまう。
しかし、なぜか彼女には、忘れていたこと、気付かずにいたことを、何度も教えられて来たこ
とも事実だった・・・

「別に、誰にだって門前払いをしたつもりはありませんよ・・・ちょっとした物のやりとりに、わざ
わざ中に通す必要もないと思っているだけです」
オレは、あえて前を向いたまま淡々と答えた。
すると、すぐ隣からクスクスと笑う声が聞こえてきたが、一条紗江子はそれ以上何も言わなか
った。

―まったく、やりにくいな・・・



オレは、オフィスの鍵を開けて、ドアに手をかけながら、ふと後ろに立つ一条紗江子の気配を
うかがった。

<私が行っても、やっぱりドアの前で待たされるのかしら・・・>

ついさっきの彼女の言葉が頭に浮かんで、一瞬そのまま部屋に入ることがためらわれた。
別段、意地になっているわけではないが、そこまで言われて彼女をこのドアの前で待たせて
おくのもはばかられるような気がした。

オレは、一瞬一条紗江子の目を見てから、ひとおもいにドアを押し開けて右側によけると、道
を開けて中に入るよう促した。
すると、一条紗江子はオレに笑顔を向けると、何のためらいもなく、オフィスの中に足を踏み
入れた。
ところが、ほんの2、3歩歩いたところで、彼女が不意に立ち止まり「あら・・・」と声をあげてオレ
を振り向いた。
そして、彼女の視線の先に目を向けたオレは、驚きとと共に深いため息をついた。

部屋の奥に置かれたソファで、琴子が眠っていた。
それもなぜか、オレの白衣にくるまって・・・

琴子にこの部屋の鍵を渡したのは、誰でもなくこのオレだ。
オレが、不在の時を狙って琴子がこの部屋に入り込んでいることは、百も承知だった。
これだけ、思い出の品を並べられて、入るなという方が無理に決まっている・・・
外来が終った後や手術の後などに、ここに戻ると、直前まで琴子がいたことを漠然と感じるこ
とが何度もあった。
それは、たぶんオレにしかわからない琴子の気配・・・まるで残り香のように、疲れた体にオレ
にまとわりつく優しい気配だった・・・
何もコソコソと入り込まなくてもいいだろうと思いながら、琴子がそれを楽しんでいるのなら、
それでいいと放っておいた。もしいつか鉢合わせをするときが来たら、せいぜい大げさに驚い
てやろうとも思っていた。

それなのに・・・どうして、めったに人を入れることのないこの部屋に、本当に珍しく他人を招き
入れたこんな時に限って、こんなところで寝てるんだ・・・

―お前って奴は、ホントに・・・

一条紗江子が、オレと眠っている琴子を交互に見つめて笑っている。
オレは、もう一度ため息をつくと、「まったく・・・」とつぶやきながら、琴子を起こそうと一条紗
江子の横をすり抜けた。すると、一条紗江子はオレの腕を掴んで引き戻すと、それを阻んだ。

「待って・・・何も起こすことはないわ・・・」
一条紗江子は、オレを見上げながら、首を横に振った。

「しかし、白衣を・・・」

「私は、田村さんのカルテが欲しかっただけですもの・・・それを貰ったらすぐに退散するから
そのあとでゆっくり眠り姫を起こしてあげればいいわ・・・ねっ、王子様・・・」
一条紗江子は、そう言うとオレをの目を探るように見ながら、少し首を横にかしげて微笑んだ。

―そうだ、この目だ・・・この何もかもお見通しって目が苦手なんだ。

オレは、琴子を横目で見ながらデスクに立てかけてあるファイルの中から、田村さんのカルテ
を引き抜くとじっと琴子を見つめて微笑んでいる一条紗江子に手渡した。

「ホント、彼女って可愛らしいわね・・・」
一条紗江子が、カルテを受け取りながらつぶやいた。

「可愛いですかね・・・あれが・・・」
オレは、半分口を開けて眠っている琴子を見ながら、謙遜でもなく本音で答えた。

「あら・・・もう結婚して5、6年は経つんでしょう?・・・それなのに、琴子さんは、いつもいつもあ
なたのことで一杯で、ずっと恋し続けてるって感じが、見ていてとても微笑ましいけど・・・」
一条紗江子は、オレの答えが不服だったのか、少し不満げな声で言った。

「そろそろ結婚してるんだって自覚して、もう少し落ち着いてもいいんじゃないかと思いますが
ね・・・」
オレは、たぶん心にもないことを、言っていた・・・それは、社交辞令のようなつもりだったのか
もしれない。
しかし、この隙を一条紗江子が見のがすわけもなく、彼女はオレの顔を見上げると、意外そう
な表情を浮かべて言った。
「それは無理よ・・・だって、琴子さんをこんな風に仕向けたのは入江先生なんでしょう?」

「えっ?・・・」
オレは、あまりに思いもかけない言葉に、思わず一条紗江子の顔を見た。

「えっ?って・・・これって天才入江直樹の作戦なのかと思ってたわ・・・へえ、違うんだ?意外
ね・・・」
一条紗江子は、クスクスと笑うと再び琴子の顔を見て微笑んだ。

「どういうことですか?・・・」
オレは、できればあまり会話をしたくないと思っていたことも忘れて、聞き返していた。

「ホントにわからないの?・・・どうして、琴子さんがこんなにもずっとあなたに恋し続けている
かってことを・・・」
一条紗江子は、本当に意外だったらしく、その言い方には少しあきれたようなニュアンスが感
じられ、オレが黙ったままでいると、さらに話を続けた。

「入江先生と琴子さんの馴れ初めについては、たぶんこの病院の中で知らない人はいないわ
よね・・・あなたは、ずっとあなたに片思いをしていると思っていた琴子さんに、ある日突然プロ
ポーズをしてたった二週間で結婚式を挙げたって聞いたわ・・・」

―それがどうしたっていうんだ・・・

「それってつまり、琴子さんに女の子が一番したかったことを、させてあげなかったってことで
すもんね」
一条紗江子は、我が意を得たりといった顔をして、言葉を切った。

「琴子が一番したかったこと?・・・」

「そうよ・・・恋人と手をつないで歩いたり、愛を語り合ったりったりすることは、女の子にとって
は、本当に宝物のように大切なことなのよ・・・でも本当なら、結婚する前に経験するとても大

切ないくつかの段階を彼女はそれと知らずに飛び越えてしまったんですものね・・・だから、
琴子さんにとっては結婚が、恋愛ってことなんじゃないかって思うのよ・・・」
一条紗江子は、眠っている琴子に気を使って、小さな声で囁くようにオレに話して聞かせた。

「琴子にとっては、結婚が恋愛?・・・」
オレはひとりごとのようにつぶやいた・・・

「そうよ・・・だって、あなたにプロポーズされた時、彼女にとってはまだあなたのとの恋すら始
まっていなかったんですもの・・・そうでしょう?
まあ、そう考えてみれば、入江先生にとっても同じことかもしれないわね・・・どうやら、天才入
江直樹も女心にまでは精通していないみたいだから・・・ということは、とても幸せな偶然が重
なったってことなのね・・・」
一条紗江子は、そう言うとオレの顔を覗き込んでフフッと小さく笑った。


確かに、オレがプロポーズしたその時まで、琴子はオレに好かれているとは思っていなかった。
でも、たった2週間で結婚式を挙げたのはオレの意思ではない・・・

―まさか、オフクロ?・・・

一瞬、これもオフクロの作戦かと戦慄を覚えたが、いくらオフクロでもそこまでは計算していな
いだろうと思い直した。
いずれにせよ、結婚してから今までを思い起こせば、琴子は確かに、何かにつけてオレと二人
きりの特別な時間を欲しがった・・・そして、そのことと、今一条紗江子が言ったことがあまりに
合致していてオレは妙に納得してしまっていた。

「じゃあ、入江先生、私はこれで・・・田村さんのカウンセリングの時には、もしかしたらご同席い
ただくかもしれませんので、その時はどうぞよろしく・・・」
一条紗江子は、一瞬にしてカウンセラーの顔に戻り、型どおりの挨拶をして部屋を出て行こう
とした。

オレは、「わかりました」とひと言答えただけで、また彼女のペースにハマったことを痛感しなが
らその背中を見送った。

すると、ドアに手をかけた一条紗江子が、振り向いて言った。
「もし、琴子さんにそのままでいて欲しいなら、入江先生もそのままでいることね・・・妙に所帯じ
みちゃったりしたら、あっという間に琴子さんに愛想をつかされるわよ・・・ふふ・・・」

―琴子に愛想をつかされる?・・・オレが?・・・

閉じたドアに向かって、またため息が出る。
それは、なぜかオレと琴子のことに関わろうとする一条紗江子に、不本意ながらもまた新たな発
見をさせられたという思いからに他ならない。


オレは、ぐっすりと眠り込んでいる琴子の前に跪くと、額にかかった髪をかき上げてやりながらし
ばらくその寝顔を見つめいてた。

―お前が、どうしてそんなにもオレのことが好きなのか、ようやくわかったよ・・・

そして、オレがどうして、こんなにも琴子を愛しているのかも・・・

どこかけじめがないまま始まった結婚生活が、本当なら生活に追われる中でどこかに置き忘れ
てしまう恋する心を今でも琴子の胸の中で息づかせている・・・
それは、すべてが偶然のなせる技で、どこかに誰かの意図など微塵もない。
でも、だからこそオレ達は、今もこんなにお互いを想い合っていられるのだということを、今日一
条紗江子に教えられた。

「おい、琴子!」
オレは、まず耳元で囁くように琴子に声をかけた。
しかし、琴子はほんの少し眉間に皺をよせただけで、目を覚ます気配はない。

「おい、起きろよ琴子!」
オレは、今度は肩を揺すりながら、少し大きな声で琴子を呼んだ。

すると薄っすらと目を開けてた琴子は、オレと目が合った瞬間に再び目を閉じて身をを硬くして
いる。大方、怒られるとでも思っているのだろう・・・

「白衣返してくれ・・・」
オレは、怒ってはいないことをわからせるために、あえて優しく琴子に話しかけた。
しかし、琴子は固く閉じた瞼を開けようとしない・・・

―やっぱり眠り姫の目を開けるには、これだよな・・・

オレは、琴子が着ている白衣の襟を掴んで引き寄せると、そっとその唇に唇を寄せた・・・

―愛してる・・・

この時、琴子がどんな気持ちでオレのキスを受けていたかを、その時のオレは知るよしもなかっ
た・・・
ただ、敬遠しているつもりの一条紗江子から聞かされた、琴子の恋心は、不思議なほどストンと
オレの心に落ちて、込み上げる愛おしさを、伝えずにはいられない気持ちにさせていた。



その夜・・・琴子から奪い返した白衣を着てICUに詰めていたオレは、何度か琴子の気配を感じ
て後ろを振り向いた。
それが、白衣についた琴子の香りのせいだと気付いたのは、オフィスで仮眠をとろうとした時だ
った。それは、琴子のシャンプーの甘い香り・・・疲れたオレを癒す香り・・・

<ねえ、この部屋の鍵・・・取り上げたりしない?>
心配そうな顔で、オレを見上げた琴子の顔が蘇った。

<なんで、取り上げるんだよ?>
そう聞き返したオレに、琴子は嬉しそうな顔で抱きついた。


オレは、夕方の出来事を思い出しながら、白衣の前を合わせて、そっとソファに身を横たえた。
微かに残る琴子の香りに包まれて、目を閉じる・・・

琴子の恋が永遠に続くようにと願いながら・・・
オレの想いは、決して変わらないと誓いながら・・・
そして、一条紗江子の言った幸せな偶然に、心から感謝しながら・・・

                                                   END




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