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 オレの浮気(?)騒動顛末記


『入江君の浮気者!!』

―はぁぁ??・・・・・

オレは、オフィスのデスクの上に置き去りにされた弁当箱に乗せられていたメモを見て、思わ
ず目を見開いた。

「オレが、いつ浮気をしたって言うんだ?」
思わず声に出して言いながら、すぐに「あっ!」と声をあげて、天井を仰いだ。
それは、思い当たる節があったから・・・

―まさか、”あれ”を琴子が見ていたって言うのか・・・

オレは、手の中にあったメモを力一杯握りしめながら、忌々しい気持ちで2時間ほど前の出来
事を思い浮かべていた。



2時間前・・・オレは、第3外科病棟の職員用給湯室の壁に追い詰められていた。
目の前に迫るのは、オレより3、4歳は年上のナース・・・
人一人がやっと立てるほどのスペースで、出口を塞がれてしまっては、相手が自分の意思で
道を開けてくれる以外は、もう力で押しのけて出て行くしかない・・・

「ねえ、入江先生?・・・入江先生だって、本当は、このまま一生琴子だけなんて思ってないん
でしょう?」
目の前のナースは艶のある声で、さらに迫ってくる。

オレは、そんなナースを軽蔑を込めて一瞥すると、無表情なまま静かにひとこと言い放った。
「興味ないね・・・他の女になんか・・・」

オレの言葉を聞いて、みるみるナースの顔に憮然とした表情が浮かぶ。
そして、口元に嘲笑を浮かべたオレを睨みつけながら、捨て台詞を吐いて給湯室を出て行った。
「なによ、あんな幼児体型のどこがいいのよ!」

―ふん、余計なお世話だ・・・

誰もいなくなった空間を見て、思わず安堵の吐息を漏らす。
いやが上にも心臓は高鳴り、オレはしばらくその場で身動きも出来ずに呆然としていた。
琴子と結婚した後も、相変わらずオレの周りで騒いでいる女達はいた・・・しかし、こんな風に
実力行使で迫ってこられたのは初めてだった。
そして、やっとホッと胸を撫で下ろした頃には、今度は沸々とした怒りが込み上げてきた。

―まったく、いい加減にしてくれ!

しかし、その後ICUへ向かい、仕事をこなす内に、そんなことがあったことすら忘れてしまえ
るほど、オレにとっては、大した出来事ではなかったんだ・・・

そう・・・琴子がオレの顔も見ずに置き去りにして行った弁当と、その上に乗せられたこのメモ
を見るまでは・・・

今、この手の中で握りつぶされたメモの言葉を見ても、琴子が事の成り行きを最後まで見て
いないのは明かだ・・・

―じゃあ、どこまでを見たんだ?

あのナースの手がオレの肩にかかった時か?・・・それとも甘い言葉でオレを誘っている時か・・・
オレは、何かが起こりそうな嫌な予感に囚われながら、再び大きなため息をついた。

「オレには、何もやましいことなんかないぞ!」
オレは、胸の中に湧きあがる怒りと、今頃きっと勝手な誤解と妄想で目を泣き腫らしている琴
子を想像しながら、オフィスの誰もいない空間に向かって声に出して言っていた。



翌朝、日勤の医師との引継ぎを済ませて家に戻ると、案の定オフクロが怒り心頭といった顔
をしてオレを待ち構えていた。
まだ靴も脱ぎ終わっていないオレを捕まえて、昨夜の琴子の様子を矢継ぎ早に話して聞かせる。
どうやら、大方の予想通り、琴子は一晩中泣いていたらしい・・・
当の琴子は、随分と早いうちに出勤してしまったらしく、すでにその姿はなかった。

「まさか、オフクロまで本気でオレが浮気なんてしたと思ってるんじゃないだろうな!」
オレは、苦々しいながらも一通りの話を聞き終わってから、オフクロに聞いた。

「もちろん、思ってないわよ・・・でもね、せめて昨夜の内にちゃんと琴子ちゃんに釈明の電話く
らいするべきだったんじゃないの?って言ってるのよ・・・琴子ちゃん、可愛そうに、今朝なんて
瞼が腫れてたわよ・・・」
オフクロは、前で腕を組んでオレの顔を睨みつけている。

「琴子が勝手に誤解しただけだろ!こっちは人の命を預かってるんだ。そんなくだらないこと
にいちいち構ってなんかいられないんだよ」
オレは、吐き捨てるように言うと、次第に増してくる怒りをなんとか抑えながら、階段を上がっ
ていった。

「なるべく早く琴子ちゃんにちゃんと謝りなさいよ・・・」
オフクロの声が追いかけてくる・・・その言葉を聞きいた瞬間に、オレの理性は限界を越えた・・・
オレは、階段の上から下にいるオフクロに向かって叫んでいた。
「オレが琴子に謝らなきゃならないような何をしたっていうんだ!・・・ふざけんな!」

オレは、力一杯部屋のドアを閉めると、持っていたバッグを壁に向かって投げつけた。
忌々しさが、体中を駆け巡る。
昨夜オレに迫ってきたナースにも、勝手に誤解している琴子にも、そして、今オレに謝れとい
ったオフクロにも、とにかく何もかもが腹立たしく、オレはベッドの上に大の字に体を投げ出す
と、そのまましばらく天井を睨みつけていた。



夜勤明けの疲れも手伝ってか、オレはいつの間にか眠ってしまっていたらしい・・・
どれくらい眠っていたのか、肩を揺すられて目を開けたオレを、オフクロが見下ろしていた。

「お兄ちゃん、電話よ・・・病院の一条先生って方から・・・女の人じゃない?まさか昨夜の・・・」

オレは、オフクロが言い終わらないうちに、急いで電話を取り上げると、あごで出口を指しなが
ら目で出て行けと訴えた。
オレに睨みつけられて、渋々出て行くオフクロの姿が見えなくなると、オレは受話器を耳にあ
てた。

「もしもし・・・」

「ああ、入江先生?一条です・・・お休みのところをごめんなさいね。でも、ちょっと耳に入れて
おいた方がいいと思って・・・」
一条紗江子は、どこから電話しているのか、少し声を落として回りを気にしながら話しているよ
うに聞こえる。

「実はね・・・」そう前置きをして、一条紗江子は話し始めた。

今朝、目を腫らして出勤した琴子に、さらに追い討ちをかけるように、昨夜のナースがあること
ないことを言いふらしているらしく、琴子がパニック状態になっていると、一条紗江子は言った。

オレは、話を聞きながら今の琴子の姿が手に取るようにわかって、思わず笑いが込み上げそ
うになった。

―バカな奴・・・

「もう、あのナースは、この病院にはいられないでしょうね・・・」
一条紗江子は、さも苦々しそうに言った。
その言葉は、すなわち一条紗江子は、最初からそれがウソだと見抜いていると言うことだ。

「それにしても・・・入江先生が浮気なんて・・・ふふふ・・・絶対にありえないのに、そんなこと
私にだってわかるのに、どうして琴子さんはあんな風に泣いているのかしらね・・・」
一条紗江子の言い方は、どこか含みを持っていて、何かをオレに示唆しているように感じら
れ、オレはしばらくだまって考えをめぐらせていた。

「あなたしか見えていない琴子さんだから、きっとあなたの言葉なら素直に信じるんでしょうね」
一条紗江子は、オレの答えを待たずに言葉を繋ぐと、この後琴子は桔梗達と飲みに行く約束
をしていたと教えてくれた。

オレは、一条紗江子に礼を言って電話を切ると携帯電話を取り出して、しばらく眺めていた。
一条紗江子が言いたかったことは、おそらくオレに琴子への釈明をしろということなのだろうと
思えた。
琴子は、本当はすぐに、オレの口から「何もなかった」と聞きたかったということなのだろう。

―オレが、腹立ち紛れに琴子を無視し続けた結果が、これだということか・・・

しかし、どこか釈然としないものが、オレを素直にさせることを拒んでいるようで、オレは携帯を
握ったままもう一度、ベッドに寝転んだ。

どのくらいそうしていたのか、窓の外に街灯の明かりが瞬きはじめる頃、オレの手の中で携帯
電話が振動し、着信画面を見ると、桔梗からの電話だった。
オレは、その瞬間、自分がこれを待っていたことに気付いていた。

「もしもし・・・桔梗、今どこだ?」
オレは、ベッドから立ち上がると、部屋の隅に落ちているバッグを拾いながら聞いた。

「直樹さーん、お願いですから、このバカどうにかしてくださいよ〜大して飲んでもいないのに、
どこの大虎かって感じですよ!もう、この猛獣を大人しくできるのは、直樹さんしかいません」
オレは、桔梗の泣き言に苦笑しながら、すでに玄関を出て街へと向かって歩き始めていた。


「もうーーどうして、入江君は電話もしてこないのーーー?どうして、ウソだって言ってくれな
いのーーー?このままじゃ、帰りたいのに、帰れないじゃない!!あ〜ん、入江君に会いた
いよーー!」

桔梗が教えてくれたパブの入り口を入ると、すぐに琴子の叫び声が聞こえてきて、オレは思
わず吹き出しそうになった。

「まったく、所詮直樹さんが浮気なんてするはずないって、わかってるくせに、勝手に妄想して
疑って、自分で自分の首絞めてるようなもんじゃない。ホント、バカよね〜!そんな疑り深い奥
さんなんて、直樹さんもきっと愛想つかしてるわよ!」
桔梗の辛辣な言葉に、琴子の泣き声がさらに大きくなる。

オレは、緩んだ顔を引き締めると、大股で一気に琴子の前に歩み出た。
突然のオレの登場に、同席していた仲間たちが、一瞬で静まり返る。
目の前に立ちはだかったオレを、ぐしゃぐしゃな泣き顔の琴子が見上げている。
オレは、琴子前にしゃがむと、じっとその目をみつめて「帰るぞ」とひとこと言った。

すると、面食らった顔をしていた琴子は、すぐに真顔に戻って、思いもかけず「イヤ!」とオレ
の言葉を拒絶した。

―なっ!今帰りたいって言ってたじゃないか・・・

「ちゃ、ちゃんと、入江君の口から本当のことを聞くまでは、帰らない!」
琴子は、精一杯の虚勢を張って、オレに挑んでくる。

「本当のことって何だよ!・・・オレは、お前に疑われるようなことはなにもしていない、お前が
勝手にひとりで盛り上がってるだけだろ!それとも、オレが本当に浮気をしたとでも思ってる
のかよ!」
オレは、琴子の目を睨みつけながら一気にまくし立てた。

「ち、ちが・・・」

「そんなに信用されてないなら、別にいいさ・・・好きなだけそこで泣いてろよ」
オレは、琴子の言葉を遮って、素っ気なくいうとゆっくりと立ち上がった。

「だって・・・」
琴子の勢いは一気にしぼんで、すでに言葉も見つからない様子だった。

「オレは、怒ってるんだ・・・」

「う、うん・・・」

「でも、迎えに来てやっただろ・・・?」

「う、うん・・・」

「だから、帰るぞ・・・」

「は、はい・・・」

そして、琴子はおぼつかない足取りで、オレに寄り添うと涙をポロポロと零しながら「ごめんなさ
い」とひとこと言った。
オレは、琴子の肩を抱きながら、唖然と見上げている桔梗たちに合図を送って、店を出た。



夜の街を家に向かって歩きながら、琴子は何も言わずにうつむいていた。
本当は、琴子にも、最初からオレが他の誰かになびいたりするわけがないってことはわかって
いたはずなんだ。
結局は、オレが沈黙したことが、琴子をこんな風に追い詰めたのかと、多少は反省する気持ち
もないではなかった。

「お前さ・・・そうやって、すぐに想像を膨らませて、盛り上がるの悪い癖だぞ・・・」
オレは、前を向いたまま呆れたように言った。

「うん・・・でも、すごいショックだったんだもん・・・入江君と女の人のラブシーン・・・」

―おい、ラブシーンなんかしてないって!

「私、もし本当に入江君が浮気したら、きっと生きていられない・・・」
琴子が、ひとりごとのようにつぶやいた。

「ありえないね・・・」
オレは、ため息混じりに答えた。

オレは立ち止まると、琴子の前に立った。
いつまでもうつむいたままの琴子のあごを持ち上げて、そっとキスをする。
月明かりに照らされたオレ達の影が、ひとつになって長い尾を引いていた。

「でも、私どんなことがあっても、ずっと入江君が好きだからね・・・」

―”でも”ってなんだよ・・・結局やっぱり疑ってたってことかよ・・・

オレは、苦笑しながら琴子を抱きしめた。

―本当に、お前のそんなところが好きだよ・・・

理屈なんてない、ただまっすぐにオレが好きだという気持ち・・・
それは、いつもは目もくらみそうな程眩しい光だけど、今夜の月の光のように、時に雲に隠さ
れながらも、一途にそこに存在するやわらかな光のようなお前も・・・

「オレが、すぐに何でもないって言えばよかったんだよな・・・」
最後まで口にすまいと思っていた言葉が、自然と口から出る・・・
琴子は、返事の代わりに腕の中で首を横に振った。


「さあ、行こうか・・・」

オレ達は、手を繋いで月明かりの下を歩き始めた・・・

「それにしても、あのナースってすごいナイスバディーだったよね・・・少しはグラっと来なかっ
たの?」
機嫌の直った琴子が、あまりに露骨なことを聞く。

―来るわけないだろー!

「さあな・・・少しはグラッと・・・」と言いかけたところで、琴子が「来たの?」と噛み付きそうな勢
で聞き返す。

「お前な〜肯定されたら困るような質問するなよ・・・」
オレは、呆れ顔で答える。

「だって・・・」
琴子が膨れた顔をしてつぶやく。

「まあ、オレには、幼児体型の方が合ってるんだよ・・・」
オレは、横を向きながら小さな声で言った。

「えっ?なんて言ったの?聞こえない・・・」
琴子が、オレの顔を覗き込む。

「聞こえなかったんなら、いいよ・・・」

「ええ〜もう一回言って・・・」

「ふーん、言ってもいいのかよ・・・」



                                       END




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