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 星に願いを・・・


その日は、1年365日を通してみても、おそらく数日あるかないかと思えるほど穏やかな1日だ
った・・・

手術もなく、急患もなく、容態の急変する患者もなく、オレは午前中の外来をこなしたあとは、
午後一杯をカルテの整理に費やしていてその日の勤務を終えようとしていた。

オフィスのドアをノックする音が聞こえ、オレは「どうぞ」と答えながら、無意識にデスクの上に
置かれた時計を見た。

―5時か・・・

「入江君?・・・私、帰るけど入江君はどう?・・・」

ドアが閉まる音と同時に琴子の声が聞こえ、振り向くとすでに私服に着替えた琴子が立って
いた。
今日は、お互いに日勤ということで、もしオレに何もなければ一緒に帰ろうと、朝食の時に約
束していた。

琴子は、期待半分あきらめ半分といった複雑な表情をして、オレの返事を待っている。

「ああ、このカルテが終ったらオレも帰れるよ・・・5分だけ待ってろ」
オレの言葉に、琴子は驚いたように「ホント?」と聞き返しながら、顔を覗き込んでくる。

「なんだよ・・・一緒に帰ろうって、朝、無理やり約束させたのはお前だろ?」
オレは、パソコンのキーボードを打ちながら、素っ気なく答えた。

「だって・・・どんなに絶対だよって約束したって、実現したことなんて数えるほどしか・・・」
琴子が、口の中でブツブツ言っているのを、オレが横目で睨むと、琴子は慌てて口を閉じて
愛想笑いを浮かべた。

オレは、笑いながらモニターに映った電子カルテの最後の一行を打ち込んでから、パソコン
の電源を落とした。



病院前のバス停の屋根が、夕陽に紅く染まっている。
琴子は、オレの少し前をスキップするように歩いていく・・・琴子の後姿から放たれる幸せの
オーラに自然とオレの顔にも笑みが浮かぶ。

「なあ、琴子・・・どこか寄り道していくか?」
オレにしてはめずらしいセリフが思わず口をついて出たのも、琴子があまりに嬉しそうにして
いたからか・・・
ただオレと一緒に帰れるというだけで、そんな嬉しそうな笑顔を見せるなら、もしどこかへ誘っ
たなら、今度はどんな顔をするのだろうという興味が湧いていた。

もう少しでバス停につくところだった琴子は、オレの言葉にピタリと立ち止まると、いぶかしげ
な顔をしてゆっくりと振り返った。

「ねえ、入江君?・・・今、どこか寄り道していくか?って聞こえたけど・・・私の空耳かなぁ?」
琴子が眉根に皺を寄せながら尋ねる。

「いや、確かにそう言ったけど・・・」
オレは、笑いを堪えて答えながら、琴子から視線を外す。

―そんなに意外なことかよ?・・・

すると琴子は、「ホントに??」と言いながら、勢いよくオレの前に駆け寄って来て、頷くオレを
みて、「それなら行きたいところがあるの!」と嬉しそうに言った。



「あのね、3つ先のバス停の近くに、すっごく素敵なカフェがあってね、前から一度行ってみた
かったの。晴れた日は、店先がオープンカフェになってて、テーブルには赤いギンガムチェッ
クのテーブルクロスがかかっててすごく可愛いの、それでね・・・絶対に無理だとは思ってたけ
ど、一度でいいから入江君とそういうところで、お茶を飲んでみたくて、それで・・・」
琴子が身を乗り出して、食いつかんばかりの勢いで話しているのを、オレはのけぞりながら
遮った。
「わ、わかった、わかった!そこでいいよ、そこへ行こう!」

琴子が大喜びで、オレの手を引っぱって行く。
オレは、柄にもないことを言ってしまったことをほんの少しだけ後悔していた、それでも琴子が
喜んでいることに満足しながら、琴子が行きたがったカフェへと向かった。


しかし・・・・・結局、琴子の願いは叶えられなかった。

さすがに人気のあるカフェらしく、平日といえども、会社帰りや学校帰りの客で満席状態。
さらに店の入り口には、席が空くのを待っている客が、少なくとも5、6組は待っていた。
その賑わいを、しばし呆然とした顔で見つめていた琴子は、オレを振り返ると、「帰ろ」とひとこ
と言った。

「待たなくていいのかよ・・・来てみたかったんだろ?オレは待ってもかまわないぞ」
オレは、あまりに引き際のよい琴子が、きっとオレに気を使っているのだろうと思い、そう言った。
しかし、琴子は小さく首を横に振ると、「ううん、ホントにいいの・・・」そう言って、再びバス停に
向かって歩き始めた。

すっかり陽も落ちて、街灯の明かりが灯り始めた舗道を二人で並んで歩く。

「あのね・・・」
しばらく、黙ったまま歩いていた琴子が、前を向いたまま話し始めた。

「今のカフェもね、本当に前から行ってみたくて、出来れば入江君とってずっと思ってたの・・・
でもね、あんなに混んでて、いっぱい待たなきゃならないなら、別に入らなくてもいいって思っ
ちゃうんだよね・・・せっかく入江君と一緒にいられるのに、なんだか時間がもったいない気が
しちゃって・・・ほら、こんな風に二人で歩いたりって、あんまりしたことないから、それだけで
もデートしてるみたいで十分ドキドキするしね・・・」
琴子は、そう言うとまるで照れ隠しのように、えへへと笑った。

オレは、琴子に向かって微笑むと、返事の代わりに手を差し出した。
その手を、琴子が嬉しそうに掴んで、歩く。

「このまま、歩いて帰りたいな・・・」
琴子が、ひとりごとのようにつぶやいた。

オレは、琴子の顔を一瞬見つめてから、何も言わずにバス停の前を通り過ぎた。



並んで歩くオレ達を、夜の帳が追いかけてくる。
街を抜けて、静かな住宅地に入った頃には、見上げれば一面の星空が見えていた。

「ねえ、入江君?・・・今夜は星はいっぱい見えてる?」
琴子が夜空を見上げながら聞く。

「ああ、見えてるよ・・・雲ひとつない星空だな・・・」
オレは、答えながら夜盲症の琴子が転ばないように、握っていた手を離して、肩に手を回した。

「私ね、流れ星って見てみたいな・・・それで、願い事をしたいの・・・」
琴子がひとりごとのようにつぶやく。

「願い事?・・・」

「うん、入江君とずっと一緒にいられますように・・・ってね」
琴子は、オレを見上げて肩をすくめて笑った。

「そんなこと、わざわざ流れ星に願うようなことじゃないだろ・・・一緒にいるのがあたり前なん
だから・・・」
オレは、そう言って笑った。

すると、「うん・・・」と頷きながら、見えない星空を見上げながら、琴子がポツリと言った。
「でもね、あたり前でいられることが、一番幸せなんだよね・・・」

「えっ?・・・」

「私ね、変わったことなんて何も起こらなくていいの・・・ただ、本当にずっとこうして入江君と一
緒にいられたら、それでいいの・・・だから、何か願い事をするときって、いつもそうやって思っ
てるんだよ・・・私」

琴子が凛と胸を張って、オレのことを見る。
オレは、少し眩しい気持ちで、そんな琴子を見つめ返していた。

琴子の愛情は、シンプルでとてもわかり易い・・・そのくせ、その口から語られるピュアで自然
な言葉は、時に何の前ぶれもなくオレの胸を射抜いていくことがある。

オレは、熱いものが込み上げてくる胸を押さえながら、琴子の肩に回した手に力を入れた。

「お前さ、なんでこんなところで、そんなこと言うんだよ・・・」
オレは、半分怒ったように言いながら、琴子を見下ろした。

「えっ?・・・私何かまずいこと言った?」
琴子が急に怒り出したオレに驚いて、焦ったように聞き返す。

「こんなところじゃ・・・」
オレは、言いかけた言葉を切ると、琴子の手を掴んで大股で歩き始めた。

「えっ?・・・ね、ねえ、入江君、どうしちゃったの〜?何でそんなに急ぐの〜?私よく見えない
から恐いよ」

「心配すんな、絶対に手を離さないから!・・・とにかく、早く帰るぞ!」
オレは、後ろの琴子に向かって声をかけた。


琴子に、今のオレの気持ちがわかるだろうか・・・
今すぐに、琴子を抱きしめたくて・・・
その唇に、熱いキスをしたくて・・・


その言葉に、胸を射抜かれるたびに、オレはさらに琴子に参っていく。
何度も惚れ直して、何度も恋をする。

オレは、歩く速度を少し緩めて、前を向いたまま琴子に言った。
「なあ・・・もし、オレが流れ星を見ることがあったら、お前の代わりに祈っておいてやるよ・・・」

「ホント?・・・約束だよ」
琴子が、嬉しそうに言う。

「ああ、約束する」

素直に「愛してる」といえない心が、少し歪曲した約束を交わす・・・
琴子の願い事は、すなわちオレにとっての願い事でもあると、遠まわしに伝えてようとしている・・・
当の琴子にそれが伝わっているのかどうか・・・

オレは、苦笑いを浮かべながら、琴子を見つめた・・・見つめた琴子の瞳に涙が光っていた。
オレが、驚いてその顔を覗き込むと、不意に琴子の唇がオレの頬に押し付けられて、そのまま
首に回された手が、オレを優しく抱きしめた。

「ありがとう・・・」
琴子が、オレの耳元で囁いた言葉は、心なしか震えていた。

―それだけで、十分さ・・・

琴子の背中に手を回しながら、オレはそう思っていた。


今日は、1年365日を通してみても、おそらく数日あるかないかと思えるほど穏やかな1日だ
ったのに、最後にオレは、星空の下で琴子を抱きしめていた。


もし・・・

流れ星を見たら、オレも祈るよ・・・琴子とずっと一緒にいたいって・・・
あたり前の幸せが、ずっとずっと続くように・・・
琴子の代わりにではなく、それはオレの心からの願い事として・・・


―今夜のお前との約束と一緒に・・・きっとな。


                                           END




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