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 キスに込めた思い


オフィスのドアをノックする音が聞こえ、こちらの返事を待たずにドアが開く。


―琴子だ・・・


「入江君?・・・まだいてよかった。仕事が長引いちゃって、もう間に合わないかと思った」
琴子は、ここまで走ってきたのか、息を切らせながらオレの前に立った。


オレは、デスクの椅子に腰掛けたまま、琴子の顔を見上げて微笑む。
いつからだろう・・・?
難しい手術の前になると、こうして琴子がこのオフィスを訪れるようになったのは・・・


「大丈夫?・・・だよね!」
琴子は、オレの頬を両手で挟むようにしながら、目を細めて笑う。


「ああ、大丈夫だよ」
オレは、頬にあてられた琴子の手を取ると、両の手のひらで包むように握った。


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そう・・・あれは、まだこのオフィスを与えられて間もない頃、心臓に疾患のある患者の手術を

急に任されたことがあった。
本当は助手として立ち会うはずの手術だったが、執刀医が前日に右手を怪我してしまい、同
じ手術を経験したことのある医者が他の手術を担当していたことから、何度か助手を努めた
ことのあるオレに白羽の矢が立ったのだった。


決して自信がないわけではなかった。
ただ、あまりに急のことで、普段では味わったことのない緊張を感じたことは確かだった。


そんな時だった・・・琴子が、何の前ぶれもなくオフィスにやって来たのは・・・


琴子は、別段オレの手術のことを気にしてやってきたわけではなかった。
ただ、いつもならさすがに仕事の途中でオフィスにまでやってくることはない琴子が、オレが
こんな状態の時にふらりとオフィスへやってきたことが不思議な気がしていた。


「なんだよお前・・・仕事サボってこんなところへ来て、師長に見つかったらまた怒られるぞ」
オレは、緊張を隠しながら、からかうように言った。



その時の、琴子の答えが今も忘れられない・・・



琴子は、戸惑ったように首をかしげながら、言ったんだ。
「うん、私もねどうしてここへ来たのか不思議なの・・・」


「何が、不思議なんだよ・・・」


「だって、なんだか入江君が私を呼んでるような気がして・・・」
琴子は、唇に人差し指をあてながら答えた。


「えっ?・・・」
オレは、驚いて琴子の顔をマジマジと見つめていた。


「ねえ、何かあったの?・・・もしかして、私に会いたいなんて、心の中で念じなかった?」
琴子は、冗談とも本気ともつかない言い方をして、オレの目を覗き込んだ。
もちろん、嘘でもいいから肯定してと、その目は訴えていた。


しかし、オレはただじっと琴子を見つめ返したまま、何も言えずにいた。
なぜなら、琴子が言った通りだったから・・・ほんの数時間前に、執刀医になったことを告げら
れ、その後の仕事は全部別の医師に任せてオフィスに篭った。
繰り返し頭の中で手術をイメージし、手を動かしてシュミレーションをしながら、オレは何度と
なく琴子の顔を思い浮かべていた。


何も答えないオレに痺れを切らしたのか、琴子が苦笑いを浮かべながら言った。
「あはは・・・まさかね、入江君が仕事中に私に会いたいなんて思うわけがないよね・・・ごめん

ね急に。これから、手術の助手でしょ?・・・がんばってね」
琴子は、何も言わないオレが、自分のせいで不機嫌になったと思ったのか、早口でまくし立
てると、ひきつった笑顔を見せながら、オフィスを出て行こうとした。


その時、オレは宙を見つめたまま、ほとんど無意識につぶやいていた・・・
「思ったよ・・・」


「えっ?・・・なんて言ったの?」
ドアに向かって歩き始めていた琴子が、振り返る。


オレは、椅子から腰を浮かすと手を伸ばして琴子の手首を掴んで自分の前に引き戻した。
不意のことに、目を丸くしたまま、琴子が不思議そうにオレを見下ろす。
「思ったよ・・・お前の顔が見たいって・・・」


「ホ、ホント?・・・」
琴子は、いぶかしげにオレを見つめ返したが、その顔にはすぐに嬉しそうな笑顔が浮かんだ。


「今朝になって、急に今日の手術の執刀をするように言われたんだ」
オレは、琴子の顔を見上げて言った。


「執刀って・・・入江君が、手術をするってこと?」
琴子が、驚いて聞き返す。


「そうだよ・・・オレにとっては、初めての難しい手術だ・・・失敗する可能性だってある」
オレは、少し弱気な自分を感じながらつぶやいた。


「恐い?・・・」
琴子が、心配そうに聞く。


「やるしかないよ・・・」
オレは、ため息混じりにそう言った。


すると、琴子は急に声を立てて笑った。
そして、オレが驚いてその顔を見上げると、そっとオレの頬を両手で包むようにして言った。
「入江君が、失敗なんてするはずない!・・・大丈夫だよ、だって入江君は天才だもん。

神様だって味方してくれるよ・・・私が保証する!」
琴子のそのあまりにキッパリとした言い方がおかしくてオレも笑った。
そして、そのまま琴子の背中に手を回して抱きしめた。


「そうだ・・・いい事思いついた」


座ったまま、立っている琴子を抱きしめていたオレの頭の上で、琴子が不意に言った。
体を離して見上げると、琴子は満面の笑みでオレを見下ろしている・・・


「ねえ、おまじないしてあげる・・・」


「おまじない?・・・」


すると、琴子はオレの前髪をかきあげて、額にその唇を押し当てた。
なぜか、不思議な感慨が体を駆け抜けた、今までこんな風に琴子のキスを受けたことがあっ
ただろうか・・・額に感じたやわらかな唇の感触が、それまでオレにまとわりついていた緊張を
取り払って行くように感じられた。


「どう?・・・効き目あるよ、きっと」
琴子は、唇を離すと自信ありげに言った。


「ああ、あるかもな・・・」
オレは、やけに素直に答えていた。


「ホント?・・・ホントにそう思う?」
琴子は、オレの答えが意外だったのか、頷くオレを嬉しそうにもう一度抱きしめた。


そして、その日の手術はもちろん大成功だった。
それから、オレにはたびたび難しい手術が回って来るようになり、医師としての腕もあがって
行く中で責任の大きさも膨らんでいった。


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オレは、決してげんを担いだりすることはない、手術などというものは、知識と経験が全てだ
と思っている。
ただ、今では手術前のこの儀式がないと、どこか物足りなく思うようになったのことは認めざ
るを得ない。


あの日思ってもいないほどの緊張感の中で、無意識に求めていたものが琴子だったという
事実・・・そして、琴子は不思議な力に導かれてオレの元に現れた。
オレは、自分にとって琴子という存在がどれ程大きなものかと言うことを、あらためて実感し
ていた。
いつも、オレだけが琴子を支え、守っているように見せかけて、本当はオレも琴子に支えら
れているのだと言うことを思い知らされた。


だから、素直に・・・


そう、素直にこの時を受け入れる。
琴子の温かな唇がオレの額に押し当てられて、自信と力を注いでくれる瞬間を・・・


「なあ、琴子?・・・前から聞こうと思ってたんだけど、どうして額なんだ?オレはこっちの方が
いいんだけど・・・」
オレは、自分の唇を指差しながら聞いた。


すると、琴子は照れたように顔を赤らめながら答えた。
「だめだよ・・・そこにキスするときは、”大好き”がこもってるんだから・・・」


「ふーん・・・じゃあ、ここにするキスには、何がこもってるんだよ」
今度は、額を指差しながら聞いた。


「そ、そこには、”がんばって、私がついてるよ”っていうのが、こもってるの!」
琴子は、胸を張って自信ありげに答えた。


「お前がついてても何の役にも立たないけどな・・・」
オレは、わざといじわるに答えて、にやりと笑った。


「もう〜絶対にそう言うと思った!・・・でもね、夜恐い夢を見て目が覚めた時とか、悲しいこと
や辛いことがあった時に、入江君が私のおでこにチュッってしてくれるとね、私、本当にすごく
安心して眠れたし、悲しいのも辛いのも薄れていくような気がしたの・・・だから、やっぱりおまじ
ないはおでこじゃないとね・・・」
琴子は、思い出をかみしめるように、穏やかに微笑みながらそう言った。


「さあ、時間だ・・・お前も早く仕事に戻れ」
オレは、立ち上がると、琴子の頭に手を乗せてその顔を覗き込むようにして言った。


「う、うん・・・がんばってね」
琴子は、拳を握りしめて力強く言った。


「ああ、大丈夫だよ」
オレは、笑みを浮かべて穏やかに答える。


そして、大きく頷いた琴子の唇に不意打ちのようなキスをした。
琴子が、驚いた顔でオレを見ている。


「これはおまじないじゃないぞ・・・意味はわかってるだろ?」
オレは、そういい残して先にオフィスを出た。



手術室へ向かう廊下を歩きながら、これから立ち向かわなければならない手術へと気持ちは
切り替わっていく。
技術と知識・・・それが、全てを左右することは、わかっている。
そして、オレには、自信がある。
しかし、その自信を支えているのが、この額に残るぬくもりだということも今ではよくわかっている。


オレにとっては医者が一生の仕事であったとしても、琴子はいずれ看護師をやめる時が来るだ
ろう・・・


―その時、オレはどうしたらいいだろう?・・・


ふと、そんな思いが頭をよぎって、オレは思わず苦笑した。
そうなった時は、また別の形が生まれるだろう・・・
オレと琴子が、共に支えながら生きていくことに変わりはない。


目の前に手術室のドアが見えてきた。
これから、尊い命を預かって、オレの戦いが始まる。


”がんばって、私がついてるよ”・・・琴子の声が、頭の中に聞こえた。


オレは一瞬目を閉じて微笑むと、程よい緊張感と共に一気に手術室のドアを押し開けた。


                                             END




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