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 相合傘−Naoki


混みあったバスの中に、降りるバス停の名前がアナウンスされオレはバスの中程に移動した。
フロントガラスを激しく叩く雨と、忙しく左右に動くワイパーの向こうに、青い傘を差した琴子の
姿が見えて、オレはなんだかホッとしながら微笑んだ。


五日ぶりに帰る家。
ここ数日は、まさに眠る暇もない程の忙しさ・・・
琴子とも、毎日病院で顔を合わせているとはいえ、何日も続くひとりぽっちの夜に、さすがに
その笑顔も曇りがちだった。

今日の夕方、やっと帰宅を許され、解放されたと感じた時に、思わず琴子にメールをしたのも
オレ自身が、早く琴子を横に置いて、家でゆっくり休みたいと心底願っていたことの現われな
のだろう・・・


バスが停まって、オレは思わず緩む顔を引き締めた。
自動ドアが開くと、ちょうどバス停の屋根の下に駆け込んできた琴子が、息を荒げながら満
面の笑顔でオレを迎える。


琴子が、オレの回りを一回りして、さらにバッグの中まで覗きこむ。
「本当に傘もってなかったの?」・・・不思議そうに聞く琴子に、オレは笑いながら「まあな」と
答える。それで、やっと安心したのか、琴子はさらに満面の笑みでオレを見つめる。


こんな時こそ、いつも素直になれないオレは、「わざわざ来ることなかったのに・・・」なんて、
あえて琴子をがっかりさせるようなことを言ってしまう。
すると、琴子は決まってこう言うんだ・・・「だって、少しでも早く会いたかったから・・・」


本当は、自分でもよくわかっている・・・
この言葉が聞きたくて、オレはわざとつれない振りをしていることを・・・


思った通りの言葉が琴子の唇から漏れ、はにかんだ大きな瞳がオレを見上げる瞬間、オレ
がどれ程癒されているかを、琴子は知っているのだろうか・・・
もう、結婚して何年もたつのに、「会いたかったから」・・・この他愛のない言葉がオレをいつ
も幸せにしてくれる。


「相合傘して帰ろ!」・・・琴子が降りしきる雨に向かって勢いよく傘を開く。
「お前、わざと傘を一本しか持ってこなかったんだろ?」・・・オレの言葉に、琴子が肩をすく
めながら舌を出す。
オレは、小さなため息をついてから、傘を受け取って雨の中へ歩き出す。


オレと琴子の間に、傘が一本・・・


琴子が嬉しそうにオレが傘を持つ手に腕を絡め、時おり傘を見上げてからオレの顔を見る。
オレが自分の肩を濡らしながらも、琴子を濡らさないように傘を差し掛けるというシチュエー
ションに、琴子はこの上なく上機嫌だ。


―まあ、いいさ・・・この5日間、寂しい思いをさせたんだから、これくらいは・・・


家の門扉が見えてきて、琴子がひとつため息をつく・・・
「あーぁ、もう着いちゃった」・・・こんな雨の帰り道、傘が一本でも、琴子にかかればそれは
幸せのひとときなる。
オレは、傘を反対の手に持ち替えると、琴子の肩に手を回して抱き寄せた・・・
傘を低くして、琴子のこめかみを伝う雨の雫を拭うように小さなキスを贈る。
雨に濡れて冷えた体も、触れ合った肩に伝わるぬくもりが、心までも温かくしてくれる。


「たまには相合傘も、いいもんかもな」・・・
思わず漏らした言葉に、琴子が嬉しそうに微笑んだ。




翌日・・・
午前中にひとつ手術を終えてオフィス戻ったオレに、一本の傘とその傘に添えられた一枚
のメッセージが届けられた。


デスクの椅子に腰掛けて、折りたたまれたメッセージを開く・・・


「昨日は、傘を貸していただいて、ありがとうございました。
奥様がお迎えに来ているという先生のお言葉に甘えてしまいましたが、お陰様で濡れずに
帰ることができました。後になって、あなたがこちらの病院の入江先生だということを思い出
しまして、こうしてお返しにあがった次第です。今日は、手術中ということで、お目にかかれ
なくて残念ですが、また診察に参りました折にお礼に伺わせていただきます」

昨日、病院の前のバス停で同じバスを待っていた老婦人の姿が浮かんだ。


琴子からのメールが届いて、オレは手に持っていた傘を見つめながら、途方に暮れた・・・
その時の琴子の気持ちを考えれば、「傘はあるから迎えはいらない」という返事を返すことは
出来ない気がした・・・ただ、このまま傘を持って帰えれば、琴子のがっかりした顔を見ること
は避けられそうにない・・・


別にそんなにこだわることでもないはずなのに、なぜだかオレは、その日の琴子には、満面の
笑みでオレを迎えて欲しかった。


そんな時、急に振り出した雨に、困ったように空を見上げていたその老婦人が目に付いた。
そして、オレより手前のバス停でバスを降りようとするその老婦人に向かって、オレは持って
いた傘を手渡していた。


オレは、目の前の傘を部屋の隅に持って行きながら、思わず微笑んだ。
そして、昨日家に着いた時、門扉にかかっていた琴子の花柄の傘を思い浮かべていた。


―オレがしたことも、琴子があの傘を置き去りにしたのと同じようなことかもな・・・


時に、琴子の愛には不思議な力があると思うことがある。


琴子の小さなたくらみが、誰かを喜ばせたり、助けたりしていることがあることに・・・
琴子のささやかな幸せが、オレだけじゃない誰かを幸せにしていることがあることも・・・


もちろん・・・


本人がそれに気付くことはないのだろうけど・・・


                                           END




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